先日、ご馳走したりされたりすることのEqualityについてちらっと書いたのですが、「ご馳走」はもちろん「ギフト」(モノでも行為でも言葉でもいい)に置き換えても言えることなのですよね。

人は「ギフトをいただいた」と感謝するとおのずから「お返し」を考え始めるものなのだと思っていました(だから政治家のギフトは禁止される。ここでは政治家や公人のギフトの例は考えないことにします)。

感謝の気持ちを表すために「お返し」すると、またそれに対する「お返し」が返ってきたりして、ぐるぐるぐるぐるギフトの循環で人生が成り立っているところがあるとずっと感じていました。

いただいた相手が「天」であれば社会に「お返し」するとか、「大先輩」からいただいたなら後輩に「お返し」するとか、とにかく自分のところで停滞させずにぐるぐるぐ回す。それがなんとか生きていくための秘訣ではないかと思っていたところがあります。

しかし、時折、それが誰かのところでストップしてしまうことがあるのですね。「頼んでもないのに勝手にくれたんだから返礼の必要はない」とか「こいつとはつきあうこともなさそうだから別にお返しの心配はしなくてもいい」とか、あるいはたんに「いそがしい」「めんどくさい」とか、ストップさせる理由は様々だと思いますし、それを咎めるものでもありません。

 

ただ。近頃、続けざまに「閉店のお知らせ」が2件、届いたのですが、実はその2件とも、私が開店に際してお花をお贈りしていたけれどもなんのご挨拶もいただかなかったところなのです。

まあ、頼まれもしないのに勝手にお祝いを贈りましたので、別に「お返し」なんてまったく期待していません。ただ、ひとことのお礼のことばもない、ずさんな扱いをされたことが、ちょっとひっかかっていました(そういうところ、まだ修行不足ですね。贈ったら忘れる、が鉄則なのに)。

負の感情は美容のために(笑)極力さっさと手放すことにしているので、そんなことも忘れていたころ、「閉店」のお知らせがきて、思い出した次第でした。

閉店に至ったのは、お花のお返し云々とは無関係かもしれません。でもほんの少し、ああ、やっぱりそうなるのか、という納得感もあったのです。

世の中は、ほんとうにデリケートな、あまり表立って口にされない、人の心の機微のぎりぎりのバランスの上に成り立っている、と思うことがあります。私への対応は氷山の一角だったのかもしれない。

偉そうに言っててうっかり忘恩してることがありそうなのがコワいですが。ブーメランにならないよう、受けた御恩はひとつひとつ受けとめて次に送り続けるということを意識的にやらないといけないですね。ということを「閉店」のお知らせを見てあらためて自戒したのでした。

某高校で聞いた村上世彰さんの講演では、お金は停滞させず投資し続けることが大事、そうすることで経済全体が豊かになっていき手元に返ってくるお金も増えていく、という話が印象的でした。同じことが、「ギフト」についても言えるんではと思った次第。「ギフト」は停滞させず、ぐるぐる贈り続けることで周囲が幸せになっていき、結果、いつになるかわからないけど手元に返ってくるサプライズも増える(ことがある)。経済も人生も循環こそが鍵。循環してないと生命体も死んでしまいますもんね。

 

 

 

 

 

 

 

さて。

プロフィル写真のデビ夫人風(マリアカラスと注文したんだけどなあ…(^^;))がいくつかの媒体からNGが出たので、おとなしく撤回し、撮り直しました。たいへんしつれいしました。2018年夏バージョンのリラックスモードとビジネスバージョンでございます(「誰もかあちゃんの写真なんか気にしてないからいっこでいいんじゃね?」と次男からつっこみが)。

 

これまでにいただいたたくさんの「ギフト」のお返しのつもりで、出力全開で仕事をしてまいります。試行錯誤も多々あるかと思いますが、どうぞよろしくご指導ください。

 

 

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