だいぶ前に「おもしろい!」と思って切り抜いておいた記事だが。朝日新聞9月28日付の、斎藤美奈子氏による文芸時評。「夢まぼろし 大家の弛緩芸」。

その業界の大御所となっている方の、明らかにゆるい仕事をけなすのは難しい。大先輩としてリスペクトしなくてはならないが、いや仕事人としてそれはどうなのだろう…と思うとき。さすが斎藤氏、芸をもってそれを揶揄してしまった。なかなかできないことだわ。勇気と芸とユーモアのセンスに敬意を表したい。

揶揄の対象になってるのは、筒井康隆、丸谷才一、片岡義男。こんな超ベテラン、だれもけなせないじゃないですか! それぞれの大家の最新作に対し、いちおう、ホメるところはホメてはいるのだが、最後のチクっとした批判が、効いている。

まずは筒井康隆の「小説に関する夢十夜」に対し。

「……それなりに読めてしまうのが困ったところなのだが、これがほかの作品を押しのけて『文学界』の巻頭を飾っているのを見ると、つい『来賓の挨拶』とか『接待』という言葉を思い出す。どこか特別枠の扱いなのだ」

次、丸谷才一の「持ち重りする薔薇の花」に対し。

「大物作家の久方ぶりの長編小説という特別枠の限定を外してみると、細部のズレっぷりはいかんともしがたい。(中略) が、そうしたズレ方も、記憶があいまいな老経済人の一人語りだから、という一点でみごとに免罪されてしまうのだ。記憶の再現と夢まぼろしは紙一重。語り手の記憶に難があった場合、中身がどうあれそれは小説として成立し、老練の技は大向うを唸らせ、往年のファンを魅了する。だがそれは、やはり大家だけに許された弛緩芸だろう」

で、最後、片岡義男の「大根で仕上げる」に対し。

いちおう、「ルーティーンのなかに、手順や段取り、必要とするものなどすべてが、いっさいなんの無理もなく、端正に収まっていた。必要最小限の動作で、手際良く、素早く、なめらかにすべてをこなす」という小説の中の一説を引用して、それがそのままこの小説のたたずまいでもある、とホメ(?)てはいる。が、最後に。

「…などと語るスケベ心いっぱいのこの語り手は何者なのだろうか。まあでもこれも一世を風靡した片岡義男の青春小説の残滓と思えば頬が緩まぬでもない」

まとめがすばらしすぎる。

「年長者には寛容をもって接する。それが礼儀と心得れば苦笑も微笑に変わる。小説を読む側にも礼儀が求められる。無礼者には大変である」

業界をとわず、年長者の弛緩芸に苦笑している多くの人は、この一文を読めばちょっとはスッキリするかもしれません(?)

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