ガーデンプレイスついでに、東京都写真美術館に立ち寄る。2階で「ラヴズ・ボディ 生と性をめぐる表現」展、3階で「二十世紀肖像」展。

前者の方はメディアでもとりあげられていて、期待が大きかったものの、点数が思ったよりも少ない。とはいえ、衝撃とともに「生と死」を考えさせられる写真と出会う。

ポスターにも使われている「転げ落ちるバッファロー」。デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチの作品。生と死の境界にいる、というか死へ転がり落ちていくバッファローの姿が、どこか白日夢のようでもありながら、荘厳な印象。死ぬときはこんなふうに、ふわり、くるり、なんだろうか・・・とか、とりとめなく想像が続いていく。

Photo

ウィリアム・ヤンの「独白劇(悲しみ)より<アラン>」という一連の写真も、凄絶。エイズで死んでいく一人の若い男アランの顔の変化を、1988年10月から1990年7月まで、撮り続けたもの。各写真の下に手書きの覚書あり。

「エイズよりも自己憐憫で人は死ぬ」。

死の直前の昏睡状態の顔と、死んでしまった直後の顔も並べられる。「まるで死人のようだと思ったけれど、昏睡状態にあっても生きているアランと、死んでしまったアランとでは、その落差は言葉に尽くせないほど大きかった」。

目をそむけたくなる写真も少なくなかったが、死を考えていると、大なり小なりつきまとう現世の諸問題はいくらか軽減していくのがわかる。他人の理不尽な評価はじめ、慣例にふりまわされるだけのつきあい、自分がもたない美や富に対する羨望、虚栄でしかない体裁づくろいなど、「どうでもいいこと」がはっきりとわかって、ほんとうにどうでもよくなってラクになる。逆に大事なことも、見えてくる。

「二十世紀肖像」のほうは、好みどまんなかの展示。二十世紀初頭から現在までに撮られてきたさまざまなポートレイト写真を通して、時代の美意識や、社会に通底していた感覚、個人の内面までもが、容赦なく浮き上がってくる。太宰治、チャーチル、坂口安吾、桜田淳子、寺山修二&天井桟敷など、時間が経っているからこそ「わかる~」と感無量になる肖像写真も多数。

Photo_2

「ポートレイトとは、今ここを生きる人間の似姿を、オブジェとして所有しようという願望」が生んだフェティッシュなもの、という解説に感心。

0 返信

返信を残す

Want to join the discussion?
Feel free to contribute!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です