フェアファックスコレクティブのブログを更新しました。

起源のロマン

 

お時間の許す時にでもご笑覧いただければ幸いです。cravats(photo: courtesy of Academia Cravatica;  Marijan Busic “Cravat around Arena”, land-art installation, Pula, Croatia, October 18th 2003)

ミキモトさまにお招きいただき、講演。9.9.2

社員の方の関心に焦点を合わせて、前掲書『真珠の世界史』で学んだことなども重ねあわせていきましたが、あらためて面白いなあと思ったのが、「ニセモノ」(呼ばわりされたもの)を「ホンモノ」に変えた、ソフィスティケーション全盛の時代と、創始者の情熱。

海外で「養殖真珠はニセモノ」とバッシングを浴びた1920年代。
御木本幸吉さんは一歩も引かず闘い、
ココ・シャネルのコスチュームジュエリーが結果として後方支援となり、
養殖真珠は「ホンモノ」として認められていく。

すべての条件がそろっていくあたりに、御木本翁の強運を感じる。

ニセモノとホンモノについて考えるための興味深い事例でもあります。

山田篤美著『真珠の世界史』(中公新書)。

仕事上の必要から読み始めたのですが、充実の力作。という表現が失礼にあたるほど、古今東西の膨大な資料をもとにまとめあげられた、まさしく「真珠の世界史」。具体的なエピソードが豊富で、真珠を通してみると、世界史の見方が変わる。

とりわけ興味深かったのが、御木本幸吉が成功させた養殖の真円真珠がヨーロッパで引き起こした騒動のこと。以下は自分のための備忘録メモとしての概要です。

★★★
1921年ごろ、ヨーロッパに送られた御木本の養殖真珠は「ニセモノ」扱いをされていた。

「スター」紙スクープ(「ロンドン真珠大詐欺事件」)のあと、ロンドン商工会議所の宝石業セクションが公式声明を出す。「日本の『養殖(cultured)』真珠を真珠として故意に販売した人物は、虚偽記載の罪で起訴されることになる」。「日本の養殖真珠は、真珠質に覆われた貝殻製のビーズに過ぎない」。

ロンドンのジャーナリズムは、日本の真珠養殖そのものについても関心を示すようになる。御木本真珠店ロンドン支店に記者が押しかけ、御木本は反転攻勢のチャンスと見て日本の養殖真珠についてのパンフレットを配り解説する。

「イラストレーティッド・ロンドン・ニュース」は海女(sea girls)の写真を紹介。当時のヨーロッパ人の理解では、真珠採りの潜水夫とは、借金にまみれて酷使される奴隷状態の人。ところが日本の真珠養殖では、健康な若い美女が海に潜っている!

真珠商たちにとっては、天然ものと区別ができないうえ、無尽蔵に作ることができる日本の真円の養殖真珠は、自分たちの商売をおびやかす悪夢そのもの。とりわけフランスで、激しい排斥運動が起きる。パリ商工会議所は、養殖真珠の発明を放棄するなら報酬を出すとまで。アメリカでは、日本の真珠をつけると皮膚病になるというデマまで出回る。しかし、御木本のパリ代理店は屈せず、フランスの行政官庁に輸入禁止の不当を訴え、裁判で訴訟合戦を繰り返す。(1927年まで排斥運動は続く)

科学者は擁護。オクスフォード大学のリスター・ジェイムソン教授、ボルドー大学のルイ・ブータン教授など、日本の養殖真珠はホンモノというお墨付きを与える。

国際的な真珠騒動が起きても一歩も引かず認めさせた御木本幸吉の強烈な個性の賜物!

(1929年のウォールストリートクラッシュのあと)1930年にパールクラッシュが起きる。天然真珠の価格は85%下落。欧米の天然真珠市場は壊滅。以後、欧米の名だたる宝石店は養殖真珠に嫌悪感を示す。ティファニーは養殖真珠を拒否し、天然真珠ももたず。ティファニーやカルティエが日本の養殖真珠を扱うのは、1955年以降。

オーストリア、バハレーンでも困難。バハレーンでは日本の養殖真珠の席巻により、唯一の産業だった真珠業が衰退していく。バハレーンは新たな産業の必要性を感じ、石油開発に乗り出す。バハレーンに石油収入が入りだすのは1934年。

そんな状況のなか、真珠そのものの救世主になったのが、ほかならぬココ・シャネルであった!

そしてこれ以降の、真珠から見たファッション史がまたスリリングなのです。リトルブラックドレスにあしらわれる真珠の意味、コスチュームジュエリーの余波。戦後ディオールのニュールックにあしらわれる真珠、グレース・ケリー、マリリン・モンローの真珠。真珠が似合わないミニスカート流行による真珠不況。マキシが復活させた真珠。などなど、これまではっきりと意識してこなかった真珠に焦点を当ててみると、ファッション史がまた別の見え方で立ち現われてくる。

山田篤美さん、リスペクト。

立川談慶著『いつも同じお題なのに、なぜ落語家の話は面白いのか』(大和書房)。

面白くて引き込まれました。二度読み。以下、自分のための備忘録メモですが、この本の面白さは、落語と同様、内容(情報)そのものよりもむしろ、語り方にあるので、落語を聴きに行くように本を読んでいただいたほうが味わいがいがあります。笑って感心して共感して最後はほろりと泣ける。話し方を学ぶということは、人の心の動きの仕組みを学ぶということ、ひいては修業の姿勢を学ぶということ。

以下、とくに意識的に心がけたいと思ったこと(の一部)。

・「独演会名人は花見酒経済をもたらす」。身内だけで盛り上がり満足しているようでは先細りするだけ。自分の客、とはいえないアウェイな場所で地獄を満喫することが大きな成長につながる。「どんな場所でも落語をやれ。ここではできませんと言った時点で負けだ」(談志師匠)

・「修業とは、不合理・矛盾に耐えること」(談志師匠)

・「負荷と節制を精神に与える無茶ぶり、つまり『人工的前座修行期間』の余禄として『筋肥大』ならぬ『精神肥大』につながります。その結果、心が大きくなり、必ず『受けとめ力』がアップするのです。(中略)ざっとあげると、『聞く力』『読解力』『包容力』『連想力』『妄想力』『忍耐力』『構成力』『守備力』などです。面白い喋り手=発信者になるための土台作りともいうべき『受け止め力』アップを目指しましょう」

・「師匠にとっての聞く行為とは、凡人のようにただ漫然と聞き流すという消極的な姿勢ではなく、『そこから発信者の本質や裏側の闇、劣っている部分などプラスマイナス一切合切すべてを吸収してやる』という、気魄に満ちた積極的な姿勢でした。発信のみではなく、受信でも攻めの姿勢だったのです」

・(自慢話が嫌われる理由)「相手側が介在する『スキ』がないのです。この『スキ』がないからこそ、息苦しさも感じてしまうのです」

・「『ひたむきさがテクニックを凌駕している』という現象が、聞いている人間を惹きつける」

・「自慢話・愚痴・悪口をそのまま排出する前に、『これ、面白い見方はできないかなあ』と一旦、受け止めて考えてみる」

・(自慢話・愚痴・悪口=精神的老廃物)「口説きたい相手に迫って、必死にアプローチするのではなく、向こうから自慢話・愚痴・悪口をこちらに言わせるように仕向ける」

・「戦いは五分の勝ちをもって上となし、七分を中とし、十を下とす」(武田信玄)。「人間関係的にも、環境的にも、一人勝ちの末路は悲惨。一人勝ちした結果、残された遺恨は、人間関係においても、環境においても大きなロス」

・「読解力や想像力をフルに働かせているのは、演じる落語家よりも、むしろお客さんであるという、お金を払う側により頭脳労働をさせている奇妙な現象こそが、落語の魅力」

・「自信は、まず心がけなのです。『私という自信にあふれた素晴らしい人間は、二度と戻らないあなたの大事な時間を割いてまで過ごす、値打ちのある人間だ』そんな思い上がりにも似た気構えがあれば、自然それは目にも表れます。これは傲慢ではありません。むしろ相手への思いやりなのです」

・「カットアウトのようなオチと共にクライマックス。上手い落語家は、床上手よろしくぬかりなく、決して相手を置き去りにしません。平然とオチを語り、観客の余韻を、さも当然のことをしたまでだという落ち着き払った笑顔でお辞儀し、立ち上がり去ってゆきます」

・「個性は結果論」「芸という言葉は『草かんむり』だと気づきました。芸は植物と同じように、手間暇かけて慈しみながら育てなければいけないものなのです」

・「『キャラ』というのは、発信者側と受信者側とのあいだで、相互通話的に認知し合うことで成立する『約束事』」

・「一世一代の江戸の風を、一瞬でも吹かせてみろ」(談志師匠)

江戸の風がなんであるかは、本文のなかに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山縣良和さん(writtenafterwardsデザイナー)主宰の「ここのがっこう」レクチャーコースの講師としてお招きいただきました。

山縣さんが理想とする私塾のような学びの場で、参加者も多彩な業界から。講師も学生も一緒に車座になって肩がふれあうほどの距離で議論を深めるという(私にとっては)新鮮な形式。

この日のテーマは「歴史に残るファッションデザイナーとは? ブランドの創始者と現在」。20世紀のファッション史に名を残す(結果として名を残すことになった)デザイナーの具体例の話をしました。山縣さんはじめ、それぞれの受け止め方が面白く、わたし自身が多くを学ばせていただきました。

今日、知って驚いたこと。現在、サンローランのクリエイティブディレクターをつとめるエディ・スリマンが、現在(パリではなく)ロスに住んでいるということ。その具体的なディレクション(クリエイションではなく)の方法もうかがい、20世紀との違いに唖然としました。大手ラグジュアリーブランドグループの「商品」(作品ではなく)は完全にマーケティングの成果になっているんですね。トム・フォードがやっていたグッチ&サンローランあたりからすでにそうであったとはいえ……。

濃い時間を共有した参加者のみなさま。ありがとうございました! (山縣さんは左から2人目)kokonogakko
アイキャッチ画像の鹿の頭部は、「教室」になった銀座のthe snack の入り口のオーナメントです。

ちょうど山縣さんの活動は、坂部さんとともに読売新聞で大きく紹介されたばかり。 yamagata yomiuri

img161WWD 8月31日発行 Vol.1876.  ルイ・ヴィトン ジャパン元社長の秦郷次郎さんの巻、最終回。

「秦:『ラグジュアリー・ブランド』というのは比較的新しい言葉ですよね。かつて、われわれがブランドとかブランドビジネスと呼んでいたときにはファッション・ブランドかトラディショナル・ブランドという区分けでした。ラグジュアリーという言葉は『コーチ』が本格的にマーケットに参入するときに『アクセシブル・ラグジュアリー』とか『アフォーダブル・ラグジュアリー』と自らを定義したときに初めて使われた言葉だったと記憶しています。それと同時にブランドがアイテムの幅を広げてきてファッション・ブランドとトラディショナル・ブランドの境界がだんだんなくなってしまった。そこでラグジュアリーという新しい言葉でくくらないと共通の概念にならなかったということではないでしょうか。まさにその典型がマーク・ジェイコブスが入ってきて、ファッションの要素を加えた『ルイ・ヴィトン』だったと思いますね」

そうだったのか…。コーチが「アクセシブル・ラグジュアリー」(手に入るラグジュアリー)と言いだした時に、はじめて「ラグジュアリー」が意識されたということでもある。なんと皮肉な。