三島由紀夫『夏子の冒険』(角川文庫)。三島作品で読んでいなかったのがまだあった!と発見して即購入@ヴィレッジバンガード。ここには「アレな人」(ヴィレッジバンガードのビニール包装に書いてあるママ)が多いというだけあって、ときどき変な拾いものがある。

ブルジョワのわがままお転婆お嬢様の夏子が、現実の男たちの退屈さに飽き飽きして北海道の修道院入りを決心し、その道中で「これは!」という青年に出会って冒険についていくものの、青年がほかの男たちと同じに凡庸になったところでやはり修道院入りを決意する、みたいな昭和初期ガーリッシュがほのぼのする小説。三島作品でなければ最後まで読んでなかったかもしれない(苦笑)習作っぽい作品。三島26歳の作品。とはいえ、ところどころに「らしい」表現が光っているのを発見しながら、リラックスして楽しめる。

本音をいえば、このテの「お転婆お嬢様」ヒロインのメンタリティも行動もよくわからないし、まったく共感が抱けない。男が勝手に妄想しているヒロイン像ではないかとも思ったりする。単に自分にその資質がないだけの話かもしれないが。

巻末の解説で、村上春樹の『羊をめぐる冒険』が、本書のパロディまたは書き換えであるという仮説が近年でてきていることを知る。

この本の近くに並べてあって、つい買ってしまったのが、『大猟奇』と澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』。前者は本気で気分が悪くなる描写ありすぎで、生理的にムリだった。こういうのと三島のガーリッシュ本が並んでいるあたり、「アレな人」マーケティングの成果か。

「カール大帝」ことシャネルのデザイナー、カール・ラガーフェルドがフォルクスワーゲンのテレビコマーシャルに。

パリ生まれのスタイリッシュなカーだと感心していたら、アシスタントが「ドイツ製です」とささやく。カール、シックとドイツは両立しうることを発見、みたいな流れ。

カールは自身がドイツ人であることをあまり喜んでおらず、「自分はヨーロピアンである」と常々公言していた。だからこそ、「パリの美ではなくて実はドイツの美だった!」のCMが生きる。

http://www.youtube.com/watch?v=MAsIUVUQv1Q&feature=player_embedded

完璧にマンガのキャラのようになっている自分自身を楽しんでいるカール。インタビューでも必ず皮肉のきいた(カールしか言わないような)ひとことを言ってくれるし、演じてもユーモアが立ち上ってくる。年と共に、鋭さに磨きをかけながら、ああいう余裕の貫録を備えていくのは、いいなあ。

ドルチェ&ガッバーナがイタリアのボクシングチーム、「ドルチェ&ガッバーナ ミラノ・サンダー」15人のユニフォーム(というのか、サテンのボクサーショーツとガウン)をデザインしたことにちなみ、スポーツとファッションブランドの「ドリーム・チーム」にふれた記事。英「ファイナンシャルタイムズ」23日付、記者はマリオン・ヒューム。

ドルチェ&ガッバーナはボクシングだけでなく、すでにイギリスのサッカーチーム「チェルシーFC」と3年契約ずみ。オフィシャルスーツを作っている。スタンフォード・ブリッジの西側スタンドには「ドルチェ&ガッバーナ ラウンジ」があり、インテリアにいたるまでドルガバ色で染めている。こうなる前には、「アルマーニ・カーサ」のインテリア用品で整えられていた。

ファッションブランドがスポーツと手を組む。古くは1920年代、ジャン・パトウがテニスのスザンヌ・ランランのウエアをデザインしたことから始まるが、マーケッティング的にスポーツとスタイルを結びつけたのは、ジョルジオ・アルマーニ。1995年、アルマーニはサッカー選手を「現代の新しいスタイルリーダー」と位置づけ、リバプールのゴールキーパー、デイヴィッド・ジェイムズをエンポリオ・アルマーニのゲストモデルとして歩かせ、下着の広告にも起用。デイヴィッド・ベッカム、クリスティアーノ・ロナルドも「チーム・アルマーニ」に加わる。最近ではテニスの世界チャンピオン、ラファエル・ナダルも。アルマーニは、「アルマーニ・ジーンズ・ミラノ」というバスケットボールチームも所有している。

トッズはイタリアのサッカーチーム「フィオレンティーナ」を所有。

ロロ・ピアーナはポロチームと組んでいる。自身が「ポロ」をするラルフ・ローレンは、実は自分のチームをもっておらず、「ブラック・ウォッチ」チームのスポンサーをする。

エルメスは4月、パリのグランパレで、ショウ・ジャンピングのコンペティション、’Saut d’Hermes’を開催する。

ゼニアはスキーリゾートを所有している。

エミリオ・プッチはブランドを立ち上げる前、オリンピックのスキー選手だった。

ポール・スミスは、スーツとともにバイクも売っているが、少年のころ、ノッティンガムのビーストン・ロード・クラブでレーサーをしていた。

ステラ・マッカートニーは2010年のオリンピックで、イギリスチームのユニフォームをデザインする。

ダナ・キャランは長年、ニューヨーク・ヤンキースとスポンサー契約を結んでいる。「契約は自然なこと。DKNYとヤンキー・スタジアムはニューヨーク的なスピリットを共有しています。ともに私たちの文化であり、ストリートであり、集合的な意識(collective consiciousness)なのです」とキャラン。

サッカーがファッショナブルなのはもはや当然になった感があるが、ドルチェ&ガバーナが乗り出したことで、これからはボクシングまでが「モード」になっていく勢い。柔道や空手に影響が及ぶのも時間の問題!?

「ウォールストリートジャーナル」アジア版で、2010年メンズのトレンド、トップ5の紹介。22日付。記者は、ジェイソン・チョウ、おそらく中国系の方? 今の「アジアのクール」はもはや一昔前のようにトウキョウにはない、現在はソウルであり、注目を浴びているデザイナーはサウス・コリアンである、という断言がキビシい現実をつきつける。

トップトレンドとして挙げられたのは、「マッドメン」効果の、60年代モダニティを感じさせるスリムタイ、スリーピーススーツなど。ドン・ドレイパー・ルックですね。日本ではまだこのドラマが一部の熱狂的ファンのみにしか観られていないようなのが、ちょっと惜しまれる。

マン・バッグ(男のバッグ)もアジアのトレンドだったのだとか(ま、主に中国において、ですかね)。女性と同様、男性がルイ・ヴィトンのバッグをもつ姿が見られたそうです。

格子縞ルックとツイードもトレンドとして挙げられていた(日本ではほとんど見なかった……)。

中国のレトロスニーカーも、話題になったそうだ。Feiyueという「復活」ブランド名が挙げられていた(知らないし)。

中国視点の強い、いわば必ずしも公平にアジア全体を見渡しているわけではない記事とはいえ、西洋から見た「アジアのファッショントレンド」=「東京のファッショントレンド」だった時代が、確実にゆるやかに過ぎ去っていくのを感じる。

加藤和彦『エレガンスの流儀』(河出書房新社)。メンズファッション誌のスター、とりわけ日本人となると、かなり限られてくる。白洲次郎ブームがひとしきり続いたあと、近頃、あちこちで取り上げられているのが、加藤和彦氏。没してから、本が続々出版され、雑誌でも特集を組まれるようになっている。

この本も、生前の「GQ」の連載を、没後にまとめた本。これがかなり粋なエッセンス満載で、うなるところ多々。

エレガンスの模範とされていたウィンザー公をばっさり、のくだりには、驚きながらも感心。

「公を見ているとエレガントというものが逆説的に分かってくる。我慢がないのである。公は好きなように、王位を捨てたごとく思うがままに、多少屈折して服とつきあった。其れ故非常に目立った。しかし、目立ってはいけないのである」

ロンドンにおけるテーラーでの過ごし方をつづったくだりにも、「やられた!」感あり。テーラー=整形外科医説には、うなる。

Yohjiの服を語りつつ男の優しさを論じたあたりも、シブい。

「『優しく』は、するのではなく、なるのだと思う。自分自身に対して、強く、ハンブルになればなるほど、優しくなる。やせがまんでもなく、偽善でもなく、自棄でもなく、自身に謙虚であることが優しさを生む。ストイシズム的な苦楽超越ではなく、自然体の冷静な生きかたが好きである」

そういう感じが、Yohjiの服にはある、と。

JFKのスーツが、IVYの権化とされていたが、実はすべてサヴィル・ローのヘンリー・プール製であった、という指摘には、ええっ?!と。

「サヴィル・ローをしてナチュラル・ショルダーを作らせてしまい、着こなしとしてアメリカ・イースト・コーストの香りが漂っていたのは流石である。

こういう普通さ(本当は普通ではないが)が好きである。一見して出どころが分かるような着こなしは、お里が知れるというものである」

これほど「かっこよさの本質」や男の作法を知りつくした日本の男性がいたとは……。生前にお話を伺っておかなかったことを、心底惜しいと思わされた本。

14日火曜日に参加した、宮内淑子さんオーガナイズによる第124回次世代産業ナビゲーターズフォーラム。講師は(株)日本総合研究所 副理事長の高橋進さんで、テーマは「2011年内外経済の展望」。

内容がぎっしり、みっちり詰まったお話&質疑応答で、聴いたことを全部きれいに整理してからアップしようと思っていたら、いつまでたっても終わらない(苦笑)ので、以下、個人的に強く印象に残ったことのみ、メモ。高橋さんのお話はもっと専門的で複雑高度であった。経済ど音痴の私にわかったのはこの程度という、かなーり偏りのあるメモである。

・<世界経済の展望> 金融危機の後遺症がまだ尾を引き、低迷を脱するには時間がかかりそう。先進国がおこなっている長期にわたる金融緩和が、ムリな投機マネーとなり、それが後進国に不健全なバブルをもたらしている。いわば通貨戦争とも呼ぶべきものが起きている。

世界的な不均衡是正のカギを握るのは、アメリカと中国。とりわけ、これまで高い生産能力を輸出に向けてきた中国は、内需主導型へと方向転換してほしいところなのだが、中国にそれができるかどうか。

・<日本経済の展望> 輸出の低迷。景気刺激策(エコカー補助金、エコポイント、地デジ切り替え)の反動減のあらわれ(今の需要は「先食い」でしかなく、刺激策終了後は大幅に落ち込む)。内需回復力が脆弱なまま。ということで、当面は足踏み状態が続く見通し。7月以降は、個人消費の減少を主な原因として、実質GDPが大きめのマイナス成長となる。2011年度全体で見ても、実質GDP成長率はプラス0.2%(かぎりなくゼロ)。

・<日本経済の構造問題:失われた20年をひきずる日本経済> 分配構造がゆがんだまま、産業構造もゆがんだまま、成長産業が不在、日本型ビジネスモデルが疲弊。少子高齢化を勘案すれば、医療・介護・健康・保育・教育分野の成長余地は大きいはずだが、強い参入規制があって、成長を阻害している。現在の日本は、貯蓄によってなんとか黒字を保っているが、家計貯蓄率が低下し、民間貯蓄も減少していけば、10年以内に経常黒字が消滅する可能性が高い(=このままのペースでいけば、あと数年で貯蓄を食いつぶして日本経済は破綻する?!)

・<日本経済の政策課題> 政府が6月に策定した「新成長戦略」。戦略5分野として以下のものがある。1.インフラ関連・システム輸出(原子力、水、鉄道など) 2.環境・エネルギー課題解決産業(スマートグリッド、次世代自動車など) 3.医療・介護・健康・子育てサービス 4.文化産業立国(ファッション、コンテンツ、食、観光など) 5.先端分野(ロボット、宇宙など)。

この政策に異論はないが、そもそも民主党政権の運営能力、調整能力に疑問が残る。政策の縦割り構造を打破できなければ、新分野の創出は理想だおれになる。 

財政健全化のためには、徹底した歳出の効率化と、最低でも名目3%、実質2%の成長を維持して自然増収を確保する必要がある。その条件が満たされても消費税を10%引き上げる必要がある。

格差の固定化による人材の劣化ばかりか、現場でも人材の質の劣化が深刻になっている。若年層を中心に社会全体が、内向き・下向き・後ろ向き志向になっていることも問題。女性の活用が進まないことも、人材の高度活用を妨げる一因。

・<日本経済再生への道:ローカルパワーによる地域経済の活性化> 日本経済再生のためには地域経済の再活性化が不可欠。東京都も地盤沈下している。中央政府の支援を当てにせず、横並びの発想から脱却して、ダイレクトに世界を相手にするようなやり方もあっていい。山形でおこなわれているグリーンツーリズムなど、よい例。

……と膨大なデータをもとに、さくさくすっきりと、日本経済の分析と今後の課題を聴かせていただいたのであった。異論の余地のない事実だけを厳然とつきつけられると、ああ、2011年も暗そうだな、で気持ちが沈んでしまうのだが、よくよくこの事実を見つめるうちに、それで「流してしまう」わけにはいかんな、という思いがひしひしとこみあげてきた。「そのうち誰かがなんとかしてくれるだろう」とこのまま流されていては、ホントに数年で日本は非常事態に陥る。人も社会も、「変わろう」「変らなくては」「変えなくては」と口では言い続けているが、実際に変わろうとすると、足をひっぱる周囲の圧力に負けたりして、現実は変わらないまま。とりわけ日本は、ぎりぎりの非常事態にすとんと落ちて、切羽詰まった事態にならないと、本気で変われないのではないかとすら思う(第二次世界大戦後のように)。

委員の北川高嗣先生(筑波大学大学院教授)から、少し希望の光が見える道の示唆あり。現在、インターネットによって、世界中の40億の人が作る世界が、すでに存在している。成長を阻む要因になっているゾンビを取り除くことが現在の産業構造(とりわけ農・商工業分野において)の課題でもあるが、インターネットを使って、ゾンビをすり抜け、ダイレクトにマーケットにつながる方法がいくらでもある! マーケットにダイレクトにチャンネルを合わせることで、中間のややこしい構造や足をひっぱるゾンビの阻害をすり抜けて、いきなり高利益を上げられる時代なのである。その意味では、現在は人類史始まって以来の黄金期でもある。これを理解している人達でダイレクトなチャンネルを作っていくことは可能ではないか、と。

狭い周囲に遠慮してゆで蛙となるか、外に目を見開いて黄金期のヒーローとなるか。選択と決心と行動力が、問われている。

 

 

島地勝彦さんの本三冊まとめ読み。『甘い生活』(講談社)、『乗り移り人生相談』(講談社)、『愛すべきあつかましさ』(小学館101新書)。購入とほぼ同時に、「メンズプレシャス」編集長からお話をいただいて、年明けに島地さんご本人にお会いすることになる。奇遇。

3冊にはそれぞれ、ほかのシマジ本で紹介されていた同じエピソードが出てくるが、それも「愛すべきあつかましさ」としてのご愛敬。熱いハートからあふれ出すようなヒューマン・エネルギー(毒気あり)に、気力のおすそ分けをいただく。遠慮していては、人生も仕事も切り開くことなどできない。相手の懐にあつかましく全力で飛び込んでいってこそ、運が開けてくる。ただしそのあつかまさは、繊細な想像力と真の思いやりに支えられていなくてはならない、ということが爆笑(ときに噴飯すれすれ)もののエピソードの数々から伝わってくる。

柴田練三郎、今東光、開高健がときどきあの世から降臨してくる『乗り移り人生相談』が抱腹モノのおもしろさだった。回答に関しては、「?!」あるいは「・・・・・・」と反応するしかないのも多々あったが、おそらくその反応はシマジ氏の計算済み。「ごもっとも。なんの異論もありません」と思わせられる模範回答ほど退屈なものはない。

「人間関係を築くうえでいちばんいけないのは遠慮だ。『好きだ』『尊敬している』『鐘愛している』という対象には絶対に遠慮しちゃいけない。恋愛と一緒だ」

「人生は冥土までの暇つぶし。だから極上の暇つぶしをしなくてはならない」

「女は男とつき合う以上、少しでもその男を磨いてやらねばならない。女がみんな、それを実行すれば、いい男がどんどん増えて、結局は女たちの利益につながる」

「『忙しい』を口癖にするやつに本当に優秀な人間はめったにいない」

「才能の花を咲かすには、その才能を発揮する戦場が必要であり、その戦場を用意してくれる人間が必要なんだ。実力さえあれば誰に媚びを売らずとも、必ず評価されると単純に考えるのは、俺にいわせれば傲慢だ」

「子どもをどこの幼稚園に入れるかで張り合っているような主婦からは文化は生まれない。また、官僚と政治家からも文化は生まれない。文化を生み出すのは男と女のスケベ光線だ。(中略)ただ男女の強烈なスケベ光線が交差するところに、小説も詩も音楽もオペラも映画も生まれるんだ」

「人生の勝利者というのは己のコンプレックスを武器に変えられた人間」

「恋情というのは男と女の戦争だ。匂わせ、謎をかけ、焦らし、相手の心を奪う偉大なゲームだよ。マネーゲームで十億円の金を得るより、俺はいい女との恋のゲームを取るね。こっちのほうが断然刺激的だ。金なんて身の丈だけあればいいんだよ」

「雑誌は新興宗教でなければいけない」

「編集会議の前に、信頼する編集部員を飲みに連れて行き、『この企画を会議に出せ』と言い含めておく。そいつが会議の場でアイディアを披露したら、大声で『おもしろい!お前は天才かもしれない』と叫ぶ。おもしろいも何も自分のアイディアだから、自分でも『よくいうよ』と思ったがね。そういう役割の人間を何人か決めておき、ほとんどの編集部員には『自分たちが作りたいものを作っている』と意識を持たせたんだ」

「集めた部下たちには愛情を注ぐ。功績はすべて部下に持っていかせ、責任は編集長が取る。いい加減な仕事の結果、失敗した場合は裁くが、一生懸命やった結果の失敗は徹底的にかばったね」

文学にどっぷり耽溺したことのある人ならではの、骨太な人生観がきらきら。文学が軽視されるようになって、日本人の精神の土壌がやせ細り、日本の社会もヒヨワになっていったような気がする。

スティーブ・マックイーンのスーツの着こなしについてコラムを書く必要があって、「華麗なる賭け」DVDで。ノーマン・ジュイソン監督、1968年の作品。99年にはピアース・ブロスナン主演で「トマス・クラウン・アフェアー」としてリメイクされた映画。

スタイリッシュ、とはこういうことを言うのか! というかっこよさが、ワンカットの無駄もなく展開する、スリリングでセクシーな103分。画面のカット割りはこの時代に流行した技法のようだが、まったく古さを感じさせない。マックイーン、フェイ・ダナウェイのファッションが、ぞくぞくするくらいドラマチック。

マックイーンのスーツスタイル百変化のみならず、ドライビングファッション、ポロスタイル、ゴルフスタイル、単葉機ファッション、サウナスタイル(!)、あらゆるシーンのファッションが、かっこよすぎ。ダナウェイのヘアスタイル、60年代ミニのバリエーション、スポーティーなパンツスタイルは言うにおよばず。

ふたりがチェスをするときの表情、しぐさのアップは、相当にエロい。まだ検閲がきびしかった時代で、ベッドシーンなどかけらも出てこないにもかかわらず、99年版よりもこっちのほうが上質で濃厚なエロスをたたえている。平穏よりもスリルに飛び込んでいくことを好む、似た者同士の緊張感ある愛の駆け引きも、「上級者」だなあ、と憧れをかきたてる。

しばらくの間、「バックグラウンド映像」として繰り返し流して、耽溺することにする。

湯山玲子『四十路越え!』(ワニブックス)。あまりの衝撃に、2日の間で3度読み返してしまった本。湯山さんのエネルギーにあやかるべく、味の素に「グリナ」を注文し、ヒグチに「スーパーグビル」を買いに行く。「ヘビの生血と生キモをバイカルという強いアルコールにとかしたもの」はさすがに日本ではムリみたいだが(笑)。

恋愛、セックス、健康、美容、ファッション、仕事、という女性誌に必ず登場する6大テーマそれぞれにつき、日本の女子にかけられている「呪い」(=チャレンジをさまたげるブレーキになっているワナ)をあばき、より充実した現実的果実を得るための戦術を説く。

これがもう、タブーなき戦術、というか従来の「常識」の枠外を行くもので、でもさもありなんというリアリティがあり、えー!?と笑いつつ、気持ちが自由になる。挑戦したい思いがあるのにカビくさい世間通念にしばられて身動きがとれなくなっていたり(アクセルとブレーキを両方ふんでる状態)、語られつくしたハウツーにふりまわされて可能性をつぶしていたりすることが、ずいぶんあったのだと痛く思い知らされる。

・「選ばれるためのほとんどの努力は無駄であり、選ばれなくっても結構!」

・「恋愛を因数分解せよ」(=デート、友情、同士愛、性欲、には無限の組み合わせのレイヤーがある。自分の欲望を冷静に見つめることから、男女間の良好な関係が生まれる)

・「彼女たち(=『私って恋愛体質なの』と公言する女性)はとにかく飲みに行っても話題は男と恋愛とセックス話。そして、男ゲットのための身体とファッション、美容に人生の莫大な時間をかけています。しかしながら、このタイプはあまり男性にモテない。本来ならば、ヤッてしまえば目的貫徹なので御の字のはずが、そこに彼女たちが考えるところの『恋愛手続き』を求めてくるので、男性は面倒くさくてしょうがない。恋愛体質作りに人生をささげているので、人間的な面白味も話題もあまりない。最近よく出くわすようになった、恋愛大歓迎の自称、肉食女に対する違和感もそれですね。いいオトナなのに性欲をセルフコントロールできず、それを恋愛の美名において全部、男性に過大要求する面の皮の厚さを私はどうしても感じてしまう」

・「鴨長明の呪い」=「彼は晩年、一丈四方の庵を建て、その突き詰めた空間から想像の翼を広げ豊かな精神生活を送ったのですが、その心は『現実のセックスなんて貧しくて結構、その代わりに思いっきりイメージの方は遊ばせてもらいまっせ!』というニッポン男子の性癖そのまんま」

「モテる女は『オモロイ女』」=「女性の魅力からセックスが切り離され、お手軽かつ小売りにされている今、なおかつ、男性にとって魅力的な女性とは、『一緒にいる時間が楽しい』か『尊敬』。ここに賭けるしかありません」

・「『褒められたい』動機は身の破滅」

・「感情で仕事をせよ」=「実際、感情が伴わないと仕事に迫力が出ないし、逆に感情が伴わない仕事は続けるのもつらいものです」

・「無理をせよ」=「面白いことには、たいてい無理をした時に出会える、と言っていい。無理をせず、安全圏で行動していると、もはや心はワクワクする機会を失い、非活動の坂を転げ落ちてしまう」

などなど、深く納得のことばが満載だったが、もっとも驚き、半信半疑ゆえに強烈に印象に残っているのが、誘う女の方法論。「その気にさせてから口説く」のではなく、「口説いてからその気にさせる」ほうが成功率が高いことを暗に説くのである。ノーだった場合、「ガラスのハートをゴルゴ13化せよ」とも(!) 

凡百の「女性の幸福」本を軽くふっとばすパンチの効いた一冊。

鹿島茂『「ワル姫さま」の系譜学 フランス王室を彩った女たち」(講談社)。445ページの大著。フランス史を動かしていたのは、宮廷に出入りする艶女と、その女たちをめぐる男たちの下世話な欲望だった!という週刊新潮風視点(?)で描かれる、ワル姫さまに焦点を当てたフランス史のエピソードの数々。

色恋をめぐる女たちのあの手この手の策略が、政治に直結して歴史を変えてしまう、という事実の驚愕の面白さに加え、鹿島先生のサービス精神たっぷりの、おやぢ目線入りの分析のおかしさが満載。

カトリーヌ・ド・メディシスの使った「くノ一軍団」ことエスカドロン・ヴォラン(遊撃騎兵隊)と呼ばれた美女軍団のエピソードが強く印象に残る。男を籠絡するためのありとあらゆる手練手管を仕込まれた最高の美女たちの軍団である。え?まさか大の男がひっかかるのか?といぶかったが、敵の大将がほんとにへなへなと落ちるのだ。

歴史を動かしてきたのは、政策なんぞよりもむしろ、宮廷内のベッドなのだなあと思わせられてしまうほどの、圧倒的な事実の迫力。

美女たちの名前がややこしくて覚えづらく、混同しがちなこともままあったが、名前を現代の任意の名前に置き換えると、あらゆる恋愛のパターンや変態の原型がたちあらわれることにも気づかされる。というか、現代「変態」に分類されることもある行動も、すでに数百年前から連綿と続いてきたフツーのことだということがわかる……。

痴情のもつれから読み解くイギリス史、っていうのもありだろう。読んでみたい。

◇「オーケストラ!」DVDで。BUNKAMURAで上映していたとき、のこのこと行ったら満席だった映画。DVDになってやっと観て、人気のほどを納得。やはりこれは劇場で見ておくべきだった。

ボリショイの元天才指揮者の、30年後の痛快なリベンジというか、そこで断ち切られてしまったさまざまな人生の総まとめ。やや野暮なロシアっぽいどたばたも適度なスパイスになって、ラストのチャイコフスキーのバイオリン協奏曲のステージが、涙なしには見られない。浄化されるような感動を用意してくれる映画に、久々に出会った。

◇みうらじゅん×高見沢俊彦×リリー・フランキー『ボクらの時代 ロングヘアーという生き方』(扶桑社)。フジテレビで放映されたトーク番組の、書籍化版。

なにか建設的なことを言ったり意義のある議論をしていたりということはまったくないのだが、3人のなかに流れる空気感、無意味な(でもオリジナルな)ことばのやりとりがばかばかしくておかしく、読んでいる間、口角が上がっている(笑)。字も大きいので30分ぐらいで読み終えられる。トークのリズムそのものを楽しんでいればいい本だけど、教えられたことも多々。

仏像って置き方が完璧にロックバンド、という話。「(みうら)完璧に須弥壇がステージで四天王が警備員で文科系が歌うっていう。菩薩がベースとギターでボーカルが大日如来でっていう。あのへんが、『そうかあ』みたいなねえ、妙に納得したことがありましたね。あのステージングを、みんな結局はまねしているわけですからね」

草食系男子というのが、想像上の生き物で、実際には「いもしない」、という話も。「(リリー)草食系なんて言ってるのは、女の人が『この人私に手ぇ出さなかったから草食系なんだわ』で済まそうとしてるだけで。たぶんその女の人に魅力がなかっただけの話なのに、フラれた理由を『草食なんだー』にしてるんですよ」

人は怖いものに名前をつけて恐怖をやわらげる、とか、変態は行儀がよくてやさしい、とか、天才は親がケアしてあげないといけない、とか、童貞はこじらすと不治の病になる、とか、ロングヘアーな方々ならではの真実(?)の指摘に、笑いつつ納得する。

車谷長吉『妖談』(文藝春秋)。あさましい「業」に憑かれた人々を描く、掌編小説が34篇ほど。

金銭欲、復讐欲、性欲、所有欲、ただの執着、なんだかわけがわからないけどからまりついてくる意味不明の欲、そんなこんなのべっとりとした業だか欲望だかに、突き動かされるままに動物的に動いている人々を、淡々とさらさらと描く掌編小説たち。作者本人のノンフィクションなんだか、フィクションなんだか、境界があいまいなあたりも、功を奏している。読みながら、ビミョウにうしろめたい。そんな思いを読者に抱かせるのも、車谷さんの芸のうち。

「作家になることは、人の顰蹙を買うことだ、とは気づいていなかったのである。気づいたときは、もう遅かった。人の顰蹙を買わないように、という配慮をして原稿を書くと、かならず没原稿になる。出版社の編集者は、自分は人の顰蹙を買いたくはないが、書き手には人の顰蹙を買うような原稿を書くように要求してくる。そうじゃないと、本は売れないのである。本が売れなければ、会社は潰れ、自分は給料をもらえなくなる。読者は人の顰蹙を買うような文章を、自宅でこっそり読みたいのである。つまり、人間世界に救いはないのである」。

中の一篇、「まさか」よりの引用。

「フロク」をつけなきゃ本も雑誌も売れないという時代。顰蹙を買えば、本は売れるが、同時にバッシングも激しく受ける。それでも書く覚悟があるか。売るために、多くのものを犠牲にして、というか、捨て去って、腹をくくって前進する書き手の心中はいかほどだろう。

中村うさぎ+マツコ・デラックス『うさぎとマツコの往復書簡』(毎日新聞社)。

「幸せを感じるかどうかは、自分の心次第」みたいな最近のゆる~い自己欺瞞ブームにきびしい冷や水を浴びせる。自分のエゴとぎりぎりに向き合って闘っている「異端者」ならではの赤裸々なことば。イタイ、として片づけるのはたぶん時流にあってるし、キライ、で無視するのもラクだけど、それだけでは終われないひっかかりが残る。

・うさぎ「買い物やらホストやらにハマっていた時期、私の毎日はほぼ地獄だったけど、その地獄の最中に天にも昇る恍惚感があった事も確かなの。天国って、地獄と対極の場所にあると思ってたけど、違ったわ。天国は、地獄の真ん中にあったのよ!」

「で、五十歳にしてようやく地獄から這い出たと思ったら、そこには天国なんかなくて、砂漠が広がってるだけだった。愕然としながら振り返ってみると、さっき命からがら抜け出してきた煮えたぎる地獄のマグマの真ん中に、キラキラと輝く天国があるのを見つけた」

地獄か、砂漠かの二者択一。チャーチルが「地獄を経験しているなら、そのまま突き進め」と言ったことを、ふと連想する。チャーチルも退屈が死ぬほどきらいだった人だ。

巻末の対談、「みんな違ってて、OK」「みんな平等」「それぞれが世界にひとつの花」みたいな現在の風潮に、疑問をつきつける。

・うさぎ「SMが象徴的だけど、どこか対等感を排除したところにエロティシズムというか秘密の花が咲くわけじゃない。エロってのは個人的、私的な部分だから、そこにまで対等とか平等とか他人が介入してくる社会はすごく気持ち悪い」

・うさぎ「『ゲイだ』『オカマだ』という差別はよくないけど、その差別と闘った原動力がゲイ文化を生んだと思う。今は普通に会社や学校でカミングアウトする人が増えて、周囲も受け入れて理想に近づいてはいるけど、カルチャーは衰退した。コンプレックスとか被害者意識ゆえに結束したパワーが毒々しい花を咲かせるっていうか、文化ってそういうものだと思う。『みんな違ってていい』というのは社会としては理想でも、文化としては沈んでいくんだろうなと思わざるを得ない」

苦いことばが、薬のようにじわっと回ってくる感じ。つるんとしたやさしいパステルカラーの幸福論に毒されている人にとっては、脳内バランスを正しく保つための良薬になりそう(ただし分量に注意)。

玉村豊男『食卓は学校である』(集英社新書)。食卓からはじまる比較文化論、現代社会批評、人生論。玉村先生が、朝礼にはじまり、1時間目から6時間目まで、やさしい口調で講義するようなトーンで書かれている。読みやすくて、学ぶところ多。以下、とくに心に残った表現を引用。

・「優しい甘さをたっぷり与えられてすくすくと育ち、甘酸っぱい青春を過ごした青年は、辛酸をなめて大人になり、人生というものを理解します。そして、ほろ苦い大人の恋と挫折を味わって、苦味走ったいい男、になるのです」

・(郷土食は、思い出や重苦しい過去やしがらみをひきずり、受け容れる者にとっては障害になる、という話につづき、)「世界中から移民が集まる『自由の国』アメリカは、ヨーロッパや、アジアの、古い歴史をもった国々が何百年も何千年もかけて育んできた文化や伝統を、なんでも分け隔てなく受け容れて吸収し、こんどはそれを、アメリカ式の、軽い、薄い、万人向けの味に調え直して世界に再輸出するのです。

アメリカという濾過器によって濾過された食べ物は、ローカル色を失ったかわりにグローバルな中立性を獲得し、誰もが気軽に受け取れるものに変身します。

ピザも、ハンバーガーも、ホットドッグも、アメリカ人のライフスタイルが憧れとされていた時代に、世界中に拡散しました」

・「なにもそこまで考えなくてもいいのに、と思うほど、いったんできあがったものをさらにとことんいじくって、より細密なものに、より洗練されたものに、より使い勝手のよいものにと、不必要なほどの改良を加えるのが日本人の特性で、現代のスシは、そうやっていわゆる『ガラパゴス化』してきた結果として、生まれたものなのです」

・「アメリカが一個の巨大な濾過器であるとすれば、日本は新しい小さな研磨機である、といえるかもしれません。世界中からなんでも受け容れて、それを一所懸命に磨き上げ、もとのかたちがわからなくなるほどツルツルにして、誰もがカワイイと思えるものに変えてしまう。スシに続いて、いま世界から注目されている日本の食は、弁当、洋食、ラーメン……どれも、日本がガラパゴス的な研磨作業で日本化したものばかりです」

・「『茶断ち』とか、『酒断ち』とか、願い事が成就するまでは好きなものを断つ、といってみずからに禁忌を課したことも昔はありました。好きなものが食べられないのは辛いことですが、願いがかなって晴れてそれを口にしたときには、ただの水さえ無上の甘露と感じられたことでしょう。もともとの動機がなんであるにせよ、食の禁忌というものはある意味で、平板に流れる日常を刺激して生活にメリハリをつけるひとつの仕掛けとして、これからも活用できるかもしれません」

・「日本の家族が変質したのは、電子レンジや電子ジャーが普及するようになってからのことです。そして、いわゆるホカホカ弁当とコンビニが出現して以来、日本の家族は崩壊の危機に瀕しています」

・「かつては、ひとりだけ温かいごはんを食べることはできなかった。お父さんのためにだけわざわざ大きな釜でごはんを炊くことはあったかもしれないが、家族のそれぞれが好きな時間に自分だけ温かいごはんを食べることは、『一人分の温かいごはんが買える』という社会的なインフラが整わなければ実現できなかったことなのです」

・「日本人は、粘り気の強い、たがいによくくっつく丸っこい短粒米を、炊いてすぐ、温かいうちに食べるのをよしとする規範を掲げることで、ともすればバラバラになりがちな家族の絆を、『ごはんですよ』の一言で結束させ、そのネバネバとした粘着力で、家族という集団から個人が離れていくのを繋ぎ止めようとしたのではないでしょうか」

・「私は、ヨーロッパでは、パン屋さんの独立によって、個人の自我が確立したのではないかと考えています。近代の個人主義は、自分だけの主食をいつでも好きなときに獲得できるようになった日から、はじまったのだと」

・(フランス語のCONVIVALITEについて解説につづき、)「つまり、ともに食べることは、ともに生きることである。ともに生きるということは、すなわち食卓をともにして、食べながら、飲みながら、語り合いながら、おたがいにいまこの同時代に生きているという幸福をたしかめることである……(中略)私は、一期一会、と意訳してもよいのではないかと思っています」

・「もう一度、いま食卓の上にある食べものや飲みものと、いまともに食卓を囲んでいる人の顔をよく眺めながら、歴史上のある一瞬、地球上のある一点で、これらのすべてが奇跡のように出会うという稀な出来事に自分は立ち会っているのだと思えば、日常のありふれた食卓の風景が、まったく違ったものに見えてくるのではないでしょうか」

一緒にごはんを食べる=ともに生きる=ともに幸福をたしかめあう、というコンヴィヴァリテの概念が、いたく染み入る感じ。一緒にご飯を食べたくてもなかなか時間が合わない、とか言っているうちに、関係は崩壊したり消滅したりしていくのだ……。