澁澤『快楽主義』のつづき。幸福は快楽とはまったく無関係である、と幸福の偶像破壊をしておいて、第二章では、快楽を阻むけちくさい思想をこっぱみじんにうちくだいていくのだが、なかでも痛快なのが、ソクラテスの「無知の知」を一蹴してしまった点。

「自分はばかだ、無知だなどと世間に向かって宣伝するのは、用心ぶかい、小ずるい態度といわねばなりません。また、自分を知ろうという努力にも、なにかけちくさいものを感じさせます。まるで自分の財布の中の銭勘定にばかり気をとられているようなあんばいです」

自分で自分の限界を知らないからこそ、冒険することができ、その結果、自分の限界を破り、自分の能力をどんどん広げていくことが可能なのだ、というのが澁澤快楽主義。

自分の限界をよく知って、そこから外へ出ていこうとせず、小さなことしかやらなくなることを「サナギ哲学」(=蝶になれないサナギ)と呼ぶあたり、的確。

「『おのれ自身を知れ。』という金言は、人間を委縮させ、中途半端な自己満足を与えるばかりで、未来への発展のモメント(契機)がない。未来の可能性や、新しい快楽の海に飛びこんでいこうという気持を、くじけさせてしまいます。のみならず、このサナギ哲学は、無知や謙遜をてらうという、妙ないやらしさにも通じます。これは傲慢の裏返された形です」

「無知の知」を自覚することや謙遜が美徳だと思い込まされていた身には、けっこう痛烈な偶像破壊である。

また、快楽主義と禁欲主義が、実は同じ着地点をめざしているという指摘にも、はっとさせられる。

「エピクロス哲学も、ストア哲学も、自然と一致して生きることをモットーとしていたのです。自然と調和していき、なにものにもわずらわされない平静な心の状態、すなわちアタラクシアに達することを求めていたのです」

ストア派(禁欲主義者)にとって、自然と一致するとは、外界に対して緊張をもって雄々しくめざめ、万事に耐えるということ。

エピクロス派(快楽主義者)にとって、自然と一致するとは、外界に対してリラックスして、動物的に、そのときそのときにもっとも楽な姿勢を選ぶということ。

いずれの主義者も、それを通して心の平静にいたろうとする点では同じであるのだ。と。

歴代のダンディたちは、禁欲すれすれの苦行(としか見えないもの)をとおして、究極の快楽主義を貫いてきたことにも思い至る。

快楽主義の巨人たちのエピソードも圧巻。「彼らはいずれも、高い知性と、洗練された美意識と、きっぱりした決断力と、エネルギッシュな行動力の持ち主でありました。この4つの条件がそろって、はじめて人間は翼を得たように、快楽主義的な宇宙の高みに舞い上がることができるのです」

真の快楽主義者でいくには、強い意志と不断の努力と強靭な心身の体力と無尽蔵のエネルギーが必要であるようだ。ちんまりとした「幸福」にとどまっていては見ることのできない宇宙の高みに導こうとしてくれる言葉の数々。

誰もがちんまりとサナギにおさまっている今だからこそ、エネルギーをチャージする力のある本だと思うが、逆に、「そんなタイヘンな思いしなくてもいい。ただ細々と生きてさえいられれば」という反応が多そうな気もする。それも納得できてしまうほど今の日本の現実が厳しくなっている。

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