開高健『人とこの世界』(ちくま文庫)読み終える。ケンさまが選んだ「人物」12人を、その作品とインタビューを通して描いた、ことばによる肖像画、といった感のあるノンフィクション。一語一文、たっぷり味わいがいがあるので、一日一人分ずつ、惜しむように読んで12日間かかった。

さいきんの本業界では「さくっと読める」とか「さらっと読める」のがホメことばみたいになっているようだが、そういう類のなかには、なにもわざわざ本にしなくも、というようなスカスカの代物も多くてげんなりすることがある。私はどちらかといえば、一語一文、立ち止まって何度も味わい返しながら次に行かねばならない本、つまり「さくっと読むわけにはいかない」本のほうが好きである。この1冊も、ケンさまパーソナリティ全開のこってりぶりで、真剣に一語一文につきあっていったので、読後の充実感も深い。(それでも、解説の佐野眞一氏によれば、「開高ノンフィクションの中ではずば抜けて抑制がきいている」という部類に入るらしい)。以下、なかでもとりわけ沁み入った表現を、ランダムにメモ。

*広津和郎の「散文精神」を高く評価して、それを後押しするかのように、「常識」礼賛の弁。「たとえば小説家に向って、おまえの作品は常識的だよ、というのは現代日本においては最大の侮辱である。作家たちは必死になってこの言葉をかぶせられないように工夫する。自分の内部にそれを破壊する何の衝動もないのに、ただもう常識的といわれたくない一心で”鬼”になりたがるのである。そこで大量の非常識的常識作品とでもいうべきものが続出することとなり、三行読んだだけで、少し気の利いた読者なら本を捨てて魚釣りに出かけるのである。(中略) 日本人が”常識”という字を見るときに感ずるのは≪おとなしい≫ということだろうと思う。ところがイギリス人はさらにこの言葉についての感性の鍛錬を経ているので、けっして油断しない。彼らにとって≪常識≫は、或る場合、≪抵抗≫や≪主張≫や、ときには≪破壊≫すらも含みうる言葉である」

*「事物の核心はときには事物そのものよりも、そのまわりに漂う匂いのようなもののなかにある。眼のいろや声にそのような匂いを匂わせることのできる人がいる」。

*大岡昇平の回。「残忍ないいかたになるが、戦争のあとではきっと技術文明が”進歩”し、同時にすぐれた文学作品が生まれる。大量殺戮のあったあとに人はかけつけて、『戦争と平和』を生み、『武器よ、さらば』を生み、『野火』を生み、前時代の文学の領域をはるかに深め、開拓し、広げる」。

*武田泰淳の回。「・・・・・・にもかかわらず母は黙々と生みつづけるのである。飢え、かつ殖える。殺し、かつ殖える。殺され、かつ殖えるのだ。人がいなければ戦争もできまい。とすれば、革命も反革命も子宮から排出されるのである。歴史をゆさぶっているのは子宮である」。

*金子光晴を評したことば。「漉しに漉された語群は白い頁のなかで空気を固めたり、ひらいたり、のびのびとうごいた。作者がカンやまさぐりで語を投げださず、容易ならぬ博識の曲者らしいのに思わせぶりやハッタリでメタフォアを使わないのが爽快であった。屈折をかさねたあげくの簡潔は深かった。嘆息。悲傷。嘲罵。沈思。揶揄。白想。いずれも」。

*今西錦司を表して。「どれを読んでもじつに透明である。垢や臓物がないのである。爽やかに乾いている。ときどきむきだしの剛健なユーモアがとびだす。それから局外者の私には知りようのないことだが、博士の文章を読んでいると、ほとんど傍若無人にのびのびしていて、学会にどう思われるだろうか、こう思われるだろうかと右見たり左見たりしたあげく衒ってみたり、謙虚ぶってみせたりという気配が、どうも感じ取れないのである。何かしらそこから吹いてくる風は独立、自尊の気風である。思惑と指紋でベトベトに穢れた文壇の文章ばかりを読んだ眼にはそれがとても気持ちがいい。おそらくそれは博士が即物の人であることからくるのだろうと思う。よほどの生の蓄電が生む透明にちがいない。しばしば非情なまでに透明である」。

*島尾敏雄の回。「おぼえているのはギラギラ射す夏の午後の日光のなかで氏が立膝をしながらガラス皿で生ぬるいウィスキーをすすり、なぜか、ぼそり、『人まじわりしたら血が出る』とつぶやいた声である」。

*同、島尾作品を評して。「凄惨がドラマとしてではなくていくつもいくつもつづいていくことを発見すると、絶望する気力も尽きてくる。絶望するということは或る種の意力を行使することだが、島尾さんは読者から最後の幻覚まで奪ってしまうのである。あらゆる作家は十人が十人、どんな陋劣、陰惨、絶望も、それを文字に移すときには、或る楽しみをもっておこなうのだが、島尾さんも厭悪をどこかで楽しみつつ書いている。傷口に塩をすりこむあのヒリヒリした楽しみである。その気配がうかがえるのでさらにやりきれなくなる」。

*同、島尾敏雄の回。「文字を書くことは一つの選択行為であり、人工であり、詐術である。それが選択行為であるからにはすでに誇張、歪曲の文学的意図が含まれている」。

ほかに、きだみのる、深沢七郎、古沢岩美、井伏鱒二、石川淳、田村隆一、それぞれの人物観察とインタビューによる鋭い像から、各氏の人となりがありありと浮かび上がってきたのだった。個人的には、カイコウ評する今西錦司のレベルは、あこがれである。

堀井憲一郎さんの『落語論』(講談社現代新書)読み終える。ディープに落語について書かれた本ながら、日本文化の見方をめぐるヒントや、広くパフォーマンスや表現に関する考え方のヒントが得られて、学ぶところが多い面白い本だった。

落語は花火と同様、その場を共有するライブとしてのみ存在しうるもので、文字や映像などのメディアを通して伝えられたものは落語ではない、ということ。落語に「深い意味」「核となる真実」などない、という点では、近代の原理に無言で抵抗する芸であること。場を共有することで成立するという意味では、「オレオレ詐欺」に通じるペテンのようなものであること、などなど。さらに以下、心に引っかかった点のメモ。

・落語には本来、タイトルはない。「符牒」があっただけ。仕事でしかたなくつけられた呼び名でしかない。意味ありげな長いタイトルをつけて人とは違うんだと力がはいってる作者なんて、子供にめちゃくちゃな名前をつける親のようなもの。「タイトルは道具であり符牒である」。

・登場人物にも名前がない。ニックネーム、呼び名があるだけ。人の内面とはつながっていない。統一性もなく、共通項を見つけ出す必要もない。これは「キャラクターを持たなきゃいけない病」とも連動することだが、一方向に統一性をもつことを示し続けなくてはいけないなんて、幻想だし、そんなのはもはや人間ではない。「落語は”厄介な存在である人間”をそのまま反映したものである。矛盾しているし、言ってることとやってることが違っている。言うことは変わるし、場面によって行動も違ってくる。それが落語である。そこに『統一性のあるキャラ=特徴的な性格と行動』を持ち込むと、落語が持ってる場が崩れる。ただのわかりやすい単純喜劇になってしまう」

・「サゲは合図でしかない」。「ここで落語が終わった、はい、あなたたちは現実に帰りなさい、という合図として、摩訶不思議な世界を作って案内したものが示しているわけである。ふつうの落語にしても、サゲがあるほうが、終わった感じがしていい、ということだ。サゲにはそれ以上の意味はない」

・落語にはストーリーもあらすじもない。落語は体験である。

・落語はペテン。「架空のもので人を騙すためには、なるたけ狭い所に大勢の人を閉じ込めて、生の声で語りかけるのがいい。ヒットラーは、夕刻から屋外で演説を始め、徐々に暗がりになっていくなかでライトを自分に集中して当てさせ、意味はよくわからないけどなんだかすごい、とおもわせることに成功した」。こういう基本的なペテンは、映像を通すと効き目が弱まる。

・「本当は客全体に『好かれたい』のであるが、みんなに好かれようとすると、なぜか嫌われてしまう。雑多な意識の混合である客全体に『好かれる』のはとてもむずかしい。だから、『誰にも嫌われていない』というのが理想の状態なのである」

・「客との和を以って貴しとなす。落語家の心得第一条である。ただ、形而上的な理想的な“和”をめざさなくていい。善である必要はない。その場かぎり、身過ぎ世過ぎとしての”和”である」

・「客との和を以って貴しとなす、ということは、客に彼我の区別をなるたけ感じさせないほうがいい、ということである。つまり、演者と客であるという距離をなくす。自他の区別をなくす。自他を感じさせないというのが、落語の究極の目的である」

・落語は近代的発展とは無縁のもの。「停滞期」のもの。現在、落語がブームになっているが、それも「20世紀的経済活動の発展が頭打ちになったからだろう。19世紀半ばから150年をかけて、日本人が駈け上がってきた頂上がこれだったのか、そうか、おつかれさんでした、という空気が、落語への流れをつくっているのだとおもう」

・ただ、「停滞」そのものも西洋さんのもんで、東洋は、もう少し無理をしない。ぐるぐるまわるだけで、上に向かっていない。

・「細かに分解し、全体像を捉えられなくなっても、核と法則を見つけ出そうとするのが近代的思考である。(中略) うちは猿と一緒にやっていける。だから、物事を芯まで剥かなくても生きていける」

・「落語が見せるのは『人として生きる全体像の肯定』である」

・落語は近代が主張する普遍性を拒否する。広げるな。「人は、さのみ、広がらなくてもいいだろう、という主張である。インターネットで世界につながり、飛行機で世界中へ飛べ、いつでも携帯電話でどことも連絡をとれようとも、人間一人の大きさは変わらない」

・「この顔を人前に晒して、それでおあしをいただいてるんだ、というのが顔に出てればよろしい」・・・それが「顔ができてる」ということ。「顔は看板である。大事な商売道具だと自覚しておかないといけない。顔のできてない芸人は、芸もまずい」

・「落語は集団トリップ遊戯」

・「その和は、その場でさえ納得できればいい。人類の発展に何も寄与しなくていい。人類の発展を阻害してもいい。いま、そこにいる人たちだけの和を貴いものとする。そしてその考えかたは、おそらく日本の芯とつながっている」

講義や講演のときにも応用できる考え方である。「何を話すか」もさることながら、「どう話すか」のほうが圧倒的に重要という点、落語がお手本になることも多い。場数を多くふんでいくしかないのだけれど。

腑に落ちたことばのメモ。

◇山崎正和さんの「リーダーも熱狂もないまま揺れたポピュリズム選挙」(「朝日新聞」9月2日)より。

「(ポピュリズムの定義として)ここでは『ある問題を、主として否定することをテーマに、大多数の人がムードに乗って一気に大きく揺れること』としましょう。人々が互いに過剰に適合しあって、雪だるまのように世論が形成されていく、そういう状態です」

「あるいは、シェークスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』が教えてくれます。古代の民主制ローマで、民衆がわーっとあつまって『殺ってしまえ』と叫ぶ。しかし、演説者がかわると次の瞬間、逆の方向を向いて『あいつを殺ってしまえ』となる。まさにこういう動きです」

「ポピュリズムは、人間はどう振る舞ったら良いかが暗黙の了解として存在している時には発生しません。不安な時代、あるいは既成の秩序がゆるんだ時に起きやすいのです」

「たとえば携帯電話で見るニュースは非常に速いものの、断片的であることが特徴的です。何が起きたかはわかっても、それはなぜなのか、背景や構造は教えてくれません」

「娯楽や芸能の世界でも同じことが起きています。すぐ面白い、すぐわかる、そういう速効性が求められ、面倒くさいドラマはテレビの世界でも減っています。長期間訓練し、ある構造を持ったドラマを演じるような役者が減り、筋書きなしになんでも出来るタレントが増えています」

「即反応、即断定、二者択一。そうした性向を持った多数の人々が、時代の『空気』を読んで行動したら、その集積は巨大な変化を生むでしょう。私は『世論形成の液状化現象』と呼んでいます」

時代のムードを正確に言語化した、論理的で明快きわまりない文章。山崎さんの文章は20代のころにずいぶんお手本にしたが、今なおますます健在の筆力で、頼もしい。

◇川上未映子さんの「おめかしの引力」(「朝日新聞」9月3日夕刊)より。

「似合わなさって他人と自分のどっちを主軸にした感覚なのか。頭にりぼんつけてる人を見るに付けて『自分にも当然出来るおめかし』だと信じて疑わなかった自分っていったい何だったのか。今回のりぼんに関しては単に『似合わない』だけじゃない、何か『世間に申し訳がたたない』感じも確かにあって、極控え目に言ってショックだった・・・」

「『好きな服を着てるだけ、悪いことしてないよ♪』なんて歌もありましたが、悪くなくても、無理なことって、遠慮した方がいいことって、あるんだね! りぼんで諸々における時の過ぎたるを知ってしまったインサマー」

なにを書くか、っていうより「どう書くか」っていうことが問題ということをあらためて教えてくれる快文。一文を無作為に抜粋しただけで、あ、あの人の文章だ、と誰にでもわかる。それを若くして極めている川上さんは、とても幸福な作家だと思う。