上野千鶴子先生の最終講義録が目的で買った「文學界」9月号だったが、思わぬ収穫もあった。河野多恵子と吉田修一の対談、「『逆事』と抑制の小説作法」。

河野 「そういえば、福島原発の事故以降、やたらと「節電!節電!」と言うでしょう。先日、新聞を見ていたら、「節電」と『陰翳礼讃』を結びつけた内容の記事があったの。あれには驚いた」

吉田 「たまたま僕が読んだ雑誌にも似たような記事がありました。『陰翳礼讃』がエコ生活読本のような扱われ方で(笑)」

河野 「そう。冗談じゃないわ。『陰翳礼讃』は、その頃の谷崎の心理的マゾヒズムという性的欲求から生まれているのよ。そこのところが全くわかっていない」

吉田 「目隠しをされた時に感じる人間の五感の喜びのようなものだと僕は理解しているのですが」

……上のくだり、痛快だった。たしかに、「節電のために暗い」=「日本人には陰翳礼讃という美的感覚が」みたいな記事が多くて、ちょっと違うなあ、気持ち悪いなあ、という違和感をおぼえていたのだが、そうそう、そういうことだったのね。

で、もう一か所だけ、備忘録としての引用を許していただきたい。

河野 「ところで、なぜ人は小説を書くのかというと、私は『精神的種族の保存拡大』のためだというのが、本当のように思います」

吉田 「『精神的種族』とは聞きなれない言葉ですね」

河野 「これは佐藤(春夫)さんが、師と仰いでいた生田長江の言葉らしいんだけど、自分の作品に共鳴してくれて、最高の理解者として作品を愛し続けてくれる、心の底から通じ合える読者のことなの。苦労して書き上げた作品を発表したときには、読者の反応が気になって、誰かに共感して欲しいでしょう」

吉田 「はい、そのために書いているようなところがあります」

河野 「そうなのよ。作家は作品を発表することで、たとえ自分がこの世から去ったとしても、その作品を大切に思い続けてくれる自分の精神的種族とつながることで、時代を越えていつまでも作品を残すことができるのね」

……そういう信念と実感があるのとないのとでは、モチベーションがまったく違ってくる。吉田さんではないが、こういう発想というか自覚の有無が「5年後、10年後に立っている場所」を変えるような気さえする。そんな名言。

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