鷲田先生のレクチャーの続きです。

[E:clover]1980年代は、高度消費社会。それまでは、消費者の欲望にこたえればよかったのだけれど、80年代には欲望の対象となる商品が飽和状態となった。

もはや欲望の対象がないとなれば、新しい欲望を作るしかない。欲望それ自身を生産する、それが80年代におこなわれたことだ。当時の広告なんて完全にイメージ広告。ライフスタイルや空気の表現でしかない。機能を超えたところで人を誘惑する。実はこれこそがファッションなのだ。

ただ、たえず欲望を生産、更新し続けていかなくてはいけないという自転車操業となると、欲望更新のために、アンチ・モードまで飲み込む必要がでてくる。自然派の生き方がいいとなれば、それが最新モードとなる。モードに唾をはきかけるパンクがいいとなれば、それが最新モードとなる。究極は「無印」。アンチ・ブランドがブランドとなってしまう…というパラドクスまで起きた。つまり、モードを無視するもの、モードに唾するもの、モードを否定するもの、それらすべてを最新モードとして飲み込むようになったのが80年代

モードの論理からいかに降りるかということが最新モードになっている。その居心地の悪さの中で、80年代の日本デザイナーは闘っていた。

[E:clover]消費者自身も、欲望をなえさせていた。そこには中世の無常観に等しいものがある。どんなにわくわくするものでも、半年で何も人をときめかさないものに変わる。決定的なモノはなく、すべては色あせていく…という無常観のなかに人がひたりはじめている。「未来に、もっとかっこいいものがある」ということが、感覚的にわからなくなっている。

上手い表現だなあ、と思ったのが村上龍の「ラブ&ポップ」に出てくる女の子。「いま、どうしてもコレがほしい。だって今買わないと、明日になったら欲しくなくなってしまうから」。欲望がなえていくことを知っているから、どうしても今買わなくちゃいけない、という。どんなときめきも色あせ、フェイドアウトしていく、この感覚が、今の「リアル」。

ネクスト・ニュウとか、ワンランク・アップとか、エッジイとかが、感覚的にわからなくなっている。「モード」以降の服の在り方を考えざるをえない位相に、現在は突入している。

[E:clover]ただ、常に「かっこいい」というのが、ファッションにおけるコアな感覚としてある。「かっこいいとは何か」といえば、それは、マジョリティ、メインストリームへの違和感。なじまない。むれない。そまらない。その孤立はこわいけれど、少数派であることを恐れずそれをやっている人がまぶしく見える。社会に対する違和感をもっているのが、かっこいい、ということ。たとえば震災直後、写真家のなかにはあえて被災地の写真を撮らない人がいた。「私たちにできることをしよう」の大合唱のなかで、あえて沈黙を守り続ける写真家がいた。これはこれでかっこいいことだった。

[E:clover]かっこいい、とは「ハズレ」を「ハズシ」に変えること。顔が不自由だったり、背が低かったり、髪が脱落してきたりという「ハズレ」。これを、社会へのハズシに変えるのだ。そのためにファッションを戦闘服として用いるのだ。

[E:clover]だから、日本の前衛ファッションは応援団の学ランに似てくる。格闘しないと着られない服なのである。服と格闘することから、人間のハズシが始まる。

主流への抵抗とか、欠点をてこにしてブレイクする(ハズレをハズシに変える)、というのは私が『ダンディズム』で説いていることと同じではないか、とちょっとうれしくなったのであった。

にしても鷲田先生の言葉づかいは、やわらかくてユーモラスで的確。すばらしいレクチャーをありがとうございました。

昨日は東京都現代美術館にて「Future Beauty 日本ファッションの未来性」展プレセミナー。

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KCIが所有する日本ファッションのこの30年(とこれから)の展示じたいは7月28日から開催されるのだが、この日はそれに先立ち、鷲田清一先生、東京都現代美術館チーフ・キュレーターの長谷川祐子さん、そして深井晃子先生によるレクチャー、というとても贅沢な学びの機会を与えていただいた。

なんてったって、ひたすら仰ぎ見、背中を追い続けてきた鷲田清一先生に初めてお会いできるという願ってもないチャンス。これを逃しては一生の後悔(おおげさ…)と思って出かけたのだが、期待以上のお話をきかせてくださった鷲田先生。一時間の講演のなかにぎっしりと豊かに思索の果実がつまっていて、一言一言に、心からの共感を感じられた幸福なひとときだった。

終了後、ご挨拶に行くと、なんと私の本を読んでくださっているとのことで、感涙。完全なるミーハーと化してちゃっかり一緒に記念写真を撮ってもらう^_^;  先生のあたたかい対応に感謝。

長谷川さんのアタマよすぎ(!)な解説もすばらしかったし、深井先生の解説も明瞭でわかりやすく説得力があった。

鷲田先生のレクチャー、「私はなぜファッションに興味をもったのか」のお話で、印象に残った概要を以下にランダムにメモ。

[E:clover]鷲田先生は京都の島原で育った。近くには野球で有名な平安高校がある。小さいころから、日常的に、豪華のきわみのように着飾った芸者と、丸坊主の、修行僧のような姿を見てきた。つまり、贅の極みと貧相の極みという両極を見てきた。どんな過激なファッションが出てきても、その両極の間におさまるから驚かないのだ。何を見ても驚くことはないが、ただ、ファッションとは(ここまでやらねばならないのか、と思わせるほどの)「気合い」であるということは感じ取っていた。

[E:clover]1980年代の半ばからファッションに関心をもちはじめたのだが、それは、今に通じるradical(=根源的な)問いとして。

現在(震災後)、近代建築に対するラディカルな問いがつきつけられている。近代建築には3つの条件があった。1.壊れない 2.自然のどんな力にも不動 3.密封されている。 しかし、その条件が根本から問いなおされている。佐々木幹郎という詩人が、「やわらかく壊れる」という言葉を使ったが、ゆっくり壊れる間に逃げることができて、津波が来たらぷかぷかういていて、隙間だらけ、という建築があってもいいのではないか?と問われている。そのようなradicalな問いを、ファッションについて論じるつもりになった1980年代に問おうとしていた。

1980年代にはファッションデザインに革命が起きていて、もう単なる「服飾」を超えていた。一方の極には、津村耕佑の「ファイナル・ホーム」という「服であり、家でもある」デザインがあり、また一方の極には、ボディデザインが始まっていた。サプリなどを用いて体の中の物質的要素そのものをデザインしまおうという発想が生まれていた。この振幅は大きい。そのすべてを視野に入れる必要があった。

つまり、現在、「家とは何か?」という根本的な問いがつきつけられているように、1980年代には「着るとは何か? 服とは何か?」という根本的な問いに向き合う必要があった。

[E:clover]日本ファッションは、イッセイ・ミヤケ以降、エキゾティシズム(異国趣味)に頼ることを自ら禁じた。ローカリズムでもない、エキゾティシズムでもない。きわめて個性的な普遍をめざしはじめた。

個性的な普遍とは、たとえば、フランスであれば、衣食住や人間関係全般においてエレガンスを何よりも優先するということ。シトロエンの窓は逆三角形で「開かない」のだが、それでも「美しい」のでフランス人はそれをよしとする。ドイツであれば、exactness。精密さ、厳格さ、緻密さを最優先する。犬と子供の教育はドイツ女性に任せておけ、というほど。時計や刃物ばかりか政治においてもこれが特徴となっている。また、イタリアであれば、官能性を何よりも優先する。というふうに、普遍的な価値としてどれを前景にもってくるのか、は文化によって違う。

そしてまさしく1980年代、日本のデザイナーが個性的な普遍を探求し始めたのである。

[E:clover]彼らは、ファッションの価値をゼロ還元した。セクシー、美しい、エレガント、ゴージャス、という西洋ファッションの前提となっていた価値をゼロとし、まったく異なる服装の原理をもちこんだ。

西洋の服は、だぶつきがない動きやすさを追求してきた。カッティングによって、いかに複雑なボディをラッピングするか、体をいかに梱包するか、ということにすべての技を注いできた。だが、日本のデザイナーはそれとはまったく違う場所から服を構想した。

ここから連想されるのは、椅子である。西洋には椅子のデザインに実に多様なバリエーションがある。会議のための椅子、食事用の椅子、居眠りのための椅子、などなど。それに対して日本の座布団はどうだ。まったく改善されない。というか改善する気がない。「自分で工夫して座れ」ということなのだ。これはこれで一つの価値観なのである。体を賢くしておく、「アホにしない」デザインなのだ。使う側が絶えず考えないといけないから

同じ発想のものに竹笛がある。これも、使う側が努力し続けなくてはならない。日本の着物だって同じだ。ワンサイズで改良しない。自分で調整しろ、という原理なのである。

ヨーロッパはシルエットを重視するのに対し、日本の着物においては、しぐさ、たたずまい、なり、というものが重要になる。形ではなく、動く身体のしなりとかゆるみ、粋。ふるまいを演出するものとして着物がある。つまり、日本の着物には、ふるまいをどうデザインするかという思想があるのだ。身体を梱包するのではなく、身体をふるまいの座とする、という思想が。

<続きは次の記事で>

さらに読む

鈴木正文編集長のもとでリニューアルしたGQ5月号、本日発売です。

「クールな男」論、ワタクシも恥ずかしながら「ブランメル立ち」して、2ページにわたり書きつくしておりますよ。読んで頂戴。

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どや(^_^;) なブランメルポーズね。

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和光での鈴木健次郎さんとのトークイベント。当初予定されていた定員をはるかに超える80名近いお客様にお越しいただき、大盛況となりました。

健次郎さんのお話は使命感と熱を帯びていて、人を引き込む力がある。こういう第三世代のテーラーが出てきたことで、モノづくりに携わる他の業界の若い人にも好もしい影響が及ぶのではないかと思う(というか、そうなることを願う)。

ご来場のみなさま、和光のスタッフのみなさま、神戸ブランメル倶楽部スタッフのみなさまに、心より感謝申し上げます。

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(写真は最前列で熱心に聴いてくださったFB友、稲葉誠さん撮影。稲葉さん、ありがとうございました!)

☆終了後、神戸ブランメル倶楽部のメンバー数人と二次会。「バカ話」ではあったのだけれども、ヒップな真実がちりばめられていて、「流してしまう」にはあまりにも惜しかったので、メモしておきたい。

1.「ザルツブルク生まれ」にはかなわない。

伝説の色男はいろいろいるけれど、ザルツブルク生まれの男は最強である。モーツアルト、カラヤン、ツヴァイク……。どんなに伝説を積みかさねても「ザルツブルグ生まれ」のかっこよさにはかなわない。

2.釣りの前に一杯ひっかけて「自分の気配を消す」と魚がよく釣れる

釣りの話として出てきたんだけど、ほかのことにも言えるかもしれない。釣るぞ!という意欲満々のときは、決して獲物は引っかかってこないものだ。むしろ、自意識とか自分の自我を消してしまったほうが、収穫は多い。

3・「ファン」が多いギタリストよりも、実は地味に見えるベース奏者のほうが艶福家。

音楽界ではよく知られた真実なのだそうである。「ギタリスト的」な人、「ベーシスト的」な人、あらゆるジャンルに言えること。わが身および周囲を見渡して納得。

ネクタイを巻きましょう、なんて言ってるその舌の根も乾かぬうちに(^_^;)、ネクタイ巻かなくてもエレガントなスタイルについてのお話です。

「フォレスティエール(forestier:森の番人)」と呼ばれるジャケットがあります。スタンドカラ−にゆったりとしたシルエット、肘パッチがついているのが特徴。

このジャケットを考案したことで有名なメゾンが、フランスの「アルニス(Arnys)」。エルメスがセーヌ川の右岸の保守的なエレガンスの象徴であれば、アルニスは、左岸の、やや進取の気風に富んだインテリのエレガンスの象徴のように見られています。

1933年、ロシアからの移民でテーラーのジャンケル・グランベールがメゾンを創設。芸術家たちが暮らすモンパルナスにも近いことが幸いして、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、アンドレ・ジイド、ジャンポール・サルトルといった文化人らが集うサロンともなりました。

で、「ラ・フォレスティエール」です。1947年、当時、ソルボンヌ大学で教鞭をとっていた建築家ル・コルビジェが、「黒板に書く際に腕を上げやすく、ネクタイ不要でエレガントに見えるジャケットを」とアルニスに注文。それを受けて誕生したスタンドカラージャケットが、ほかならぬこのジャケットというわけですね。以後、これはとくに自由業のインテリ(詩人とか芸術家とか建築家とか)に愛され、人気の定番アイテムとなります。

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もちろん、タイド・スタイルにおいてもフレンチ・シックが漂います。ですがやはり写真を眺めていると、スタンドカラーのジャケットの襟まわりのセンスのよさが印象に残るかな。この写真は、2011-12Autumne Hiverのアルニスのカタログから。最初に見たときには、これがフォレスティエールかと勘違いしてしまいましたが(^_^;)。胸ポケットにフラップ(雨蓋)がついている点、裾がラウンドカットされている点、において違うモデルなんだそうです。ややこしいですが、そのややこしさにつきあうのがまた(服好きな方にとっては)楽しいところでもありますね。

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極道系着道楽、島地勝彦さんも、「フォレスティエール」をお持ちでした。ジャケットに合わせてパンツをアルニスで仕立てようとしたところ「お前の馬は、何色だ?」と真顔で聞かれたそうです。馬の毛色に合わせて乗馬パンツを仕立てるというのは、ごく基本のたしなみなんでしょうか。なんかもう、文化が違うというか。

そんなアルニスが、日本で本格的にビジネスを展開するにあたり(正確には、再上陸ですが)、3月1日、お披露目のパーティーを開催。お招きいただき、ちょこっとお伺いしました。

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下の写真は現在の社長、ジャン・グランベール氏と、日本人の奥様。ジャンさんは、名刺交換をしたとき、パンスネ(つるなしメガネ)を取り出してかけてらっしゃいました。クラシックなパンスネを実際にかけた方を間近にみたことはなかったので、感激。

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会場は、スリーピースで盛装した紳士がずらりで、生花のブトニエール、懐中時計のチェーンなんかも、「ごくふつう」な感じであふれていたのが印象的でございました……。写真左は、会場で遭遇した横浜信濃屋の取締役仕入担当、白井俊夫氏。さすがの堂々たるオーラですね。

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日本のメンズエレガンスの生きた見本をたっぷりと目にすることができた、貴重な機会に感謝します。アルニスのご発展を祈りつつ。HPはこちら↓

http://www.prestige-import.co.jp/

本日のうっとり。エリザベス2世の「ザ・女王」スタイルです。クリムゾン・レッドのローブにケープ、アクセサリーは王冠と白手袋とシルバーのバッグ。裾持ちとして頬を紅潮させた美しい少年をしたがえる……ってもう女王にしか許されない時代錯誤感あふれるスタイル。この圧倒的な魅力、たまりません。

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王室なんて何のためにあるのか?という廃止論が出るたび、やはりこの方がいらっしゃる限り、無条件に「ないとさびしいじゃない!」という理屈にもならん理屈で擁護したくなる。伝統や権威の象徴、威厳と魅力を兼ね備えた象徴は、ぜったいに社会にとって必要だと思う。いろんな考えや意見をもつ人の心が、そこに向かって引き寄せられまとめあげられていく唯一の圧倒的な支柱というか。

フェイスブック上で遭遇した情報。「株式会社大京」さんの、営業社員の服装ガイドラインを定めたニュースリリースが公表されていた。

男性は、プレスされた白いワイシャツ(カラー、ストライプは避ける)、紺または濃いグレー、黒系のスーツ(ストライプの強いスーツはNG)、靴は黒の紐靴。ネクタイは派手すぎるものを避ける。

女性は、襟付きの白いブラウス、スーツ着用で色は紺または濃いグレーや黒系、靴はヒールが必須だけれどそれが高すぎるのはNG。

http://www.daikyo.co.jp/dev/files/20120309.pdf

ニッポンの営業マンってなんでみんな同じ恰好をするのだろう?と常々疑問に思っていたのだが、これが「たいへん好印象を与える」(ほんとですか?)ガイドラインなのですね。あらためて文書でこのように示されると、はあ…と納得せざるをえないところもあるのだけれど。

これが「制服」。リクルートスーツの発想も、この延長上にあるのね。社員以上に個性を主張するわけにはいかない。まあ、着る方も、見る方も、余計なことを考えなくてよくて、その点はラクだというのはわかるけれど。女性の「制服」、襟付きの白いシャツというのは何なのだろう。いずれにせよ、日本独自で発達していった服装ルールとして、とても興味深い。いろんなことがもやもやと頭をかけめぐり中…。

以下はすべて、山室一幸さんからのメッセージです。ほんとに鋭い。

「スキャパレリ&プラダ」展の記者会見がありました。アートシーンに対するコミットの仕方、二人の服作りの姿勢には、アブストラクトでありながら女性が着る服としてのリアリティという共通項がありますね。
ココ・シャネルと川久保玲という比較論で言えば、スキャパレリに匹敵するのがミウッチャという構図には納得できます。ただ、川久保さんとココの間には、美しく愛された女と、世俗的な女性の美的観念へのルサンチマンを抱えた女という隔たりを感じるのですが…。ファッション界において神聖不可侵なオーラを放つ川久保玲ですが、誤解を恐れずに言うならば、モード史上初めて美・醜というヒエラルキーを超えたクリエイションだと思うところがあって、このあたり是非とも中野さんの御見解を伺いたいものです。

ココ・シャネルと川久保玲の比較。その視点、面白いですね!川久保さんが立派すぎて、だれも言わなかった(^_^;)というか、「カテゴリーが違う」というふうに、無意識にとらえていました。シャネルは、今の女性誌風に言えば「働く女性のモテ服」を作ったのですよね。でも川久保さんは、そういった価値から疎外されている女が、それを「見下ろす」べく、超越すべく、まったく違ったカテゴリーをもちこんだ…ともいえるかもしれないですね。多くのデザイナーたちが「いや私の考えるモテはそうではない」とやってるレベルを「論外」にしちゃったことで、逆に川久保さんは一段高みに昇って、全デザイナーの尊敬を勝ち得ているところがある。…もっと考えてみたい問題だと思いました。」(2012年2月26日)

 

    • 「それと中野さんからの川久保玲さんに関するご見解、興味深く読ませて頂きました。
      昨日のFBで「美・醜のヒエラルキーを超えた」と書いた真意について、もう少し詳しく説明させて頂きます。例えばファッションに物凄く精通した醜男(特に誰かを特定しているわけじゃありませんよww)が、ランバンやプラダの最新コレクションを着て自慢気に薀蓄を語ろうとも、その傍で単なるおバカなモデル風のイケメンが考えもなしに、同じブランドを見事に着こなしている風情には敵わないと思うのです。ただギャルソンだけに関しては、そいつがイカレポンチ(死語)なルックスでも、彼なりのファッション偏差値みたいな要素が如実に出て、その偏差値によって似合う度合が表現できる服であるように感じます。
      同じことが女性にも当てはまるかは言及を避けますが、少なくとも美女、美男に生まれてこなかったファッションフリークたちの救世主になっていることは事実ですよね。
      三宅一生さんの服が民族的なヒエラルキーを超越した美学を生み出したとするならば、川久保玲さんのアプローチにはモードクリエイションの更なる奥義が潜んでいると思うのですが、如何でしょうか?」(2012年2月27日)

    • 以下は、中野より山室さんへの返信です。

      「山室さん…その指摘が業界のタブーをついていて、おもしろすぎる ^_^; みんなひそかにわかっていたことですが、決してそれを口にしてはいけなかったのですよ。『そういうオマエはどっちのつもりなんだ?』みたいな批判もこわかったりするので。『境界やヒエラルキーを超える』というのは、どの分野においても『かっこいいこと』の条件ですよね。三宅一生の超え方も納得です。川久保さんの『美醜のヒエラルキーの超え方』というのは、たしかに、もっとも難しい『超越』だと思います。『生まれ』以上に、『美・醜』というのは人間のアイデンティティ形成にとって深くかかわってくる問題だと思うので…。

      なぜなんだろう、とぐるぐる考えています。やはり『美・醜』がモテや権力に直結する不条理な現実を目の当たりにするという現実もあるからでしょうか。そういえば、川久保さんは『不条理を超えたい』とよく言ってますね。」