開高健さんの『一言半句の戦場』(集英社)読み終える。単行本未収録の開高コラムや対談などを編集した587ページのぶあつい本。半年以上前からずっと枕元に置いて、眠る前にちょっとずつ読んでいた。お宝写真もちりばめられている。船の上でも酒場の片隅でも畳に寝転んでいても、どんな格好をしていてもカイコウケンで、いちいち愛嬌があってシブくて絵になっている。もっと生きていてほしかったなあ。新潮文庫の『開高閉口』に帯のコピーを書かせていただいたほどの大ファンなのである。『一言半句』も、読み終えるのがさびしい、離れるのがつらい、楽しい開高ワールドだった。

とりわけ面白かったのが、淀川長治さんとの対談。「いい顔ね、あんた」とほめちぎりつつ迫る(?)淀川さんの前に、さすがのカイコウさまもたじたじとなっているところが、おかしくてたまらない。淀川さんのカイコウ評もさすが、スパッと鋭いのである。

「この人、いつ原稿書くのか思うぐらいタフな人で、私は日本の男性でこのぐらいタフで、このぐらいサッパリしていて、このぐらいキザじゃなくて、このぐらい好色的なくせに好色的でなくて、こんなん珍しいと思います」。

好色的なくせに好色的でない。そうそうそう。そういうところが好きなのである。たしか帯のコピーにも「雲古、御叱呼を書いて清潔・・・」というようなことを書いた記憶があるが、不潔なのは対象をそのように見るコチラの目であって、対象そのものではない、ということをカイコウさんは教えてくれる。

巻末、谷沢永一さんが、カイコウさんの強運っぷりについて綴っている。天性の無邪気と才能と強運に恵まれていた人だったのだなあ、と納得させられる反面、「書けない」ときの苦しみ&それを乗り越える努力も半端ではなかったのだと知る。「その、開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である」のラストのコピーが泣かせる。

「放射能を持った文章を書こう」

「父を疑え、母を疑え、師を疑え、人を疑え。しかし疑う己を疑うな」

「動機が問題になるのは結果がまずい時だけ」

「風俗は変わるけど本質は変わらない」

「読者と著作者はあわないほうがいい(ゲーテ)」

「小説家になるにはピアノ線のようでないといけない」

などなど名言も多。

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