以下はすべて、山室一幸さんからのメッセージです。ほんとに鋭い。

「スキャパレリ&プラダ」展の記者会見がありました。アートシーンに対するコミットの仕方、二人の服作りの姿勢には、アブストラクトでありながら女性が着る服としてのリアリティという共通項がありますね。
ココ・シャネルと川久保玲という比較論で言えば、スキャパレリに匹敵するのがミウッチャという構図には納得できます。ただ、川久保さんとココの間には、美しく愛された女と、世俗的な女性の美的観念へのルサンチマンを抱えた女という隔たりを感じるのですが…。ファッション界において神聖不可侵なオーラを放つ川久保玲ですが、誤解を恐れずに言うならば、モード史上初めて美・醜というヒエラルキーを超えたクリエイションだと思うところがあって、このあたり是非とも中野さんの御見解を伺いたいものです。

ココ・シャネルと川久保玲の比較。その視点、面白いですね!川久保さんが立派すぎて、だれも言わなかった(^_^;)というか、「カテゴリーが違う」というふうに、無意識にとらえていました。シャネルは、今の女性誌風に言えば「働く女性のモテ服」を作ったのですよね。でも川久保さんは、そういった価値から疎外されている女が、それを「見下ろす」べく、超越すべく、まったく違ったカテゴリーをもちこんだ…ともいえるかもしれないですね。多くのデザイナーたちが「いや私の考えるモテはそうではない」とやってるレベルを「論外」にしちゃったことで、逆に川久保さんは一段高みに昇って、全デザイナーの尊敬を勝ち得ているところがある。…もっと考えてみたい問題だと思いました。」(2012年2月26日)

 

    • 「それと中野さんからの川久保玲さんに関するご見解、興味深く読ませて頂きました。
      昨日のFBで「美・醜のヒエラルキーを超えた」と書いた真意について、もう少し詳しく説明させて頂きます。例えばファッションに物凄く精通した醜男(特に誰かを特定しているわけじゃありませんよww)が、ランバンやプラダの最新コレクションを着て自慢気に薀蓄を語ろうとも、その傍で単なるおバカなモデル風のイケメンが考えもなしに、同じブランドを見事に着こなしている風情には敵わないと思うのです。ただギャルソンだけに関しては、そいつがイカレポンチ(死語)なルックスでも、彼なりのファッション偏差値みたいな要素が如実に出て、その偏差値によって似合う度合が表現できる服であるように感じます。
      同じことが女性にも当てはまるかは言及を避けますが、少なくとも美女、美男に生まれてこなかったファッションフリークたちの救世主になっていることは事実ですよね。
      三宅一生さんの服が民族的なヒエラルキーを超越した美学を生み出したとするならば、川久保玲さんのアプローチにはモードクリエイションの更なる奥義が潜んでいると思うのですが、如何でしょうか?」(2012年2月27日)

    • 以下は、中野より山室さんへの返信です。

      「山室さん…その指摘が業界のタブーをついていて、おもしろすぎる ^_^; みんなひそかにわかっていたことですが、決してそれを口にしてはいけなかったのですよ。『そういうオマエはどっちのつもりなんだ?』みたいな批判もこわかったりするので。『境界やヒエラルキーを超える』というのは、どの分野においても『かっこいいこと』の条件ですよね。三宅一生の超え方も納得です。川久保さんの『美醜のヒエラルキーの超え方』というのは、たしかに、もっとも難しい『超越』だと思います。『生まれ』以上に、『美・醜』というのは人間のアイデンティティ形成にとって深くかかわってくる問題だと思うので…。

      なぜなんだろう、とぐるぐる考えています。やはり『美・醜』がモテや権力に直結する不条理な現実を目の当たりにするという現実もあるからでしょうか。そういえば、川久保さんは『不条理を超えたい』とよく言ってますね。」

       

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