チェン・カイコーの「始皇帝暗殺」DVD。買ってからずいぶん時間が経ったが、ようやく観る気に。というのも、なにせ長いのである。171分。結局、移動やネイルなどの合間に、3回ぐらいに分けて鑑賞。で、やっとのことで、完。邪道で申し訳ないが、それなりの充実感は残る。

大がかり(すぎ)なセットとスケール大き(すぎ)なストーリー。歴史にのみこまれる激情。舞台的な演技。1980年代だったらヒットしていたのかなあ。どうも現代のスピード感とのズレみたいのを感じた。たしかに、あらゆる点で「巨編」にふさわしい大きさで、面白かったことは面白かったのだが、今の時流と同調する監督ならばもっとスピーディーにまとめあげたはず……とも感じた。映画のスピード感と時代の速度感は、やはりシンクロしているほうが、同時代の観客としてはノリやすい。でも、どっちがいいのかは、わからない。あえて反時代的な、ゆったりとした大作を贅沢につくることができる監督は幸運である、とは言えそうだ。

刺客のケイカを演じたチャン・フォンイーが、好もしい印象を残す。コン・リーは何を演ってもコン・リーだなあ。ここまでのレベルになると、あっぱれ、とも思う。

次男のピアノ発表会@フィリアホール。渡辺信子先生の門下生16人+プロとしてもご活躍の渡辺敬子さんの特別演奏。

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ベートーベンのソナチネ第5番、バダジェフスカの乙女の祈り、モーツアルトのトルコ行進曲はじめ、ローティーンの時代に「弾かされた」(苦笑)記憶のある懐かしい楽曲に、当時の平和で幸福な時間が蘇る。音楽も、においと同様、無意識の層から古い記憶を引っ張り出す力があるようだ。

今だったらぜひとも「弾きたい」と思うけれど、肝心の指が動かない。

ベートーヴェンの悲愴、ショパンの英雄ポロネーズ、ショパンのワルツは何度聴いてもうっとりするし、演奏者によって異なる解釈を聴き分けながら、演奏者の性格や内面をつらつら想像したりするのも、また楽しい。

夏休みも終わり。今年はとりわけ暑くて長い夏だった。

佐藤優氏講師による「カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読む」会@衆議院第一議員会館。

なぜ、政治の世界で「風」が起きるのか? 小泉純一郎氏は、立派な政策をもたなかったにもかかわらず、なぜあれほど国民の支持を得たのか? 田中真紀子氏は、いっとき、なぜ「風」を起こすことができたのか? ひるがえって、浮動票を使うためには、どのようにしたらよいのか? 

こうした「制度の盲点」というか「民主主義のおとし穴」のような政治的現象を、共和制下フランスのルイ・ナポレオンが圧倒的支持を得た状況と照らし合わせながら考え、日本人の集合的無意識を言語化していく、というとても興味をそそられるテーマ。

歴史的現象は、「一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として」現れる。つまり、モノゴトは無意識のうちにらせんを描きながら反復する。だから過去の事例から類似の「構造」というかモデルを探し出すことができる、という本書にも記される考え方を確認したうえで、現代に起こっている政治・経済・社会の大小さまざまな現象を、過去の事例と比較しながら次々に分析していく過程は、たいへんに刺激的である。

現在の円高。民主党の党首選。普天間問題。浅田次郎「終わらざる夏」が今、売れている理由。団地の中で白骨化した死体と同居できる日本人がいることの意味。村木裁判のウラの意味。検察と官僚と民主党の力関係。「官僚」という一つの塊をなす階級の存在を認めなくてはいけない現状。自衛官が反旗を翻すことができる現状の不気味さ。民族と国家と市場とのバランス関係。「帝国」の本来の意味。卑近な話題では、マルクスとエンゲルスの、俗っぽくどろどろの私生活。足利義満が建てた金閣寺の中にある、むだにも見える広間の政治的意味。

革命(Revolution)の本来の意味の解説も、目からうろこが落ちる思い。レボリューションとは元来、「天体が回ること」であった。つまり、「天体の運行が変わると、それに応じて地上が変わる」というのが「革命」で、これはどちらかといえば、あきらめの思想に近い、と。

(こんなふうに、語源順に意味が書いてある英和辞典は、Oxford English Dictionaryに準じてつくられた「岩波英和辞典」のみで、1970年代に出たのが最後の版とのこと)

ちなみにレヴォリューション=革命、と訳されることになったのは、孟子の易姓革命から。天の意志が変われば、地上の王朝が変わる、というのが、易姓革命の思想。その「天の意志」に呼応するのが、ほかならぬ、民衆。

前回に引き続き、多岐にわたる圧倒的な情報のシャワーを浴びた思いがする。

外は満月。

「ゴシップガール」シーズン1のボックス2をすべて見終える。

狭い社交界のなかでの駆け引きと仲間意識と虚栄と恋と友情と陰謀と家族愛がぐるぐるにねじりあいあって、さらにヒートアップ。ブレアとジェニーのバトルの行方が二転三転するさまに目が離せない。目の上のたんこぶを蹴落とすための、おそろしいワナをしかけていくブレアの率直な邪悪さが、なぜか憎めない。ブレアに振り向かれない腹いせに、ブレアを陥れるメールを流布させながら、「誰からも相手にされなくなったお前には魅力がない」と足蹴にするチャックの正直さが、なぜか「そういうものだろうな」と腑に落ちる。偽善のかけらもない。洗練された社交界を舞台に、野蛮に近い人間心理の闘いが展開する。親同士が恋愛したり結婚したりという複雑な関係も加わり、このくだらないかもしれない世界の異様な面白さはなにごとだろう、と引き込まれる。すっかり製作者のワナにはまり、シーズン2のボックス1&2を予約注文。

感覚のバランスをとろうと思ったわけではないが、たまたま知人が薦めてくれていて積読中だった、つげ義春の「大場電気鍍金工業所/やもり」(筑摩書房)を、移動中に読む。いくら描かれる時代が違うとはいえ、「ゴシップガール」の世界と同じ人間の世界とは思えない、貧乏と悲惨と不潔と愛なき欲情の世界が、淡々とシンプルに描かれる。虚飾のかけらもない、地べたをはうような生活を「ど」リアリズムで描く世界は、読み終えると、不思議にすがすがしい。

その秘密をとく赤瀬川原平の解説も、なっとくの読みごたえ。

「焦らず、力むことなく、全部同じスピードで、安全運転のように描き進んでいる」

「職人の快感のようなものを感じるのだ。仮りに貧乏と悲惨の中であっても、いつものように刃物と鋸を使っていくと、いつものように木製品がひとつきっちりと仕上がっていく。その流れがまったく無意味に快い」

品川よしもとプリンスシアターにて、よしもと若手~中堅(?)の芸人さんたちの寄席公演。

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ほとんど「はんにゃ」目当てであったが(笑)、アジアン、品川庄司、中山功太、ロバート、はりけ~んず、それぞれ個性が際立っていて、腹筋が痛むほど笑わせていただいた。瀧川なんとかさんの「冬ソナ」ヨン様に扮したマジックも楽しく、水玉れっぷう隊のパフォーマンスには感動(コントは少し長すぎたかも)。包丁、まな板、ビニール傘、おろし金、ごみ箱、といったどの家庭にもありそうなものたちを使って、キレのいいミュージックを生みだすパフォーマンスは、驚きに満ちていて、もっとたくさん見たかった。

品川のエプソン水族館。「TSUNAMI」の記憶が生々しいので、この水槽トンネルが地震で決壊したら……とついつい想像してしまう。

トンネルの真上には、ノコギリザメがはりついていた。コワい「顔」(?)がそこはかとなくユーモラス。

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恒例のイルカショウ。今夏のテーマは「イナズマイレブン」ということで、高くジャンプしてヘディングをするイルカたち。

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近くに、なつかしいマーライオン像が見えたので近づいてみたら、「シンガポール・シーフード・リパブリック」なるレストランがあった。かの「ジャンボ」はじめ、シンガポール政府観光局おすすめのシーフードレストラン数件が名を連ねている。今夏は行けなかったので、せめて雰囲気だけでも、と入ってみる。湿度も気温も、建物もインテリアもメニューもシンガポールそのまんまという感じで、楽しくて美味しかったけど、やや割高感もあったかな。現地にいっそう行きたくなる。

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昨日の試写後、日比谷線ついでに出光美術館に寄り、「日本美術のヴィーナス―浮世絵と近代美人画」展を観たときのメモ。

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江戸時代の浮世絵から昭和初期の美人画まで、「和美人」を堪能。美人はS字曲線で描かれる。美人はすっと筋が通っているが、力みがない。美人は押し出しが強いのではなく、引き込む力が強い。などなど、日本人が「美人」として描いてきた絵を眺めながら、つらつらと考える。

西洋のドレスが足元にも及ばない和服の美しさも再発見する。幾重にも重ねられた繊細な布のちら見せ、大胆な色と柄の組み合わせ(組み合わせは無限にあるから、同じものがふたつとない)、ドレープの美しさ。帯の立体感。扇子や傘などの小物のあでやかさ。扇子をお盆にして盃を運ぶ、だなんて。

明治・大正・昭和初期に活躍した近代美人画の画家たちに出会えたことも大収穫だった。鏑木清方の「五月晴」、伊藤深水の「通り雨」、上村松園の「冬雨」など、絵の前から離れがたいほどの艶めかしさ。

上村松園のミニ画集も購入。「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである」という松園のことばの引用あり。納得。伝統的和美人のエッセンスも、「清澄で、香高い珠玉」かなあ、と。

久々に来た丸の内界隈、いつのまにかおしゃれになっていた。三菱一号館美術館(あいにく休館中)も入るブリックスクエアに、ジョー・マローンの店舗も発見。うれしさ半分、あんまりあちこちに店舗を作ってほしくない感じも半分。どこででも手に入るようになると、便利な反面、ありがたみも薄まっていくので・・・。

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韓国映画「TSUNAMI」試写@パラマウント。ハリウッド風パニック映画の範疇に収まらない、感情をはげしくゆさぶる堂々たる映画として成功している大作。

長年の思い合いの末、ようやくプロポーズの返事をもらえるかどうかという、幼なじみカップル。

自分を本当の父とは知らない7歳の娘に再会した地質学者。その元妻のキャリアウーマン。

海洋救急隊員と、金持ち浪人中の都会の女子の、始まりかけたばかりの恋。

定職についたことのないチンピラと、そんな息子を案じる貧しい母。

平凡な、でも真剣に人生を生きているフツーの人たちの思いが、高さ100メートルのメガ津波の襲来に、どう耐えるのか、変わるのか、呑みこまれるのか。

津波のシーンの、すさまじい迫力に負けず劣らず丁寧に描かれるのが、そんな市井の人々のこまやかな感情。だから単純なパニック映画に終わっていなくて、見終わったあとも情緒をこってりとひきずる。ハリウッドCG映画にありがちな鼻白み感が皆無。

ことに強い印象に残ったのが、「午後3時の男」(=中途半端)と形容された、海洋救急隊員のイ・ミンギをめぐるストーリー。女の子主導でコミカルに恋がすすんでいくのだが、彼が最後に下す決断には、涙がしぼりとられる。

恋、愛、家族愛、恐怖、使命感、笑い、悲しみ、畏敬、パニック、絶望、希望、赦し、崇高、ありとあらゆる感情を、大がかりなアクションが連続する短い時間のなかで呼び起こす。語り口も巧みで、大画面を生かしきった、映画らしい映画。

これが最期とわかった瞬間、自分ならだれを救おうとして走るのか、なにをその人に伝えるのか、思わず考え込ませるような力もある。

9月25日公開だそう。もう一度、大劇場で体感したいと思う。

昨日の取材のあと、渋谷ついでに、「ブリューゲル版画の世界」@BUNKAMURA。150点を超える圧倒的な展示で、真剣に見入っていたら、最後はほとんど足も疲れ、頭も朦朧としてくる。ゲイジュツにも体力が必要。

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予想したよりも一点一点の作品の大きさは小さい。だが、一点一点のなかに、予想したよりもはるかに豊穣な世界が、これでもかというくらい過剰につめこまれている。

おびただしい数の作品のなかでも、ワクワクするほど面白かったのは、「七つの原罪シリーズ」や人間の愚行を描く版画、そして諺をビジュアル化した世界。

「貪欲」「傲慢」「激怒」「怠惰」「大食」「嫉妬」「邪淫」、それぞれの中にみっちりと描かれるディズニーランドの建物のようなオブジェ、どこからイメージがでてくるのだろうかというグロテスクで奇怪な生き物たちは、ブキミを通り越して、魅惑的である。

実際、会場のなかでは、ヘンな生き物たちは、ひとつひとつ抽出されて、壁の垂れ幕に描かれていたり、ソファの柄になったり、デジタル化されてスクリーンの中で動いていたりしたが、かなり「かわいい」のである。一緒に見た次男は、「昔のポケモン?」と言っていた。たしかに、足のある魚や、手と翼をもつモンスター、甲羅をかぶり、頭から尻尾を生やし、手で歩く顔のキャラクターなどは、そのまんまポケモンになってもぜんぜん不思議ではない。

さまざまな動物、楽器、モノの象徴性など、はじめて知ったこともたくさん。というか学びきれないほどの情報量。人間の愚行が400年前と今とほとんど変わらないということも、あらためて実感する。

「サライ」記事のための取材で、白山眼鏡店WALLS@神宮前。あえて経年変化を演出した個性的な店舗に、他の眼鏡店では出会えないオリジナルなメガネフレームが、スタイリッシュに並ぶ。

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代表取締役の白山將視さんに、お話をうかがう。筋が一本、太く通った、すばらしい「眼鏡観」にふれて、感銘を受ける。書きたいことは山ほどあるのだが、ここではガマン。詳しくは本誌で。

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ジョン・レノンが凶弾に倒れたときにかけていた眼鏡が、ほかならぬこの店の製品だったことも知る。レノンの血も生々しい眼鏡をオノ・ヨーコが撮影していた。

「様」づけで呼びたい数少ない俳優、リーアム・ニーソン主演の「96時間」、DVDで。

DVDでちょうどよかったかなというB級感もそこはかとなく漂う映画ではあるが、それなりのカタルシスもあり。

離婚した妻(すでに妻は再婚)との間の娘が旅先で誘拐されてしまった!という窮状を救う、元CIAの凄腕のパパ。娘を救うためなら、どんな敵だって、交渉なんかしないのである。片っぱしから、敵を殺す! これが妙にスカッとする。交渉なんかしない。ただただ、めちゃくちゃ強い。ワルい奴らよりさらに強い、被害者のパパ。単純にアドレナリンが噴出する。敵をなぎ倒していく過程が、なかなか爽快だった。

ほの哀しくも絶対的な愛情をもつ強いパパと、もはや血縁のないリッチマンを「父」として暮らす娘との絆。観終わったらすかっと忘れられる映画かもしれないとはいえ、ちょっと切ない物語でもある。

ティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」DVDで。劇場で観たい観たいと思っているうちに終わってしまったと思ったら、もうDVDになっていた。

期待以上の見ごたえで、大満足。というか、なんでムリしても劇場で見とかなかったのかと、かすかに後悔すら覚える。チェシャー猫やジャバウォッキーは、どんなビジュアルで出てくるのか、想像すら及ばなかったが、ああこうくるのか、これしかないなあ、と納得させられる。チェシャー猫が消えたあとに残す「グリン(にやにや笑い)」はどう視覚化できるのかなとあれこれ考えていたら・・・・・うまいっ!(未見の方にはネタバレになるかもなので書かないが)。幻想とリアリティがいい感じで融合していて、映像はラファエル前派の絵画のように深く、細部まで丁寧に作りこまれて、官能的。ジョニー・デップを筆頭に、俳優陣も楽しんでいるのが伝わってくる。なかでもアン・ハサウェイの「白の女王」っぷり。思わず真似したくなるほどの、戯画化されたプリンセス様式は、ユーモアたっぷりのなかに微量の毒気あり。

コリーン・アトウッドによる衣装もすばらしかった。とりわけ、最後のシーンでアリスが着るブルーのテイラードのコートドレスは、美しいばかりでなく、アリスの「新しい人生のスタート」を象徴する服として、強く印象に残る。

「ゴシップガール」シーズン1・ボックス1の残りのディスクを、プールサイドで全て見終える。太陽光の下、退廃的で夜っぽい画面を追うのもなかなか妙な体験だった(傍目にはかなりブキミであったかも)。

第5話あたりから人間関係や家族関係がつかめてきて、面白さに加速がかかっていった。仮面舞踏会、デビュタント(社交界デビューする良家の子女)の舞踏会といった、これは18世紀ヨーロッパ?といった舞台を背景に、お金持ち高校生たちが、ハラハラものの友情や恋の駆け引きをする。その親たちもまた生々しく現役感たっぷりの複雑な人間関係をつむいでいく。どの家庭も、完璧ではなく、悲惨な問題を抱えている。

すっかり生活が平民化したヨーロッパの本物の貴族に代わって、かつてのヨーロッパの伝統的な「貴族文化」を継承しているのは、現代のアメリカのセレブ社会なのかもしれないなあ……とつらつら思う。

18世紀ヨーロッパ文化を現代的に解釈して再現したような舞台装置のほか、お泊りパーティー、バーレスク、バースディーパーティー、感謝祭などの今様の風景もちりばめられる。目にも驚きの光景の連続の上、駆け引きがいちいちきわどく、じわりじわりと登場人物の過去を見せていく演出も、飽きさせず、うまい。

タイトルにしたセリフは、ドラ息子チャックが、親友ネイトに言うセリフ(一言一句正確ではないかもしれないが)。そのチャックが、大切な「おまえ」ことネイトのガールフレンドを、素知らぬ顔で寝とっていたりする。チャックの口説きのセリフがまた「ティーンエイジャーですかほんとに?」というくらい強烈で強引。ラクロの「危険な関係」をも思わせる世界である。

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帰途に見た白鳥。優雅に見えても水面下で懸命に足を動かしている姿が、ゴシップガールのキャラクターたちと重なる。

ワンコが「いぬかき」で海水浴をしていた。あたりまえ、なのかもしれないが、実際に見たことがあまりないような気がして、思わず見入る。

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◇「サライ」9月号発売です。連載「紳士のものえらび」でローナーの革小物について書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇「FRaU」9月号、本とマンガ特集。紹介されていた膨大な本とマンガのなかから、気になった本などをまとめて注文。近頃は、マンガ特集を組む一般誌や女性誌がとみに増えた。

本誌の「僕らが好きな女子キャラクター」の特集で、お笑い芸人の綾部祐二さんによるメーテル讃のことばのなかから―「勝負下着っていうのはですね、ファッション性をいかに削るかが重要なんです。メーテルみたいに、真っ黒もしくは真っ白で、”下着らしい”ものを着けてみてください!」

ランジェリーカタログ誌が紹介する勝負下着とか、下着メーカーがデザインとPRに並みならぬ力を入れる勝負下着とは、まったく発想が逆の方向。

◇松本一起『男は、こんな女性と恋がしたい』(三笠書房)。若い女性向けのハウツーものだが、「第一印象」について書かれたところが、新鮮だった。多くの女性誌が説くような、「第一印象で強いインパクトを与える」方向とは真逆を説いている。

「会った人に、あなたの印象を決して強く残さないことで、かえって『あの人が気になってしかたがない』と感じさせることができるのです」

そうさせるために、具体的に説かれるメイクがこれ―「目元、眉などは、あまりくっきりと輪郭線を描かずに、淡く薄く目立たないようにしてください。そして、そのトーンに合わせて、全体を仕上げていくのです」

「シャボン玉のような淡さをもって男性と向き合え」、と。ここにもまた、多くのファッション誌が説く「モテるためには、眼力メイク」がスベってしまうような指摘。

◇久々の霞が関。いつのまにか、おしゃれなダイニングスポットが・・・。

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「オルセー美術館展2010<ポスト印象派>」@国立新美術館。

のほほんとして出かけて行ったら、入場までになんと60分待ちの大混雑。ようやく入場できてからも人垣でほとんど絵と向き合えない。会期があと1週間しかない「空前絶後の展覧会」ということで、なんだかアジア中から人が来ている、といった感(中国語、韓国語も飛び交っている)。美術館がこんなに混むのも、空前絶後?

そんな状況のなかでも、なんとか隙間を見つけてじっくり見ることができた絵の中では、アンリ・ルソーの「蛇使いの女」に心を奪われた。妖しい夢を見ているような、こってりと濃厚な熱帯林のヴィジョン。写真からは伝わってこない、艶やかな陰影にうっとり。

ファッション史の「資料」として頻繁に引き合いに出される、モネの「日傘の女性」や、サージェントの「カルメンシータ」、ジェルヴェクスの「ヴァルテス・ド・ラ・ビーニュ夫人」の絵にも、心打たれる。思っていたよりも、絵のサイズがはるかに大きい。有無を言わせぬほどの迫力の美に圧倒される。

ゴッホの有名すぎる「星降る夜」や自画像も、ああこれがあの!という感激とともに観る。油彩ならではの艶と立体感を味わうことができて、満足。

オルセー美術館が改装工事をする期間を利用して、今回の大展覧会が可能になったとのこと。あまりの混雑で、小さなサイズの絵がよく見られなかったのが心残りなので、次回はぜひ本家の美術館で見たい(って言っても、今以上に混んでいる可能性大ですかね・・・)。

外に1分出ているだけで汗がふきだす猛暑。だからといって、スリーブレスの服を着ていくと、いったんオフィスの冷房にさらされただけで、肩あたりが冷え冷えする。でも暑苦しいジャケットなんて、さらに考えたくない。

そういうシチュエーションで重宝しているのが、ミス・アシダのボレロスリーブのニットである。サマーニットなのでさらっとしているうえ、一見、肩と二の腕をふんわりと優しく覆ってくれる半袖ながら、実は脇が完全にオープンで、汗を完全に外に放ってくれるのである(外からは、まったくそうとは見えない)。汗染みを心配しなくてはいけないことからも、解放される。マッキントッシュのコートにもこんな工夫があった。あれは穴あけであったけれど。こちらは、ボレロ風の袖が、スリーブレスのニットにくっついている(脇を除いて)といったデザイン。

この秀逸なボレロスリーブは、ワーキングマザーでもあるデザイナーの芦田多恵さん考案。

汗をため込まず、すべて外に発散し、気になる二の腕も覆い、見た目も仕事仕様で、エレガントである。機能的優雅(プラクティカル・エレガンス)のお手本のようなデザインだと思う。

今日中にやらなきゃいけない仕事の締め切りが2つありながら、どこから書いてよいかわからないままジレンマに陥り、鬱々と時間だけが虚しく過ぎていく。

そういときには、つい手近にある積読中の本を手に取ってしまう。今日、たまたま読み始めてしまった本がまずかった。東野圭吾『夜明けの街で』(角川文庫)。読み始めたらおもしろくて止まらなくなって、つい、最後まで、読了。

不倫初心者の40男の心理小説×それにスパイスを添えるミステリー、といった感の、楽しい小説だった。サザンオールスターズの、ヨコハマを舞台にした不倫の歌(たしか、赤いランジェリーがカバーの写真に使われていた)からイメージされた小説のようで、重過ぎなくて、楽しく読み終える。

軽いスタンス(と思わせる筆致・・・・・・これが実はタイヘンではあるのだけれど)でいいのだ、と楽観できて、無事、自分の仕事の締め切りもなんとかクリア。

不倫初心者の男というのは、初恋中の中学生以上に、愚かしくて初々しくてかわいらしくて情けない、とこの小説を読んであらためて思ったことであった。当人は切実なんだけど、という描写がリアルで、紋切り型の行動が生むコミカルな味わいがよかった。熟練者の、ふてぶてしい落ち着きの奥にある心理、というのを東野さんにぜひ次、書いていただきたい(笑)。

       

この秋冬は、女性の曲線美がモードなトレンドになる気配である。

その背景を、セレブ事情の変化と、英国政府筋の話と、アメリカの百貨店のプラスサイズ投入と、それに便乗するデザイナー及び下着メーカーの傾向と、過去の曲線美との違いなどなどを織り交ぜ、「ハーパーズバザー」用原稿として書いた。スペースの割に、濃密に情報は盛りました。今月28日発売。

お目に留まることがあれば、ご笑覧ください。

4日付朝日新聞夕刊「彩・美・風」欄、市川亀治郎さん「異界を住処とするもの」、呪縛力の強い文章に目が釘付けになる。以下その一部をメモ。

「美も醜悪さも、こちらの度肝を抜くくらいのインパクトで迫り来る、それでなくてはならない。此の岸に立つ者の魂を奪い取り、彼岸の果てにある混沌の極みへ連れ去ったとき、はじめて美は、醜悪は、ひとつの真の美へと昇華する」

きわめて下世話な例だが、ベス・ディットーの「美」もこの類の美かもしれない、とつらつら連想する。たぶん、女性誌的な「キレイ」界の基準からみれば「醜」に属するのだろうが、存在の迫力に度肝を抜かれ、混沌の極みへ連れ去られる。そこらへんの「キレイ」など蹴散らしてしまう生命力は、やはり「美」だ。だれがだれだか区別がつかない「キレイ」よりも、一段つきぬけたこっちのほうが、かっこいい。

「美を発見するには、見えぬものを幻視する目、異界の匂いを嗅ぎ分ける鼻、あの世の声を聞く耳を持たねばならない。縄文土器に異様な美しさを見つけ出した岡本太郎は、やはり魔界の住人だったと思う。仏界入り易く、魔界入り難し。魔界に入った者だけが美の創造者たりえる」

魔界への誘い。空気が燃えて見えるほどの盛夏の日差しの下で読むと、ひときわ鳥肌が立つような一文。

増田弥生・金井壽宏『リーダーは自然体』(光文社新書)読み終える。お気楽なOLだった増田さんが、外資企業の人事部門のトップとして活躍するまでになれた秘訣。

性格、周囲に対する態度、人生に対する楽観など、くりかえし説かれてきた「成功の秘訣」が、ひとりの女性の具体例のなかに、あらためて読み取れる。「映画みたい」なキャリアの進展ぶりを楽しみつつ、自己啓発のヒントが見つかる、というような一冊。

心に引っかかったことばの、備忘録。

・「彼女は一味違う。だから採らなきゃ(She is different. That is why we need her)」。

・「彼に対し、私は自分のよい面も悪い面も包み隠さず話し、思った通りをそのまま言い、疑問に思ったことは聞き、わからない点は確認しましたから、そういう態度が『違い』となって表れたのかもしれません」

・「思えばその日、私は『自分はプロです』と宣言したのです。誰かに公言したのではありません。私は今のままで大丈夫、ありのままでOKなのだから、プロらしく仕事をしなくてはならないと、自分に対して宣言しました。そうすると、次の日から、世界がはっきり変わって見えるようになったのをおぼえています。周囲の人たちが私に一目置いてくれ、プロ扱いしてくれるように見えました。これは錯覚でもなんでもなくて、私が変わったからだと思うのです」

・「何か特別なものを手に入れるのではなくて、今のままの自分で大丈夫だと信じることが『自信』」

・「コミュニケーションとは、自分の思いが相手に正確に伝わり、それが相手の具体的な行動につながって、ようやく完結するもの」

・「上司が部下に対して『なんべん言ったらわかるんじゃ』と言ったら、これは上司の敗北宣言であって、『言う』と『伝える』の違いをその上司はわかっていない」

・「リーダーには、『doing(何をするか)』もさることながら、『being(どう在るか)』も大切」

・「ありのままでいるとは、今この瞬間の自分を大きくも小さくも見せようとせず、いつも等身大でいて、仮面もかぶらず、何よりも自分自身に嘘をつかず、誠実にそのまま在るように意識すること」

・「『今ここ』の瞬間のありのままの自分でいると、自分の魂レベルと感情レベルと思考レベルがいずれもずれないので、周囲から見ても軸のぶれないリーダーとなり、職場での判断軸も明らかになってきます。リーダーがありのままでいないと、周囲の人も居心地が悪く感じて、自分のありのままを出しにくくなり、本来もっている力を発揮しづらくなると思います」

・「リーダーは自分の足りない部分を受け入れ、周囲にも見せて、助けを求めたり、感謝しつつ協力を仰いだりすべきなのであって、結局のところ、自己受容ができるかどうかの度合いは、その人のリーダーとしての器の大きさを表わしている」

・「出張で飛行機に乗ったときには必ず隣に座った人をチェックしましたし、泊まったホテルの従業員で優秀だと思った人には名刺を渡し、将来、転職を考えたときには連絡をくれるよう頼んだりしました」

自己理解と自己受容ができているうえで(ここ、重要)、率直でありのままで、周囲にオープン。仕事でリーダーシップをとるための秘訣であると同時に、たぶん、モテる秘訣のひとつでもあるのだろう(オープンネスが行きすぎて暑苦しくならなければ、の話だが)。「ありのまま」が好もしくあるよう、日頃一瞬一瞬の心がけと修練がいっそう大事ということでもありそうだ……。