661年、ひとりの天皇が軍船とともに西へ向かいました。滅亡した百済を救援するため、難波から瀬戸内海を経て筑紫へ。60代後半の身での親征です。日本の天皇が自ら軍を率いて海を渡ろうとした例は、歴史上ほとんどありません。その稀有な一人が女性であったことは、もっと知られてよいはずです。第37代・斉明天皇。そして彼女は、第35代・皇極天皇と同一人物です。

594年に生まれ、舒明天皇の皇后となり、642年、夫の死を受けて皇極天皇として即位します。のちの天智・天武となる中大兄皇子と大海人皇子は、彼女の息子たちです。日本書紀は即位の年、彼女が南淵の川上で天に祈ると4日にわたって雨が降り、権勢を誇る蘇我蝦夷の祈雨が失敗した後だけに人々が「至徳まします天皇」と称えた、と記します。祭祀の力で権威を示す古代の王権の姿が、ここには生々しく残っています。

645年、飛鳥板蓋宮の大極殿で、彼女の目の前で蘇我入鹿が斬られました。乙巳の変です。実行したのはわが子、中大兄皇子。政変の直後、皇極は弟の軽皇子、孝徳天皇に位を譲ります。記録に残る限り、日本史上最初の譲位でした。そして654年に孝徳が没すると、翌655年、彼女は再び即位します。斉明天皇。一度退いた天皇が再び位に就く「重祚」の、これも史上最初の例です。譲位と重祚。天皇の位からの出口と、そこへ戻る入口。その両方を最初に通ったのは、同じひとりの女性でした。

斉明朝の飛鳥は、巨大な土木工事の時代です。日本書紀は、宮の東の山に石垣を築き、水路を掘るために3万余の人夫を動員した工事を、人々が「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と嘲ったと伝えます。正史が天皇の事業をここまで露骨に腐す例は珍しく、編纂側の意図も含めて研究者の議論があるところですが、2000年に酒船石遺跡で亀形石造物が発掘されると、評価は一変しました。水を導き、湛え、祭祀に用いたとみられる精緻な石の施設群。「狂気の工事」は、水と石による国家祭祀の舞台装置だった可能性が高いのです。悪口だけが千年残り、実物が出てきて名誉が回復される。考古学は時に、こういう痛快な仕事をします。

外に目を向ければ、阿倍比羅夫の船団が日本海を北上し、蝦夷の地へ遠征を重ねたのもこの治世です。そして660年、唐と新羅が百済を滅ぼすと、斉明は救援の派兵を決断し、自ら西下します。伊予の熟田津に停泊した船団を詠んだのが、万葉集の額田王の歌、「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」でした。月と潮が満ちる、さあ漕ぎ出そう。出撃の高揚を詠んで万葉屈指の名歌とされるこの一首には、女帝の心を額田王が代わって詠んだとする代作説もあります。だとすれば、これは日本文学史上もっとも雄渾な「女帝の声」ということになる。斉明は結局、筑紫の朝倉宮で661年7月に没し、海を渡ることはありませんでした。2年後の白村江の大敗は、息子の中大兄が引き受けることになります。

彼女の眠る場所についても、近年動きがありました。明日香村の牽牛子塚古墳が2010年の調査で八角墳と確認され、天皇陵に特有のこの形から、研究者の多くが斉明の真陵とみています(宮内庁の治定する陵は別の場所にあります)。2022年には築造当時の姿に復元整備され、誰でも訪れることができます。

さて、現行の皇室典範です。譲位の規定を持たないことは前号で触れました。重祚に至っては、想定の外です。平成の譲位を可能にした特例法も一代限りの退位を定めるのみで、上皇が位に戻る道は開いていません。1400年近く前にひとりの女性が最初に通った出口と入口は、現在の制度では両方とも塞がれています。皇位継承をめぐる議論は「誰が継げるか」に集中しがちですが、斉明の生涯は「位とは、退けるものか。戻れるものか」という問題も提起しています。

祈雨に始まり、政変を目撃し、二度即位し、石の都を築き、軍船の上で生涯を終えようとした人。波乱という言葉では足りません。飛鳥の亀形石造物は、いまも静かに水を受けています。

歴代女性天皇一覧(新しい順・8人10代)

天皇 生没年 在位
117 後桜町 1740–1813 1762–1770
109 明正 1624–1696 1629–1643
48 称徳(孝謙重祚) 718–770 764–770
46 孝謙 718–770 749–758
44 元正 680–748 715–724
43 元明 661–721 707–715
41 持統 645–703 690–697
37 斉明(皇極重祚) 594–661 655–661
35 皇極 594–661 642–645
33 推古 554–628 592–628

皇極=斉明、孝謙=称徳が重祚のため、10代・8人となります。

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