これもここしばらく持ち歩いて何度か読み返した本。内田樹先生の『最終講義 生き延びるための六講』(技術評論社)。ヒューマニズム、アカデミズムの王道をいくお話として、ひたひたと心を潤してくれるような感覚を味わわせてくれる。

「かすかなシグナルに反応して、何かわからないけれども自分を強く惹きつけるものに対して、自分の身体を使って、自分の感覚を信じて、身体を投じた人にだけ、個人的な贈り物が届けられる」

「どんなふうに人間は欲望を覚えるか、どうやって絶望するのか、どうやってそこから立ち直るのか、どうやって愛し合うのか……そういうことを研究するのが文学研究です。だから、文学研究が学問の基本であり、それがすべての学術の真ん中に存在していなければいけない」

「知性のパフォーマンスを向上させようと思ったら、自分以外の『何か』を背負った方が効率的であるに決まっています。自分の成功をともに喜び、自分の失敗でともに苦しむ人たちの人数が多ければ多いほど、人間は努力する。背負うものが多ければ、自分の能力の限界を突破することだって可能になる」

「どうやったら学びのモチベーションを高く維持できるか。そのために使えるものは全部使う。最終的に彼らが採用したのは、営利栄達でも、知的優越でもなく、自分の脳が高速度で回転しているという事実そのものだったんです。その『アカデミック・ハイ』だけは間違いなく、今ここでたしかに実感できる。最後に残るのは、この快感だけである」

「自分の知性の活動が最大化するときの、最高速度で頭脳が回転しているときの、あの火照るような体感に『アディクトする』人間がいて、そういう人間が学者になるんです。『あの感じ』を繰り返し経験したくてたまらない。だから、どうやったら自分の知性が最高速度で機能するようになるか、その手立てを必死になって考える。(中略)だから、使えるものは全部使うようになるんです。自分の知的なパフォーマンスを高める可能性のあるものは、総動員する。それが本当の学者だと僕は思います」

「自分が『理解することの困難なこと』をめぐって語っているのだという自覚があれば、書き手が最初に配慮すべきは、『読者の知的緊張をどこまで高いレベルに押し上げられるか、どれだけ長い時間それを維持できるか?」という、すぐれて技術的な『読者問題』になるんじゃないですか」

ほかにも、五感に染み渡るような「情理を尽くし語られた」ことばのオンパレード。とりわけ専門化しすぎて排他的になりすぎたアカデミズムに対するご意見のあたりが、ひやひやしながらも、とても共感できた。

ユダヤ人問題のこと、北方領土問題など、私には完全には理解が及ばなかった箇所もある。なんだかすごく大事なことが書いてありそうなのに。ホント、自分のレベルに応じたものとしか「出会う」ことなんてできないんですよね、本の内容も、人も。

「自分のレベルに応じたものとしか出会えない」ことついでに、最近なるほど、と思った酒場の教養。「ル・パラン」本多さんの、「バーテンダーは砂金採りのようなもの」説。「砂金の宝庫、と評判の場所でも、心の網の目が粗いと、カンやゴミしか集まらない。でも、心の網の目を細かくしておく(=知識や教養を磨いておく)と、砂金にもたとえられるいいお客様がたくさん集まってくる」という意味だそうである。たぶん、バーテンダーばかりではなく。

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