明治神宮大全に寄稿するための「婚礼のモード」をテーマにしたエッセイに、目下、鋭意取り組んでいます。大量の文献を読みこんでいるのですが、そのいくつかの要約を備忘録として残しておきます。以下は、國學院大學神道文化学部教授 石井研二先生による論文『戦後における神前結婚式の隆盛と儀礼の交代』を私なりに解釈して要約したメモです。

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戦後日本における神前結婚式は、伝統的な儀式への関心が薄れていく時代背景にもかかわらず、国民的な儀礼として急速に広まった。これは必ずしも神道の宗教的信仰によるものではなく、むしろその宗教的意味が欠落していたからこそ、簡便で安価という特徴を備えた神前式が都市部を中心に普及していった。戦後の住宅事情に適合し、大衆化された神前結婚式は、戦争で結婚を先延ばしにしていた人々や疎開から戻った人々の切実な結婚需要に応えるものであった。

その中核を担ったのが、明治神宮である。昭和22年に結婚式場を初めて開設した明治神宮は、戦後の宗教法人制度のもとで自立の道を模索し、結婚式場開設を計画するに至った。これは、焼け跡の狭い住まいでは到底行えなかった結婚式を、若い人々に提供しようとする社会的使命感に根ざしていた。明治神宮が日本で最初に、宗教法人として神前結婚式を公的に提供したことは、その後の神前式の隆盛に決定的な影響を与え、神前式の象徴的存在となった。

神前結婚式は昭和40年代にピークを迎えたが、50年代以降、ホテルや会館が競合し、やがて高度経済成長期を背景にチャペルウェディングが登場する。90年代には神前式とチャペル式の交代が鮮明となり、チャペル式は特に「その形式にあこがれていた」という花嫁たちの夢に応えた。オークラや帝国ホテルのような老舗ホテルが宴会場を改装してチャペルを設けるなど、業界側もこれを支持する動きが見られた。

この変化は、結婚式が依然として日本人の人生儀礼の中で特別な意味を持ち続けていることを示している。病院出産の普及や成人式の形骸化により、個人が自ら選び、主体的に参加する儀礼は限られ、結婚式は数少ない「人生のハレ舞台」となった。神前式は戦後の時期においてモダンでスマートな儀礼として受け入れられたが、次第に家制度や忍耐を想起させる伝統の象徴へと変容し、これに対してチャペルウェディングは個人の愛情を祝福する場として新たな意味を獲得したのである。

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神前結婚式が戦後、「モダン」なものとして普及したというのは意外でしたが、それ以前は「人前結婚式」が主だったのですよね。大部屋に親戚などを招いて延々と宴会するタイプの。これは費用も時間もかかるし、そもそも焼け野原の戦後には「大部屋」もない。モダンとはいえ、神前式はまだ「イエ」は背負っていた。チャペルウェディングが選び取られるようになった理由が「その形式にあこがれていた」5割、「ウェディングドレスが着たかった」2割。

*写真は明治記念館庭園 筆者撮影

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