朝、BBCが大きく報じていたのがマギー・スミス(89)の訃報でした。女優としてのキャリアは長いですが、晩年のはまり役、ヴァイオレットおばあさまとしての数々のしびれる名言も記憶に鮮やかですね。

「もし論理を求めるなら、イギリスの上流階級の中にはありません」の説得力ときたら。

「希望とは、私たちが現実を受け入れないようにするための誘惑」も渋いし、

「主義主張というものは祈りのようなもの。とても立派ですが、パーティーでは気まずいわ」も肝に銘じておきたい名言です。

こんなセリフは、マギー・スミスの存在感があってこそ、重みとユーモアを同時に備えて心に届きました。

ダウントン映画の中ではすでにお葬式済みで、最後の最後まで女優として生きた雄姿を見せていただいたような感慨があります。

ご冥福をお祈りします。感謝をこめて

(写真はDownton Abbey 公式SNSより引用させていただきました)

トッド・スナイダー氏のインタビューに関し、メインの記事はGQでの公開までお待ちいただくとして、こぼれ話。

雑誌の表紙に書かれた「アルチザン(職人)」という言葉に、トッドは「ああ、これこれ」という表情で強く反応した。

その理由を確認したら、ものを作る人間として今、一番大事にしている言葉だから、と。

トッドが言う意味とは少しずれるかもしれないが、「アルチザン」に反応する男子が増えた。服好き男子によれば、職人技が過剰なまでに発揮された変態ファッションのカテゴリーをさすと。「ストリート」「スポーツ」などと並ぶカテゴリーとしての「アルチザン」。ブランドにはカルペディエム、キャロルクリスチャンポエルなど。以前からあった領域なのだが、「知る人ぞ知る」だったものがメジャーに語られるようになってきた。

「アルチザン」とは、無駄で過剰な職人技が駆使されているゆえに、稀少価値が生まれ、マニアックな熱狂も生む、それゆえ高付加価値がつくファッションカテゴリー。

AI時代に人間の手仕事の価値は上がり、稀少性を重んじるラグジュアリーにとって職人の手仕事は不可欠になっていく。

その兆候が、先駆的な領域における、極端な職人技尊重の「アルチザン」スタイルである、と位置付けたい。トッドがそのワードに敏感になるのも、これからますます重要になっていく要素だからであろう。ファッションは常に時代を予兆する。

(トッド・スナイダー氏の写真はウールリッチに提供いただきました)

MIKIMOTOが今年6月にパリで発表したハイジュエリーのコレクション”The Bows”が銀座ミキモト本店7階でお披露目、プレス発表会に伺いました。一般公開は9月28日~10月14日。ただ、このボディジュエリーはもうお嫁に行ってしまうとのこと。最後に至近距離で拝見できて眼福でした。

そのほかにもリボンモチーフの迫力ジュエリーがずらりと揃い、ドキドキが止まりません。というかこれだけのピュアな真珠(と巨大宝石)の輝きを浴びていると、魂まで清められるような感覚を覚えます。

真珠で二重のフリルを作っています。信じがたいような技巧が発揮されています。
Yuima Nakazatoのドレスとのコラボレーションも絶妙で、ああこれが日本の最先端の美意識と技巧が融合したマスターピースというものか(語彙混乱)としばしたたずんで見惚れておりました。ユイマさんは前衛テクノロジー系が注目を浴びがちでしたが、こんな「着られる」ドレスもエレガントで新鮮ですね!

みなさん、一般公開の機会はお見逃しないようにね。入場無料です。

北日本新聞別冊「ゼロニイ」10月号発行されました。「ラグジュアリーの羅針盤」Vol.23 「ゲストに迎合するのではなく、啓蒙せよ」。

ラグジュアリーに関する講演をするたびに受ける、「富裕層に気に入られるにはどうしたらいいですか?」という質問について考えていました。なんかこれって、「女性にモテるにはどうしたらいいですか?」という質問と似ているなあ、と。

女性っていっても女性の数だけいて一人一人全く違うし、ましてや「富裕層」なんてひとくくりにできるものではない。新興のインフルエンサー系の富裕層と先祖代々の資産を守っている富裕層では考え方も趣味も全く異なるし、保守層の中でも個性がそれぞれ違う。マクドナルドのハンバーガーを好むウォーレンバフェットのような人もいる。

そもそも、「こういうの、お好きでしょう?」「マーケターによれば富裕層はこういうものをお好みらしい」みたいにブランディングされ、提供されたものが面白いのだろうか? マーケティングの結果の予想をはるかに超えてくるもの、圏外から新しい発見をもたらしてくれるようなものに、人は価値を見出すのではないだろうか?

ジェンダー問わず本当にモテる人は、媚びたりせず、自分を曲げても相手の好みに合わせたりはせず、主体性をもち、新しい発見をもたらしてくれる。だからこそ、会いたくなる。

それと同じで、結果的に富裕層にモテるサービスは、志や理念をもち、ゲストに迎合しすぎず、むしろゲストに新しい視点を提供して啓蒙してしまうようなところがある。だからリピートされる。

マーケティングリサーチ以前に大切な前提があるように思います。

 

 

24日、ウールリッチの新クリエイティブディレクターに就任したトッド・スナイダー氏にインタビューさせていただきました。米WWDから今年のメンズウェアデザイナー・オブ・ジ・イヤーに選ばれるなど、最も注目を浴びるデザイナーの一人です。Woolrich Black Labelのデビューコレクションを直々に解説いただき、光栄でした。

機会を与えていただいたウールリッチのスタッフのみなさま、GQ編集部高杉さんに感謝します。

I had the honor of interviewing Todd Snyder, the newly appointed Creative Director of Woolrich, during his visit to Tokyo from New York.

As this year’s Menswear Designer of the Year by WWD, he’s one of the most sought-after designers in the industry.

It was a privilege to receive a firsthand explanation of the Woolrich Black Label debut collection.

I’d like to express my sincere gratitude to the Woolrich staff and GQ editorial team for making this opportunity possible.

LEON 11月号発売です。LEONには珍しく、ビジネスウェアがスタイリングされておりますね。

特集「チラリズム The Art of Teasing Glimpse」において巻頭エッセイを寄稿しました。お近くに本誌がありましたらご笑覧ください。

谷崎ばかり引用しているこの頃ですが、それだけインスピレーションの宝庫ということでご寛恕ください。最近の量産型整形顔というのでしょうか、あらゆる手段を講じてみな同じ顔になっていく現在のトレンドを見ていて、女性みずからが、個性のない「トレンドの女子」に収束していくことを望んでいるようだなあ…と見ていたのですが、やはり谷崎にヒントがありました。

最近の特殊な傾向かなと思っていたら、谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』のなかの「恋愛および色情」の章において、大昔から日本女性の顔は「どれも同じ」に描かれてきた、と指摘しているのです。

かいつまんでポイントをまとめるとこんな感じ。

<美人の型に幾分の変化はあるが、絵巻物にある美女の顔は、どれもこれも同じ。全く個人的特色がなく、平安朝の女はみな一つ顔をしていたのかと思うほど。歌麿には歌麿の好んで描く顔、春信には春信の好きな顔というものはあるが、同一の画家は絶えず同じ顔ばかり描いている。おそらく彼らは、個人的色彩を消してしまう方が、一層美的であり、それが絵描きのたしなみだと信じていた>

個性を消し、典型に押し込めてしまう方が、男の眼には「美人」に見えた、ということです。

「月が常に同じ月である如く、『女』も永遠にただ一人の『女』」という決め台詞にしびれます。

多くの女性が大金を課金しつつ「同じ顔」を目指している現象は、男の眼から見た美人(同じ無個性な顔)という日本の伝統を踏襲しているということでもあるのだな。

今もそれでいいのかな。

(写真は鈴木春信「中納言朝忠(文読み)」 Public Domain)

SPUR 11月号「私が愛した香水物語」でインタビューを受けました。フレデリック・マルに香水を選んでいただいたときのエピソードを紹介しています。お近くにSPURがありましたらご覧ください。

 

さて、フレデリック・マルがパリ本店で顧客に香水を選ぶとき、顧客の話を聞きながらアドバイスをするので、その結果、「パリの秘密の人間関係のすべてを知っている」ことになるわけだが(まるで告解室)。フランスに奥深い香水文化が発達していることと、パリに秘密の人間関係がたくさんあることとの間には、密接な関係がある。

ヨーロッパ型ラグジュアリーの源には、語源のイメージから、「色欲(lust)」があるということを本にも書いた。ヨーロッパ、とりわけフランスは色恋沙汰には寛容である。フランスの大統領の不倫やら恋愛沙汰はプライベートの問題で仕事や人格とはまったく無関係と見られてきたし、一般人も、他人様のことをとやかくいう資格は私にもないので、という態度である。

このような、自由奔放な性愛の快楽を肯定する思想を「リベルティナージュ」という。遠くアンシャン・レジーム時代の貴族社会に根を持つこの伝統、早い話が不倫に関する寛容さが、ヨーロッパの服の色気や優雅な空気感、香水の繊細で奥深い魅力をひそかに支えている。

リベルティナージュをホメているわけではないが、その独特の秘めやかな雰囲気を理解しないと、フランスのラグジュアリーも理解できないだろう。

一方、日本は、皆様ご存じのように、リベルティナージュ一発退場である。日本という環境でヨーロッパ型ラグジュアリーを真似をしても本物感が生まれにくい理由もそこにある。

日本は日本で、自分たちの独自の快楽や文化を冷徹に見つめなおし、そこに根差すラグジュアリーを創造していきたいものです。

8月31日におこなわれたDesign Week Kyoto  2024の内容が写真とともに公開されました。

私が話をさせていただいたプログラム3「モノづくりの持続性」はこんな楽しい図解でまとめてくださっていました。

かえすがえす、台風で現地に行けなかったのが心残りです。

 

さて、きもののルールやマナーや「格」について諸説とびかう状況が再燃していますが、きものを存続させたいという一心で書かれた、きもの愛に支えられた以下の2冊の本を、大前提としてお読みになることをお勧めします。

まずは、経済学者の伊藤元重さんと、きもののやまと会長の矢嶋孝敏さんによる『きもの文化と日本』。きもの警察さんが言う「格」や「正解」について、痛烈に斬っていきます。

矢嶋さんによれば、「きものの格」は着物業界の策略。シチュエーションごとに1枚ずつ買わせようという作戦であり、きものそのものに「格」があるという考え方が根付くのも、1976年以降とのこと。

みんなが「正解は自分の外にある」と感じていれば、その正解を知っている人が優位に立つ。ルールをつかさどる司祭のように。ルールを複雑にすればするほど、消費者より優位に立てる。その不安につけこんできたのが戦後のきもの業界だった。売る側からしたら高額なフォーマルのきものを売るほうがいい。フォーマルの場合、個人の美意識は無関係になる。「こういうものなんです」といわれたら、よくわからないまま買うしかない。いくらでも高いものが売れる、と。

そういう実態を知れば、今うるさく言われている格もマナーも、伝統でもしきたりでもなんでもないことがわかります。

もう一冊は、Sheila Cliffe, “The Social Life of Kimono: Japanese Fashion Past and Present”. Bloomsbury. 

英語版ですが、「日本の着物を殺しているのはきもの学院」という旨をずばり書いています。

 着物は本来、これほど着付けにうるさいものでもなく、因習にとらわれたものでもなかった。なのに、教条主義的なきもの着付け教室ではとても細かなルールを順守すること、がまんすることを強いられる。それ以外の着方をするだけで批判されるし、着物が本来もっていたエロティシズムがまったくなくなっている。これが着物から人を遠ざけている最大の要因である、としています。

上記の2冊とも、<きもののルールが恣意的に厳密に作られすぎ、敷居が高くなっている。一般の方がもっとカジュアルに自由にきものを楽しむことができれば、需要も増える> という思いに基づいています。フォーマルきものはフォーマルきものの世界があってもちろんよいですが、よりカジュアルに、日常で自由にきものを着られる雰囲気が醸成されれば、きもの産業全体へ利益が還元され、ひいては伝統の継承につながるのではないでしょうか。

 

つい先週、家を失い復興も進まない中、それでもプレハブで工房を建てて仕事を進める輪島塗の職人さんたちにお話を伺ったばかり…。追い打ちをかけるような大雨の災害はあまりにも理不尽です。職人の命のように調整していらした道具や材料も心配です。どうか能登のみなさんご無事でいてください。

 

……こんなときに告知もどうかとずいぶん迷ったのですが、職人さんの一人が、一番うれしいのは「作品が売れたとき!」とおっしゃっていたことを思い出しました。こんなときだからこそ少しでも作品のPRになればと思い、千舟堂の岡垣社長からお送りいただいたばかりの輪島塗支援のためのニューヨーク展覧会のお知らせです。

大西ギャラリーとKOGEI USA が2つの展覧会を同時開催します。

The Spirit of Noto: Urushi Artists of Wajima (能登の魂:輪島の漆芸術作家たち)
Waves of Resilience (復興の波)

会期:10月1日~25日
会場:大西ギャラリー 16E 79th Street, Ground Floor, New York, NY 10075
お問い合わせ www.onishigallery.com

写真は千舟堂提供。

世界中から輪島塗に関心をもっていただき、作品を購入していただくことが一番の支援になります。

Wajima is currently suffering from a once-in-several-decades heavy rain disaster. While still struggling to recover from the earthquake, this unreasonable disaster has dealt another blow.

I hesitated a lot about making this announcement at such a time, but I remembered one of the artisans saying that they’re happiest “when a piece sells!”

Thinking that even in times like these, it might help promote the works a little, here’s the announcement I just received from President Okagaki of Senshudo about an exhibition in New York to support Wajima-nuri lacquerware.

Onishi Gallery and KOGEI USA are simultaneously hosting two exhibitions:
The Spirit of Noto: Urushi Artists of Wajima
Waves of Resilience

Duration: October 1st – 25th
Venue: Onishi Gallery, 16E 79th Street, Ground Floor, New York, NY 10075

For inquiries: www.onishigallery.com
Photo provided by Senshudo

The best support is for people from around the world to take an interest in Wajima-nuri and purchase the works.

現代の日本には真面目な人が多い。ただ、自己啓発が好きすぎて、自己啓発病、みたいになっているのじゃないかと見えることもある。他人が勧める方法論をぐるぐるなぞるばかりでますます均一・横並びになっている。インスタグラムでアピールされるメイクも同じ。美容医療の成果なのか顔のパーツの形まで同じになっている。難のない、大量生産型を目指すと安心を得られるのだろうか。

思い出すのは、シャネル社元社長、リシャール・コラスさんの講義である。2011年から3年連続でおこなわれており、2013年にも聞く機会に恵まれた。

最後の質問タイム 「コラスさんが考える女性の美しさとは?」 コラスさんの答えは、シンプルだった。

「自分であること」。

イメージとしてコラスさんの脳裏にあったのは、ブランドの始祖ココ・シャネルであろう。自分であることを貫き、自分が勝てるコンテクスを創り上げていったシャネルは、社会変革までもたらした。

世間が決めるスペックをよりどころにしない。「世間並み」のアリさんレースを突き抜けて、「比較級のない」ラグジュアリーな海に泳ぎ出るには、自分を知り、一貫した行動を、限界突破しながら一定期間継続するのが基本中の基本、と当時、メモしていた。

人生に疲れも入ってきた今だったら、「そうか、猫を見習おう」と思うのだが。

突き抜けるにせよ猫になるにせよ、ラグジュアリー・クエストの旅は、どれだけ本来の自分を活かせるか、という挑戦と不可分になる。

日本のラグジュアリーに関してもそうで、どれだけ日本が本来もっている有形無形の文化資産に気づき、活かせるか、という挑戦につながってくる。

話が大きくなって恐縮だが、つまり、よそで成功した方法論の模倣を続けている限り、永久に「比較級」の劣等版から逃れられないということ。

オーセンティック(真正にその人であること)を追求するほうが、はるかに本物の安心に近くなる。

(写真は、能登空港へ向かうANAの機内から見えた富士山)

 

 

数年前に5年間アドバイザーを務めていた大好きなホテルでランチに招かれた。すれ違ったスタッフが全員覚えていてくれた。

当時は年柄年中イベントばかり企画開催していたが、スタッフにとっては成長の機会になり仕事の大きなモチベーションになった、と聞かされた。ホテルの仕事は意外と単調なので、カルチャーイベントは利益のためというよりむしろ、(ゲストの幸せのためであることはもちろんだが、ひいては)ホテリエの喜びにも貢献するようだ。ホテル内のチャペルや宴会場やレストランを利用した真夏のミュージッククルーズは、ミュージシャンたちにも喜ばれた。打ち上げの場でシンガーのプライベートな悩みごと相談をされて一緒に泣いたこともあったなあ。

時間はあっという間に経って、すぐに「昔」になってしまう。でも感情が動いたことはみずみずしく記憶にとどまっており、だからこそ、確実に経験値になっていくのだろう。表層を適当にやり過ごしたことは、すぐ忘れるし、ゆえに何も身につかない。

企業の管理職が、「監視」するのではなく、働く人を信じリスペクトしてよい環境を整えていくと、おのずから創造性を発揮していい仕事をする、という鮮やかな例を見せていただいた5年間でもありました。

感謝をこめて。

千舟堂/岡垣漆器店の岡垣祐吾社長に、輪島塗りの世界を丸一日かけてご案内いただきました。

下地塗り職人の七浦孝志さん、沈金職人の高出英次さんにじっくり取材させていただいたほか、多くの工程を統括する「主屋(ぬしや)」である岡垣社長の日常のお仕事にも同行。

リアルな輪島塗の世界の一端を学ばせていただきました。

瓦礫も多々残る環境のなか、長年親しんだ工房を失い、それでも手を動かす職人さんたちのお仕事ぶりにふれ、あまりにも多くのことを感じ考えたのでどれだけのことを伝えられるかわかりませんが、最大限の敬意をこめて記事を書こうと思います。
千舟堂の岡垣社長にはすっかりお世話になりました。

そもそも千舟堂とのご縁を作ってくださったのは、ブルネロクチネリ。クチネリ・ジャパンがいかに本気で輪島の支援を持続的におこなっているのかも現地に来て知りました。このストーリーもいずれ記事にする所存です。

取材にご協力くださいましたみなさま、本当にありがとうございました。復興が進むことを願っています。

13日に能登・輪島に輪島塗の取材に伺いました。

 

震災から8か月半経っているのに、まだまだこのような状況があちこちに残る。滑走路も道路もところどころひびわれており、バウンスする。大破したまま撤去もされない家屋があちこちにあり、建っているように見えてもインフラがだめになって休業している施設も多々ある。

仮設住宅からも人が出入りする。

そのような状況のなかでも日常の生活が営まれていて、職人さんたちが淡々と仕事を続けている。辞めざるをえなかった方もいらっしゃるなかで続けていけることはありがたい、と愚痴ひとつ言わず。

海底は隆起し、かつて海のそこにあったと思われるものが現れ、海岸線が変化している。岩が転げ落ち、道路が割れたまま、手付かずになっている。

それでも夕陽は淡々と変わらず輝くという自然の営みに、切なさがこみあげてくる。

HOSOO Couture 第二章発表会、ブルガリホテルにて11日に開催されました。3種類のゴージャスな西陣織の生地を主役とする10型のコレクションはタイムレスで高級感にあふれています。
「ブリンク」というまつげのような糸を織り込んだ生地のワンピースを着こなすのは細尾代表の奥様でもある細尾多英子さん。
バスルームにはHOSOO のシルク成分配合のソルトやボディクリームが。ベッドスローやクッションもHOSOO。ブルガリの世界観にしっくり調和しています。

世界展開も着々と進み、本格的総合ラグジュアリーブランドとしての進展が目覚ましい。

さて、HOSOOさんはすでに着々と世界展開へ駒を進めているわけですが、続く多くの日本ブランドが世界でラグジュアリーとして受容されるために、私たちができることを考えてみました。ブランドとその国の人の魅力は無関係ではないのです。

各国のラグジュアリー製品の魅力を支えている要素のなかに、その国の人やライフスタイルへの憧れがあります。『新ラグジュアリー』の共著者である安西さんに「イタリア人は自分たちのライフスタイルに自信があるから、高い価格を堂々とつけられる」と指摘されて、そういえばそう、と気がついたことなのですが。

イギリスブランドは、英国王室や英国紳士のライフスタイルへの憧れを高価格の根拠にします。
フランスブランドの背後には、パリマダムや紳士、ライフスタイルが控えており、
イタリアブランドの背景には、ミラノメンズやマダムの立ち居振る舞いがあります。

たとえすでに過去の遺産になっていたとしてもその幻影(ヘリテージ)が高価格を支えています。

日本からラグジュアリーブランドを世界へという話になったときに、高品質で美しいものはそろっているが、はて、世界の人が「すてき」と夢見る日本のライフスタイルや人は?となって戸惑うところがあります。

100年先を見据えて、自国の文化に立脚した魅力のある日本人になっていきたい(育てたい)。

隣国の量産加工型男女の真似をしたり、海外ブランドで武装してマウント合戦したりもいいけれど、そこにはついぞ本物の魅力は宿りません。

すべての日本人が、借り物ではない、内側からの、地に足のついた優しさを伴う美しさとその美を引き立てる環境づくりを目指すことは、未来の日本への社会貢献となるはずだと思いませんか? 個々人が成長していくことで、企業も世界へ展開しやすくなり、ひいてはその利益が私たちに還元される。そういう循環を生み出せることを願っています。

 

 

日本古来の知恵と世界初のiPSテクノロジーを融合させた日本発のスキンケア、TEUDU発表会が12日におこなわれました。

TEUDU=手水。

防腐剤を使わないと聞いて驚きましたが、肌の菌のバランスを最大限に整える「菌との共生」に焦点をおいた美肌スパイラルを生む環境を作ると知り、なるほど、と。

エスヴィータ代表篠崎祥子さんと研究者の継国孝司博士が10年以上かけた日本の思想と最先端テクノロジーの結晶。日本発のスキンケアはどんどん進化していますね。

 

さて。

菌を徹底的に除去するのではなく、ある程度残し、菌との共生に焦点を置いた環境を考えるという考え方。これって谷崎潤一郎のいう「なれ」ですよね。ぴかぴかに完璧に消毒しきるのではなく、むしろ手垢の照り?が残る艶をよしとする日本古来の美学。最初読んだときはぎょっとしてムリ、と思ったのですが、今回の発表会を聞いて、なるほど、汚れを落とし切らないことによる菌との共生か・・・とその思想の普遍性に感じ入ったのでした。

12日におこなわれたHAYAMA AROMANCE 発表会。ブランドを立ち上げた真海英明さんが徹底的に考え抜いたコンセプトの話、日本でもっともキャリアの長い調香師である森日南雄さんの話がリアルで興味深かった。
調香師を探していた真海さんが、日経BPに出ていた森さんを見てピンときて直に会いに行き、目を見て決めた話もヒューマンなエピソードでいいな。森さんは絵も描く。調香師は技術者というよりアーチストなんですよね…。

それにしても、というか、だからこそ、製品の「調香師の名を明かさない」のは「職人が匿名」という旧弊と根が同じでは、と感じることがある。理由はなんだろう? ブランドの世界観に奉仕するため陰の存在になっておくべきという考え方だろうか。
(HAYAMA AROMANCEはその点、調香師の名をきちんと立てていて新時代の感覚があるなと感じる)

日本の調香師界にもフランスのように「名のある」調香師がどんどんフィーチャーされていくとよいですね。

(会場になった原宿bamboo)

 

さて、香水の話題ついでに。

宮本輝『ドナウの旅人』に、「本物の香水、本物の人」に関する会話があります。

「香水って、乾いて何分かたってから役割を果たし始めるのよ」
「役割って、何の役割?」
「香水の種類によって違うと思うわ。ペーターが没頭している学問も、同じことよ。私はひとつのことに没頭して貫きとおした人は、それが決してはなやかな物でなくったって、忘れたころに匂いを放つと思うの。忘れたころに匂いを放って、人間をほっとさせたり、うっとりさせたりするのが、本物の香水よ」

ニセモノは、乾けばそれっきりというわけですね。

この道50年というような職人さんたちから放たれる人間的な「匂い」の正体もまさにこれ、と共感した一節です。

本物の香水や本物の人に接していると、自分の行動の影響を、目先の周囲の反応ではなく長期にわたるスパンで考えたいと思うようになります。

日経連載「モードは語る」。昨夕は、ラグジュアリーの持続にとって不可欠な職人の地位向上の提言を書きました。有料会員限定ですが記事はオンラインでも公開されています。こちらでお読みいただけます。

掲載した写真は、丹後のデザイン橡・豊島美喜也さんの作品です。金属織物を使った茶室のパーテーションで、青海波の柄がデザインされています。ロンドンで展示されたもので、豊島さんにお写真を提供いただきました。

英語版はこちらです。(海外の方からのお問い合わせがあった時用に勝手に作っています)

この記事、および最近の取材に関して「ラグジュアリー論のあとに職人の話というのは180度違う路線ですね」と言われて驚きました。

これからのラグジュアリーを考えるにあたり、重要になるのは手仕事の稀少性です。だからこそ職人をもっと重んじ、その地位を上げていくべきだと提言しています。ラグジュアリーの持続と職人の地位向上は、不可分な問題です。

ただ、多くの日本人にとっては、ラグジュアリー=富裕層ビジネス、でとどまっています。ゆえに、富裕層な好きなものマーケティングみたいなのがラグジュアリー研究だと勘違いされている節があります。

ブルネロ クチネリが持続的に輪島の支援をおこなっていることも顕著な一例ですが、ラグジュアリービジネスを長期的におこなう立場にある者には、ノーブレスオブリージュ的行動が大前提として求められます。

表面的なきらきら、一時的な大金の動き(の幻想)、虚飾に惑わされていると、ラグジュアリーの本質を見失うことになります。

JBpress autographにて、『ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー』レビューを書きました。

AIには書けないであろう私的な偏りの強い感想文、を意識しています。ご高覧いただけますと幸いです。

午前中は銀座で宝飾業界の方々にラグジュアリーについての講演。午後は新宿・京王プラザでホテル業界のトップセミナーで、ラグジュアリーをテーマにした講演でした(もちろん、ご参加者に応じて内容を変えています)。

(京王プラザ43階の講師控室からの風景)

午前、午後、トータルで200分ほど、久々にヒールで立ったままのレクチャーでしたが、楽しかったな。お招きいただきありがとうございました。

以下、雑記。

 

「ジェントルマンの定義をすべて満たす男はジェントルマンではない」という”定義”がありますが、実際に会うとこの人はジェントルマンか否かかは感覚で「わかる」。いわく言い難い「ジェントルマンらしさ」というのが確実にあります。表情や言葉の端々、立ち居振る舞いからそれが漂うのです。逆にそれっぽくしていてもニセモノはすぐ「わかる」。

ラグジュアリーにも似たところがあります。ラグジュアリーの言葉による定義には曖昧さが常に残るのだが、実際にサービスを受けるとラグジュアリーであるかないのかが体感で「わかる」。あたたかみのある透明で崇高な清らかさに包まれる感覚というか、現世の価値基準を無にしてしまうような新鮮な感覚というか。(だからおそらくお金の価値基準もなくなるのでしょう)。逆にニセモノもニセモノのオーラをちゃんと出しています。贅沢っぽくしつらえればそれでOKという世界ではない。

ジェントルマンにしてもラグジュアリーにしても言葉による定義に曖昧な部分を残しているからこそ時代に応じて変わり続けることができ、人が追求してやまないという一面があります。言葉を使って考えていくためにはある程度の定義枠も必要ですが、やたらと「定義、定義」と固執しすぎないことも大切なときがあります。

Design Week Kyoto 2024 「ものづくり対話」、終了しました。新幹線が一部終日運休になったため、私はオンラインに切り替わりました。

パネリストの方々はじめ、ご参加のみなさまの問題意識をたくさんうかがえたことは大きな収穫になりました。ヨーロッパで長く仕事をしてきた寺西俊輔さんの「デザイナーと職人の階級の違い」の話は強烈でした。

ヨーロッパではデザイナーの仕事は貴族の仕事、職人の仕事は手を汚すから労働者の仕事、というような歴然とした階級がある。デザイナーはピラミッドの頂点にいて、その世界観は絶対。職人はその世界観に奉仕するために存在する。この世界観を崩さないために、職人は名前を出さないのだ…という話。その階級制がいまも強い、とのこと。

なるほど。職人はデザイナーの世界観に奉仕する労働者…。だからヨーロッパでは職人が「下」に見られがちなのか。一方、日本にはその壁がない。デザイナーはデザインしながら物も作る。職人もデザインする。だからこそ、寺西さんは、デザイナーが頂点にこない、「職人」の技術を活かすブランドを日本で作ったのだ。

丹後の民谷(螺鈿)さんを取材したときに、数多くのブランドとのコラボ作品を見せていただいた。ディオールオムのように名前を公表してくれるブランドもあれば、「守秘契約」を結ばされ、コラボの事実があったことを言ってはいけない契約を結ばされるブランドもある。半々ぐらいで、まだ過渡期なのだなと実感する。ヨーロッパにおける職人とデザイナーのこの上下構造、大工さんと建築家の関係と似た構造なのだろうか?

現場での寺西さん(左)と主催者の北林さん。プログラムの内容がイラスト化されている!