本音に迫るインタビューをこなす人としてすごいな、と思っていた本橋信宏さんの『心を開かせる技術』(幻冬舎新書)。

こわもての人からAV界の人まで、ふだんはなかなか会えないような人にインタビューをおこなう、そのそれぞれのプロセスに臨場感があっておもしろい本。

とりわけいいなと思ったのが、代々木忠監督へのインタビュー。「あなたに逢えるようにずっと波動を送っていました」というツカミのいい挨拶(これを監督が言う)の言葉もぐっとくるし、

「自分が心のなかでつくったものは自分でしか解決できない」

「対象を否定的にとらえてしまうと、否定したものにエネルギーを与えて肥大化してしまう」

「彼は常に優等生を演じている。だからメスを刺激しない」

「”男は獣”と子どもに言いつづけると、育った子供はそんな男としか出会わなくなる。人間は意味づけしたものしか認識できないから」

などなどの、真実をつく名言の数々にはっとさせられる。

「個性とはその人の使う言葉でもある」、という著者のことばにも、納得。

心を開かせる技術とは? それを一口で言っちゃった「まとめ」は、とても平凡な一般法則なのだけれど、神はそんな抽象論には宿らない。1対1の、一期一会のインタビュー、それぞれの具体例こそがきらきらとしている。

Signature 12月号、葉山孝太郎さんの連載「スパークリングなスクリーン」、第8回。甘くて不条理な身分違いのロマンスの話(『サブリナ』リメイク版、シドニー・ポラック監督)を、登場するクリュッグのシャンパーニュにからめて。

クリュッグの位置づけ、クリュッグの描写がうまい。描写が難しいお酒だが、ああ、こう書くのか。「クリュッグは、シャンパーニュの中で最も高価で、マニアっぽく、男臭い。日本の俳優でいえば、三船敏郎的な存在だろう。フル・ボディで、シェリー酒のような酸化した風味がある。好き嫌いがはっきり分かれるというより、クリュッグ側が飲み手を選ぶのだ」

『エリゼ宮の食卓』(新潮文庫)に書かれている情報として、こんな紹介もある。エリゼ宮で海外のVIPを招いて大統領主催の晩餐会を開くときには、相手によってワインの銘柄を露骨に変える、と。「昭和天皇がエリゼ宮に招かれたとき、敬意を払ってドン・ペリニヨンが出たが、短命内閣に終わると世界中が予想した羽田首相が渡仏した際、名もない南仏のワインを出し、『何の期待もしていない』とのメッセージを送った。このエリゼ宮で最高ランクのワインがクリュッグだ。クリュッグは、フランスの最重要国、イギリスのエリザベス女王が国賓待遇で来るときなど、特別の要人にしかサービングされない」

で、クルッグしか飲まない伊達者を「クリュギスト」と呼ぶそうだ。エリザベス2世にココ・シャネル。

映画の結末と、フランスにおけるこのシャンパーニュの位置づけのからませ方が知的で、酔える。「自由と平等の中に歴然と存在する階級社会。その中で階級を超えたロマンスが実を結び、クリュッグを飲んで様になる風格を備える。これが究極の『自由と平等』かもしれない」

(ちなみに、ヘップバーン版「サブリナ」では、モエ・シャンドンだったとのこと)

昨日の健次郎氏の話にもあったけど、そうそう、「階級社会」であることが歴然としているコワイ国、フランスは、建前上は「自由と平等」の国なのだった。こういうややこしいところで、究極の自由と平等を手に入れるには、相当な<ドラマ>が必要なんですね…。

クリュッグを飲んでサマになる風格。これを備えてクリュギストに名を連ねられたら、それこそお酒好きにとっては最高の栄誉だろう。

その前に、「グラスを2個ポケットに入れ、未開封のクリュッグを1本もってパーティを抜け出す」、そんなシーンに巻き込まれてみたいもの(笑)。

夏のブランメル倶楽部のイベントで、お仕事をご一緒したテイラー、鈴木健次郎さんのミニトークショウつき受注会@銀座和光。

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日本にパリのテイラー文化を伝えたい、という熱い志のもと、少しずつ仕事の重点を日本へ移していきたいとのこと。

いつもながら感心するのだが、鈴木さんの、自分のヴィジョンを伝える表現力というのはとても高い。「黙っててもわかるだろう」なんて甘いことが通用しない異国で鍛えられたのか、あるいは元々表現力が豊かであったのか、いずれにせよ、メッセージがブレず正確に、しかも熱を帯びて、きちんと伝わってくる。

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以下、かなりランダムだが、彼の話の中からなるほど、と感じた点。

・フランスは階級社会であるから、日本のように「好きだから」語るとか、「好きだから」こんな服を買う、という発想があまりない。語るスポーツひとつとっても、階級によって異なる。当然、階級によって、作るスーツも違う。

・パリのスタイルといっても、フランスのテイラリング産業を支えている多くの人々は、外国人移住者であったりする。異なる宗教観、文化をもつ外国人が、自分のフィルターを通して、フレンチスタイルを形づくっている。そこが面白いところでもある。彼ら職人は「世界でいちばん美しいものが集まるのはパリ」という信念をもっており、自分にしかできない美しい物を作ろうとすることに、職人としての誇りをもっている。

・パリの上流階級のエレガンスのエッセンスは、「ディスクレ」(英語でいう、discreet、控えめな部分における美しさ)にある。教育、支払い方、チップの渡し方、すべてにおいて「ディスクレ」な態度が貫かれている。服においてもそうで、誇張されたスタイルはよしとされない。部分的な意匠で驚かせたりはしない。その服はどこの?と聞かれるのは、野暮の極み。着る人自身がエレガントに魅力的に見えるカッティングこそが、最重要事項として求められる。このあたりの美意識は、日本人にも通じるところがあるはず。

・自分が作るスーツにおいては、空気感を重視している。日本人の体型にぴたりと合わせてスーツを作ると、マッチ棒のようになってしまいがち。それでは美しくないので、立体感や奥行きを重視し、前面に空気の層を二重、三重に入れる。そうすることで、動作やしぐさに服がついてくる。日本の「着物をまとう」感覚と同じ。空気の層でゆとりがあっても、ウエストをシェイプしているので、ぶかぶかに見えることはない。

・フランスの顧客はテイラーに3度のチャンスを与える。一度目は、「体に合った」服。二度目は、その人の動作や癖や着心地やポケットに入れるものの習慣などに応じてゆとりを考慮した服。三度目はテイラーの美意識の反映も許すような服。三度の「テスト」にパスすれば、「レッセフェール」、あとは信頼して任せてもらえる。

・あと5年から10年足らずで、パリからテイラーはいなくなる。パリにはすばらしいテイラリングの伝統があり、何年もかけてレベルを上げてきたはずなのに、肝心のパリのテイラーがそれを次代へ伝えていこうとしない。その点が「継承」重視のアングロサクソンと違う点で、残念なところである。せっかくパリで修業を積んだ自分は、そのような貴重なパリのテイラリング文化をなんとしても日本へと伝えたい。その使命感をもって仕事をしていく。

テイラリングは文化を背負う。そして誰かがそれを、明確な言葉とそれを具現化する作品を通して伝えていかねばならない。孤独でハードルの高い仕事を辛抱強くやろうとしている鈴木さんは、仕事への向き合い方においても、多くのインスピレーションを与えてくれる。

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毎日楽しそうでけっこうですね、と皮肉交じりに言われることもあるが、多くの人々の例にもれず、生活の半分以上は苦い思いをしたり、辛抱したりすることでなんとか成り立っている。ただ、知らない人まで暗い気持ちにさせたくはないので、明るい話題しか口にしないし、書かない、というだけのこと。他人の不幸話やみじめ話は蜜の味、ということもあるけれど、それはまた別のカテゴリーでの話。

ただ、ビターな思いというのはそんなに嫌いではない。苦さを味わえばこそ、嬉しいことがあったときのありがたみも増すし。苦い思いがすっかり親しいものになっているということもある。

忘れかけていた過去のビターな思いと直面する必要に迫られた夜。シラフでは行けないなあと思って直前に立ち寄ったいつものバーで、バーテンダーが出してくれたカクテルが、"Fine and Dandy "であった。 「あまり女性にお出しするカクテルではないのですが」とのお断りつき。ジン、コアントロー、レモンジュースに、ビターズが1ダッシュ。フレッシュで苦みが強い。芯のある苦みが心地よい。

Fine and Dandyというカクテルが存在することすら知らなかった。Fine and Dandy、1930年代にブロードウェイで歌われて、ジャズのスタンダードにもなっているらしい。

英語のイディオムとしても使われる。excellent と同じような意味で使われるが、そこには皮肉がこめられる。’How are you?’ と聞かれたときに、’Everything was fine and dandy, until my girlfriend left me.’ (彼女にフラれるまでは、何も言うことはなかったね)とか。

‘Our boss suggested  going abroad on vacation'(上司、休みに海外に行くんだとさ)という話がでたときに、’That’s fine and dandy for him, but what about the poor assistants like us?’ (そりゃけっこうなことで。でもわたしらビンボー人は)とか。

楽しそうですね、などと言われたときに、どんなにみじめなことがあった後であったとしても、返す言葉としては、なかなかいいようだ。Yes, everything is fine and dandy.

ダンディズムの本なんぞ書いていながら、こんなdandyの使い方も今さらはじめて知った。ほんとに、知っているべきことに上限というものがない。なさすぎる。

それにしても、このバーがすごいのは、いつも心の状態にあったカクテルを「処方(prescribe)」してくれて、新しい発見や知識を与えてくれること。偶然が重なってるだけかもしれないけど(笑)。たしか、カウンターのアンティークっぽい酒棚にはPrescriptionというような文字が見えた記憶があるが、本来、お酒とはそういうものであったかもしれないな、と腑に落ちる。

ちょっとだけ覚悟していた過去との直面のほうは、苦みなどすっかり薄まって、水みたくさらさらの無味無臭になっていた。ほっとすると同時に、これはこれで、やや拍子抜け。

紫綬褒章を受章した女優の大竹しのぶが、会見で「過去の男」たちへの感謝を述べたということが週刊誌などで取り上げられているが。

「最初に結婚した主人(服部晴治氏)、つかこうへいさん、蜷川幸雄さん、野田秀樹さん、いろんな男の人たちが私を支えてくれた。(明石家)さんまさんには、私の中の“軽い”部分、コメディーも楽しく思えるって部分を出してもらった」

ウェブで紹介されていた週刊文春の記事では、こんなコメントも紹介されていた。

「大竹は男性の才能に惚れるタイプ。野田氏も大竹の女優としての才能に惚れていた部分が強かったから、別れた今も、仕事を通じて交流できるのでしょう」(演劇関係者)

「男に溺れるのではなく、最初の夫からはドラマを学び、さんまから笑いを、野田から舞台の魅力を教わって、着実にステップアップしてきた希有な例」(テレビ関係者)

これを読んですぐ連想したのが、ココ・シャネル。きら星のような愛人たちとの交際から、そのつど、さまざまなインスピレーションを受け、ファッションや香水やアクセサリーに昇華させた。別れたあとも、友情を保ち、イギリス、ロシア、スペイン、フランス、イタリア、ドイツなどなどにまたがる元愛人たちのネットワークは、生涯にわたりシャネルを支え続けている。

サンローラン(男だが、まあ、この方のパートナーは男だし)もそうだけど、やはり突出した成果を出す人は、公私混同というか、仕事をプライベートをきっちり分ける、みたいなせこいこととは無縁なのであるなあ…とあらためて感じ入る(オノ・ヨーコとか、神楽坂恵とか、マリア・カラスとか、エディット・ピアフとか、マリー・キュリーとか、ほかにも例を挙げればきりがない)。恋愛の情熱と仕事への情熱、それが不可分になってその人の中でトータルな化学反応を起こしているからこそ、人の心を動かすようなものが生み出されている。公私混同って、うまく機能すればだが、少なくともアーティスティックな分野においては、最強のモチベーションとなるばかりか、想定を超える成果を生み出す起爆剤になるらしい。

ジェームズ・ボンドはなぜ半世紀以上も文化的・商業的影響力をあたえているのか?に関するレクチャー。材料が多すぎてなかなかまとめきれず、しばらく延期してきたが、

I shall not waste my days in trying to prolong them. (時間をだらだらと引き延ばそうとして、かえって時間をムダにするようなことはしたくない)

という原作者フレミングの言葉に行き当たって、それもそうだな、とけりをつけた格好。締め切りをひきのばしたって、その間の時間が空疎になりがちなことは体験済み。やたら長生きだけしようとしても、その間、濃く太く生きなかったらかえってその時間は空しいだけ…という気もする。もちろん、濃く太く長く生きられれば、それにこしたことはないとは思うが。

ジャマイカの別荘で10年間だけ小説を書く。一年に一作ずつ、確実に残るヒット作を。だらだらと引き延ばさず、短期集中決戦でそれをなしとげたフレミングは潔くてかっこいい。

ボンドワールドは、マッチョでアナクロな、偉大なるマンネリズムでできている。男が幻想の男らしさにひたれる数少ないファンタジ―世界、というのがやはり根強い人気の秘密のひとつかなあ。永久に立ち入れない、というところが探究心をかきたてますね。恋愛と同じ?

そのほかに好きな(というか、印象に残る)フレミングのことば。

A woman should be an illusion, (女は幻想であるべきだ)

You only live twice.  Once when you are born and once when you look death in the face. (生まれるのは二度。この世に生をうけたときと、死に直面したとき)

後者のぴたりとくる訳語を模索中…。映画のタイトルでは「007は二度死ぬ」だったけど、原語は逆なんだよねえ。

新作はSkyfall 、悪役がハビエル・ハルデム、ますます楽しみ。

タイミングよく「ジョニー・イングリッシュ・リボーン」の試写状も届く。日本語のタイトルが「気休めの報酬」。久々に笑えるナイスな邦題!

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予告編を見たが、ローウァン・アトキンソンの髪が白くなって老けたなあ…という印象。これも「不老不死」のボンドに対するパロディか?

そんなこんなの調査をしているうちに、過去に自分が書いたボンドに関する記事の中に、調べ方が不足していたための間違いを発見。恥ずかしい。申し訳ない。消え入りたい。ホント、どれだけ研究しても enough というレベルにいきつけない。

<追記>

‘You only live twice’ に関し、ボンドマニアの友人がさっそく解釈のヒントをくれた。「一度目の生を受けたときは自覚もなく、危機を感じて初めて『生』を意識する…」ということでは、と。

それでようやく理解できた!つまりこういうこと?

『生』を感じられるのはたった二度。一度目は生を受けた瞬間。二度目は死に直面したとき。でも、一度目は自覚がないから、実は本当の意味で『生』を感じられるのは、死に直面したとき、ただその時一度のみである。

そこからさらに解釈を発展させれば、生きていることを実感したければ、死と隣り合わせのつもりでいけ、と。

そこまでは読みすぎかもしれないけど(笑)。

この解釈で ’only’ の意味もくみとることができた。ありがとう!

◇芦田多恵さんがMiss Ashidaブランドを創立して20周年。ということで祝:記念インタビュー、Jun Ashida本社にて。

コレクションのときには毎回お会いするのだが、長い時間をとってお話を伺う機会がなかなかもてずにいたので、じっくりとデザイナーの考えを聴けたことはとても意義深く、なんといっても楽しかった。

経済問題、格差問題、地球環境問題、政治的問題、その他もろもろの深刻な問題が山積する時代において、ファッションの役割をどう捉え、どのように取り組んでいくのか。

震災後にあらためて確認できた、顧客の方々との絆。

転機となったクリエーションや、デザイナーとしての立ち位置の自覚。服を作ることの意義。舞台で自分の作品を観るときの感覚。ファミリーや社員の方々との絆。などなど、興味深い話はどこまでも尽きず。

詳しい内容は、次回発行のJA誌にて。お楽しみに!

◇次の取材までの間、少し時間があるので、さっぱりめの「ウォッカコリンズ」(←「酔わないお酒」と注文したらこれが出てきた)などを飲みながら待っていたいつものバーで、急遽キャンセルの連絡が入る。「では、容赦なくいきますね」とにやっと笑ってバーテンダーが作ってくれたのが、「007 マティーニ」。

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通常のドライマティーニと若干レシピがちがう。「カジノ・ロワイヤル」の原作にレシピがあるそうだが、ジン、ウォッカにヴェルモットを加え、シェイクして、薄く大きく切ったレモンピールを入れる。ふつうのドライマティーニが甘くやさしく思えてくるほどのタフで骨太な強さで、まさしく、容赦せず挑んでくる感じ。ダニエル・クレイグのボンドは映画のなかでこれを六杯あおった。

サカナに出してくれたのが、The Gentlemen’s Clubs of London。ロンドンのほとんどの紳士クラブの内部を撮影した貴重な写真集である。007マティーニの友には最高。(英国紳士文化の専門家ということになっている)私ですらもってないレアな洋書の古書が、いつもなぜかここにくるとさりげなく出てくる。うれしくて、少しくやしい(笑)。

桐光学園の特別講座14回分の内容を書籍化した本の、4冊目。分野不問で最前線で活躍なさっている先生方14人の、中・高生向けレクチャー。とても贅沢な教育だなあと感心する。

[E:clover]とりわけ印象に残ったのが、森達也さんが2010年6月におこなったレクチャーの記録。「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」。

ノルウェーでの受刑者の様子。オスロ刑務所では、受刑者の生活に不自由ないどころか、自由まである。部屋にはテレビもゲームもあるし、冷蔵庫には旬の野菜やデザートまで。所長の話。「こうした環境にしているのは、最終的には彼らにきちんと社会に戻ってほしいから。受刑者が厳しい環境で過ごし、ひどい扱いを受ければ、更生しないまま社会に出て、適応できなくなる」

こうして受刑者は新しい人間的な環境で社交性を身につけ、ルールを守ることを覚えていくのだとか。

ノルウェー法務省の役人のことばも印象的だった。「なぜ罪を犯すのか。一つは、幼いときの愛情の不足。二つ目は、青少年のときの教育の不足。三つ目が、現在の貧困。であれば、この三つを社会がカバーしてあげればいい。苦しみを与える必要はない」。

このような寛容な措置が可能になるのは、豊富な財源があるから、といってしまえばそれまでなのだけれど。「罪と罰」に対する根本的な考え方の違いも感じる。

「善意が人を暴走させる」という森氏の意見も、深く心にとどめておく価値あり。

「『正義のため』『大義のため』『善意のため』、さらには『愛するものを守るため』という理由があったとき、人は何万人でも殺すことができる。悪意には摩擦が働き、後ろめたさを残す。でも善意には摩擦が働かず、後ろめたさがないから、人を暴走させるのです」

「さらには『危機意識』。オウム以降、僕たちがメディアによってそれを植えつけられたように、危機意識があると人は攻撃的になる。20世紀以降の戦争や虐殺のすべてはこれらが原因です。そこに領土的野心はほとんどありません。『このままだと民族が絶えてしまう。守らなければ』。そんな善意と危機意識が働き、人は際限なく人を殺し続けることができたのです」

[E:clover]もう一人、奥泉光さんの「文学力をきたえる」。

「表現とは、極端にいえば、再現すること」。過去に面白いと思った経験を、もう一度つくりだすことである、と。

「人間の文化とは、おもしろいものに触れた次の世代が、そのおもしろさを再現しようと試みる、その連続」

「文学に関わる者は、感動の質を見極めなくてはいけません」

「つくり手に求められるのは、パターンから離れた感動をどれだけつくり出すことができるか、ということ。理想は、今まで誰も知らなかった感動です。それをもし発見できれば、作家冥利に尽きるでしょう」

過去に面白いと思った経験を再現することと、誰も知らなかった感動を作り出すことの間には、いくばくかの距離があるのでは?と奥泉先生に質問してみたいのだが。 問いと矛盾が果てしなく終わらないからこそ、文学か。

☆今日は、いつもそばにいてくれる(笑)キティ・ホワイト(ロンドン生まれ)の誕生日。おめでとう!