超大型本です。届いてびっくり。フォトグラファー、クリス・ムーアが60年にわたって撮り続けてきたファッションショーの写真のなかから、時代を象徴するような写真が選び抜かれています。

ココ・シャネルの最後のショーから、ミュグレー、ガリアーノ、マックイーン、ヴェルサーチェといったドラマティックなデザイナー、そして2017年にいたるまで。

ところどころにアレクサンダー・フューリーのテキストが添えられています。

ミュグレーのイマジネーション、開花。

ため息をつくしかない美しいライン。2003年のグッチ。現在の「生首グッチ」からは想像もつかないエレガンス。

サンローラン、1992年。モデルが上着をとったときの衣ずれの音まで聞こえそうな。

問答無用のクリスチャン・ディオール時代のガリアーノ。クレジットを見なくても「ガリアーノ!」とわかる作風。オートクチュールはこうじゃなきゃね。

カメラのフラッシュ、フラッシュ、フラッシュ。これがショーのテンションを上げるんですよね。

けた違いにグラマラスなおよそ500ページにわたる世界。一枚、一枚の写真が、ひとつひとつの作品が、ここまでやるのかという情熱を伝えてくる。

なにか生み出そうとするとき、この写真集はモチベーションを上げてくれる。なまぬるく「こなす」のでは仕事にならない、圧倒的にエネルギーを注ぎ込まなくては人の心はつかめないし、永久に残る作品にはならないのだと戒めてくれる。

350ページほどある本格的な学術書で、この手の研究書を読み慣れていない方にはハードルが高いかもしれないのですが、興味のある向きにはお勧めです。小山直子さんの『フロックコートと羽織袴 礼装規範の形成と近代日本』(勁草書房)。

次回の日本経済新聞の連載「モードは語る」にこの本のことについて、またそこから感じた「日本人の、変わらぬメンタリティ」について書きました。しばし、お待ちくださいませ。

「礼服」に含まれた真の意味、和洋混合フォーマルの起源を丁寧に検証し、明らかにしてくれたよい本でした。御茶ノ水大学に提出した博士論文がもとになっている本とのことです。小山直子さん、リスペクト。

 

Forbes 4月号発売中です。昨年末のForbes Women AwardのIWCセッションに登壇したときの模様が掲載されています。編集長がアマゾネス組と名付けたメンバーでのトークショーですね。武井さん、杢野さん、谷本さんは「ビジネスの言葉」を駆使できるすばらしいトーカーです。

どういう人と過ごすかによって使う言葉は影響を受けるし、自分が普段使っている言葉に対しても客観的に見直す機会になりますね。コンサル出身の方は、ボキャブラリーや論理性に説得力があって、いやもう、圧倒されます。(誌面ではそれが伝わらないのがもどかしい。) 彼女たちの口癖は、「なぜならば、……」。ご出身のコンサルファームでは、このように語る習慣を徹底的に身につける訓練をさせられるのだそうです。その習慣によって思考が論理的になり、説得力のある語りができるようになるわけですね。ひとりよがりの物言いをせず、違う価値観の持ち主にも納得してもらうためには、こういう話し方も場合によっては必要。(常時だと疲れそうですが)

「そだねー」というのは決して聞かれない。女子会(笑)になればなるほど「いやそれは違う。なぜならば、……」が飛び交うハイコンテクストな会話。それぞれの活躍ぶりに刺激のシャワーを受けるアマゾネス組です。リスペクト。


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「UOMO」4月号も発売です。

横浜美術館での展覧会「ヌード 英国テート・コレクションより」にちなみ、ヌード特集が組まれています。

そのなかで、「人はなぜ、服を着るのか?」について語っております。ライターの方がまとめてくださいました。中野京子さんやみうらじゅんさん、篠山紀信さんも独自のヌード論を語っていらっしゃいますよ。本誌をぜひ手に取ってご覧くださいね。

この特集は写真がヌードアートだらけのためか、dマガジンでは読めません。本誌のみです。

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「GQ」4月号発売です。

「大住憲生×中野香織×Dの、世代を超えた座談会 ジェントルマンってなんだ?」が掲載されております。収拾がつかないのではと思われた内容をまとめてくだったのは今尾直樹さんです。ありがとうございました。

 

字面だけ読むとなんだか私がうら若いDくんをからかっているようにも読めるかもしれませんが、それは面白く読んでいただくためのライターさんの腕の見せどころでもあり。もちろん現場では三者互いにとてもリスペクトしあえた、楽しい雰囲気でしたよ。

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羽生結弦選手の別格級の天使(あるいはプリンス)のスケートに世界中が興奮し、沸いておりますが(もちろん私もですが)、「滑ることが楽しくて幸せでしょうがない」というところにやはり彼の強さの本質を感じますよね。スケートのために、食事、睡眠はじめすべての生活をコントロールする。日々、自分に課す厳しさはより良いスケーターになるためのものなので、むしろ喜々として引き受ける。

 

 

羽生選手の強さ、ウメハラの魅力、アルマーニが集める敬意、基本は同じなんですよね。天の声に従った自分の才能の発揮を最大限(というか限界を定めず)にやりきっていくところ。幸福の基準を、日々の成長の実感そのものに置いているというところ。パフォーマンスで人を感動させ、喜びを与えようとするミッションを引き受けているところ。

 才能を追求していく人だけが味わえる孤高の魂の旅から生まれた言葉がちりばめられていて、こちらも大好きな本。長期間の孤独のあとにごくごく少数の限られた同じ魂と出会うことができる幸せも説いている。アルマーニも仕事のためなら孤独もいとわない人。徹底的に美学を追求するために周囲に厳しくあたることもある。でもすべては仕事のクオリティを保つため。

 

以下は「勝負論」のなかでもとりわけ普遍性を感じるフレーズ。

・「さんざん常識やセオリーにいちゃもんをつけ、時間をかけて定石を学んだ人は、抜け出した後のバリエーションが圧倒的に違う。縦横無尽に遊び、好き勝手に活躍できる。結果として、誰も知らなかった価値、誰も目にしたことのないスーパープレーを生み出せるのだ」

・「(トンネルを抜ける瞬間の感覚) 真っ暗闇が終わるときは、それらがすべて、有機的にがっちりと自分の中でつながる感覚になる。同時に、そのゲームとは直接関係ないはずの感覚や経験、教訓も、一緒に再編成されていく。(中略)そこまでには、随分な時間がかかる。でもたどり着いたら一瞬で景色が開ける。そして、そこに行きつけた時の感覚は、ただただ、喜びしかない」

・「観客が感動するような、興奮するようなプレーは、『遊び』からしか生まれない。(中略)観客はプレーヤーの人間的な成長も物語の一面として見ているし、成長のためには『遊び』が必要不可欠なだぶつきである。『遊び』がないことを、もっとリスクとして認識したほうがいい」

・「教えられたり、教えたりという関係のなかで本当に大切なのは、あるジャンルのテクニックではないと思う。もっと人間的なことなのだ」

・「成長し続けることができれば、実はどんなレースにも対応できるようになる」

・「安心感や充足感は、ずっと成長し続けていることだけによって得られる。今成長し続けていれば、きっとこの先だって大丈夫だ。そしてそう思えることそのものが幸せのかたちだと思う。それこそが報われている状態なのだ」

 

どさくさに紛れて下に貼ったのは、

昨年、梅原大吾氏が慶應でおこなった講義。オフィシャルBeasTVにアップされている。春分の日にNHK文化センターで聴いたものとテーマも内容も異なるが、こちらも誠実を感じさせるトーク力で聴衆を釘付けにしているのが伝わってくる。

・周囲の期待に応えない(あなたの思うやり方ではないけれど、あっと言わせるやり方で応える)

・勝負前の気持ち。ノッているときには「おまえら、見てろよ今からすごいことやってやるぜ!」「沸かせてやるぜ」。そうではないときには「勝てるといいな」。

この感覚。「見てろよ今からすごいもの見せてやる」。これが目先の勝ち負けではなく、長期的に見た日々の成長の実感に幸福を感じながら生きている人の底力。

羽生選手の「どうだ観たか」といわんばかりのイーグルポーズにも同じものを感じました。天使と野獣(笑)、どこが同じなんだ一緒にするなと言われそうですが、私には同じ魂の持ち主に見えます。

 

(以下は、羽生選手の演技にうっとりしている方はスルーしてくださいね(^^;) 同じ魂の美しさを見てしまう私がおそらく変人なので)

 

 

銀座の泰明小学校がジョルジオ・アルマーニの制服(標準服)を採用するということで議論が百出しています。

決まるまでにはそれなりの複雑な事情があったはずなので今の段階で安易に是非を議論するつもりはありません。

ただ、一部イメージだけで、アルマーニを「下品」呼ばわりするニュースやSNS投稿などが目に余るにつけ、スルーしておくべきなのかもしれませんが、やはり敬愛するジョルジオ・アルマーニのために一言、擁護しておきたいと思いました。

 

ジョルジオ・アルマーニは高潔な方で、東日本大震災のあといち早く、震災遺児のために多額の寄付をしていらっしゃいますし、その後のプリヴェ(オートクチュールコレクション)では、日本文化を激励し、賛美する作品を展開して、震災直後の日本を経済的・文化的に支援してくれたのです。今生きているデザイナーのなかでも最も志高く、勤勉で、寛大なチャリティ精神を発揮している一人であることは間違いありません。

そのようなアルマーニの功績も知ろうとせず、一部の偏ったイメージだけで下品呼ばわりすることは、恩を仇でかえすようで、聞くにしのびません。

日本のブランドを採用しないのかという声も出たようですが、イングランドのサッカーチームは、ユニフォームとして(サヴィルロウではなく)イタリアのアルマーニのスーツを着ていたりします。アルマーニ・ジャパンも銀座で長くビジネスをおこなっていることを思えば、そこに国粋主義をもってくることもどうなのかなという気もいたします。

 

とりあえず2018年度は採用されるというアルマーニの制服(標準服)。もう決まってしまったことなので、どのような「効果」があるのか、あるいはないのか、じっくり観察する絶好の機会と、ひそかにとらえています。

 この本、名作です。アルマーニブランドを着る生徒さんが、ジョルジオ・アルマーニとはどのような人物で、どのような意志をもって一代でアルマーニ帝国を築いてきたのか、学ぶチャンスになるといいなと思います。

 

 

*この問題は別のところに論点があり、アルマーニが本題ではないことはもちろん重々わかっておりますが、今はその全貌がわからないので議論しません(しつこいですが)。当事者でもないし。ただ、百出する議論のなかで「下品な海外ブランド」とか「ちゃらいブランド」のような表現でアルマーニが言及されることについて耐えられなくなり、その点のみ、擁護した次第です。

山口周さんがツボだったので引き続き「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?」(光文社新書)。

明快でボキャブラリーが豊富、文章構成も緻密で快く読める。以下はまた個人的になるほど!と知ったことの備忘録メモですが。

・社会をよりよいものにしていくためには、ごく日常的な営みに対しても「作品を作っている」という構えで接することが必須。「社会彫刻」というコンセプトを提唱し、すべての人はアーティストとしての自覚と美意識を持って社会に関わるべきだ、と主張したのはアーティストのヨーゼフ・ボイス

・論理、理性の行きつく先は、「ほかの人と同じ答えが出せる」という終着駅、つまりレッドオーシャンでしかない。論理思考というのは「正解を出す技術」。このような教育があまねく行きわたったことによって発生しているのは、多くの人が正解に至る世界における「正解のコモディティ化」。

・経営は「アート」と「サイエンス」と「クラフト」の混ざり合ったもの

・デザインと経営には本質的な共通点がある。エッセンスをすくいとって、あとは切り捨てること。そのエッセンスを視覚的に表現すればデザインになり、そのエッセンスを文章で表現すればコピーになり、そのエッセンスを経営の文脈で表現すればビジョンや戦略となる。

・経営という営みの本質が、選択と捨象。

・ビジョンには人を共感させるような「真・善・美」が含まれていなくてはならない。

・求められるのは、「何がクールなのか?」ということを外側に探していくような知的態度ではなく、むしろ「これがクールなのだ」ということを提案していくような創造的態度での経営

・ソマティック・マーカー仮説。情報に接触することで呼び起こされる感情や身体的反応が、脳の前頭前野腹内側部に影響を与えることで、目の前の情報について「良い」あるいは「悪い」の判断を助け、意思決定の効率を高める。意志決定においてむしろ感情は積極的に取り入れられるべき。

・変化の激しい状況でも継続的に成果を出し続けるリーダーが共通に示すパーソナリティは、自己認識。自分の状況認識、自分の強みや弱み、自分の価値観や志向性など、自分の内側にあるものに気づく力のこと。

・オウム真理教に見られる「美意識の欠如」「極端なシステム志向」。戦略系コンサル業界にも見られる。生産性だけが問われ、人望や美意識は問われない。(お役所や最近の一部の大学もそうだ。こういうのを相手にしていると殺伐としてくる)

・DeNAの創業メンバーにおいても。問われるのは見識や人望ではなく「早く結果を出すこと」。システムの是非は問わず、システムの中で高い得点をとることにしか興味がない、という思考様式。

・非倫理的な営みに携わっていた人たちにとって、「誠実さ」とは自分が所属する組織の規範・ルールに従うことであり、社会的な規範あるいは自分の中の規範に従うことではなかった。ナチスドイツにおけるアドルフ・アイヒマン。「自分は命令に従っただけだ」と無罪を主張。

・悪とは、システムを無批判に受け入れること。

・より高品質の意思決定を行うために主観的な内部のモノサシを持つ。

・マツダが狙っているのは「顧客に好まれるデザイン」ではなく「顧客を魅了するデザイン」つまり「上から目線」。顧客のニーズや好みを探り、それにおもねっていくという卑屈な思考は放棄されている。ゴールは「感動の提供」。

・「歴史に残るデザインなのか」「魂動デザイン哲学を実現できているか」(マツダ)。

・哲学から得られる学びとは。コンテンツからの学び、プロセスからの学び、そしてモードからの学び。モードというのは、その哲学者自身の世界や社会への向き合い方や姿勢。哲学者がなぜそのように考えたのか、どのような知的態度でもって世界や社会と向き合っていたのか、という点については、コンテンツが古くなっていたとしても学び取る点は多々ある。(これ、まさに私が大学でこの10年間教えてきたこと。過去の流行を創ったデザイナーの、社会に対するモード=向き合い方・姿勢を学ぶ、これが中野ファッション学の肝なのだった。同胞を見つけて感涙の気分)

・システムを改変できるのはシステムの内部にいて影響力と発言力を持つエリートだが、そのエリートが、システムのゆがみそのものから大きな便益を得ているため、システムのゆがみを矯正するインセンティブがない。システムに参加しているプレイヤーが各人の利益を最大化しようとして振る舞うことで、全体としての利益は縮小してしまう。これが、現在の世界が抱えている問題がなかなか解決しない理由。

 

問題意識を持つ人にとっては大きなヒント満載の良書。でも思うに、「真・善・美」意識がもっとも必要と思われる(つまりぜひともこの本を読んでほしい)、ふるくさいシステムの中枢にいる人は、そもそもこのような本を読まないのだろうな。

鈴木晴生さん著『こだわる男のスタイリングメソッド』が講談社から発売されました。おめでとうございます。

銀座ライオン、クラシック宴会場にて出版記念パーティー。晴生さん人気を反映するように、スタイリッシュに着こなした参加者で熱気に満ちた会場。

本は、どこを開けても晴生さんの素敵な写真に出会える、スタイリングブックを兼ねた写真集のような作り。

メンズスーツ業界の著名な方々もずらり。イラストレーターのソリマチアキラ氏とも久々にお目にかかりました。男性は髪の色が明るくなると、洒脱な印象を与えることができていいですね。

新刊はこちらです。

Men’s EX 12月号発売です。

9月末に東京ステーションホテルでおこなわれましたTokyo Classic Night のレポートが掲載されています。

バランタインさんのサイトでも。こちらです。

あの日から1か月以上も経ったのか…。というか大昔のことのような。

そして来月号から「2018年」の表示になるのだ。時間と互角に付き合うのはなかなか難しいですね。

7月28日に交詢社でおこないました講演「ダンディズム、その誤解と真実」が収録された「交詢雑誌No.629」が発行されました。

なんと22ページにわたります。福澤武・評議員長(福沢諭吉のお孫さんにあたる紳士です)の開会あいさつから始まり、福澤評議員長の締めの謝辞にいたるまで、ほぼ全部が収録されているという迫力です。これまで「要旨」は活字になることはありましたが、全部が活字として残ることはあまりなく、無意識に口から出てしまう言葉に対しても、いっそう慎重になっていかねば、と冷汗とともに自戒。

紳士というのは具体的な指導はせずとも、その存在と振る舞いだけで相手をおのずからあるべき方向に導いてしまう力をもつ人をいうのですね。講演の前、最中、講演後にいたるまで本物の品格にあふれた社交クラブでした。

発行は 一般財団法人交詢社。

フォーブズジャパン副編集長兼ウェブ版編集長の谷本有香さんによる『何もしなくても人がついてくるリーダーの習慣』(SB  Creative)。

シャフハウゼン行きにお誘いくださったのはほかならぬ谷本さんです。今さらながらこの本を購入し、読み始めたら、3000人のトップリーダーにインタビューしたという経験に裏付けられたエピソード満載で、なるほどなるほどといちいち付箋をはりながら読み進めたのですが……

……いきなり私の名前が。

しかも太文字で出てきて、思わずコーヒーを吹きそうになったではないですか。

いやなにもこんなところで言及せんでも。しかも、谷本さんは本の中に私のことが書いてあるなんて一言もおっしゃらないのですよ。笑

あーびっくりした。

さて。自分のことはさておき。

リーダーになろうという人だけでなく、コミュニケーションに悩む人すべてに応用できる考え方の数々は、自分の経験を振り返っても腑に落ちました。

・出資するかどうか、最終的な判断材料は、「その人の言葉が真実かどうか」。

・目の前の人をみんなファンにさせてしまうような、ナチュラルな「その人らしい」魅力こそが、人がついてくる最大の秘訣。

・自分の力を発揮することよりもむしろ、周囲の人の力を発揮させる、周囲の人の話を聞くことが、味方を増やす秘訣。

・最終的に選ばれるのは、地味だけれどピュアで、「不正をしなさそうな、いい子」。

・おべっかは嘘と同じ罪悪

・会社も景気も人の感情でできている

それぞれについて語られるエピソードがまたいい。その後、リーダーのあり方を自分の仕事にも応用するための考え方も開陳されますが、ファッションの観点からの指摘がなかなか興味深い。「チーフをしている人はほとんど見たことがありませんし、カフスも、いかにもなブランドバッグも見かけません。それどころか、エコバッグをひょいと持っていたりします」。たしかにそうですね。チーフやカフリンクスやブランドものでキメキメなのは、中小企業の社長さんか、ファッション業界関係者が多い。(*「カフス」は原文のままの引用です。日本ではカフスといえばカフリンクスのこと、というように使われている場合が多いようです)

女性の場合でも、完璧な見た目だと、相手は気後れするのか、バリアを感じるのか、心を開いてくれないんですよね。和田裕美さんのことば、「変な丈のスカートで行け」「野暮ったい髪形で行け」には爆笑。そのほうが成約率は高くなる、と。言われてみれば、モノにもよりますが、私もあんまり完璧な見た目の人からは買いたくないところがあるなあ。それが板についていればいいんだけど、どこか虚栄のにおいや、無理が感じられたりすると、信用できなくなるんですよね。

 

そういえば、「自然体」がいちばんの武器、という話から連想したことがあります。谷本さんは、「相手が学生であろうと偉い人であろうと、接し方は基本的に変わらない」という私の態度を良いように書いてくださっていますが、実は、相手の態度によっては、ときどき、キレそうになることがあります。それは、

裏声でのマニュアル口調全開のセールストーク

をやられたときです。電話をとってこれを聞いたらほとんどすぐ切ります。マニュアル口調ほど嘘くさく、失礼なトークはないと感じるのです。仕事なので心にもないことを仕方なく言ってます、ということを裏声のマニュアル口調は告げています。本気で売りたいと思うなら、自然な声、自然な語り口が最高の武器になるのではと思いますが。

 

などなどの日頃の周囲の情景にも連想が及ぶ、素敵な本でした。有香さんありがとう!

*有香さんに最初にインタビューしていただいたときの記事はこちらです。もう、5,6年も前になるでしょうか…。当時から基本的な考え方はさほど変わっていませんが、変わったこともある。成功と思っていたことがそれが原因となって苦い失敗をもたらしたこともあるし、失敗だと落ち込んでいたことが実は重要な学びと新しい機会をもたらしてくれたこともある。なにが「正解」になるのか、その瞬間だけの結果で人生が終わるわけではないので、ほんとうにわかりません。あまり結果を白黒で受けとめず、喜び過ぎず悲しみ過ぎず、とにかく全力を尽くすだけ尽くして、次に向かう。こうするしかないですね(←と自分に言い聞かせる)。

 経済学者の伊藤元重さんと、きもののやまと会長の矢嶋孝敏さんによる『きもの文化と日本』(日経プレミアシリーズ)

きものの歴史と現状における具体的で生々しい実態、業界の内部でどのようなことが起きているのか、そして「やまと」がどのようにきもののファッション化を仕掛けてきたのかということが、対談形式でわかりやすく書かれている。きものをファッション化することに貢献した矢嶋さんのビジネス観、きものの歴史観も興味深く、きものの歴史と現状と未来を学びたいという方だけではなく、ビジネスヒントを探したい方にも推薦したい本。

 

以下は、個人的になるほどと思った点、ランダムなメモです。

・きものに袴は大正時代の女学生の格好。誰が仕掛けたのか?

・花火大会とゆかたがセットになったのは最近。世間の記号に乗っかっていく。

・回転寿司が登場したことで寿司のマーケットが広がった。本格的なものしか存在しちゃいけないなんて、そんなおかしな話はない。補完関係にある。

・羽織はそもそも女性が着てはいけないものだった。発祥が陣羽織ゆえに男の服装。しかし、江戸時代に深川の芸者だけが羽織を許される。彼女たちはそれを誇り「羽織芸者」を名乗る。

・ゆかたはもともと「湯帷子」。平安時代に貴族たちが、これを着たままお風呂に入っていた。(当時は蒸し風呂)湯上りに汗取りのために着ることも。江戸時代には庶民でも風呂屋に通う。当時は混浴だから、衣を着て入った。だから「浴衣」。大衆ファッションだった、という意味で、平成に入ってゆかたから「きもののファッション化」が始まったのは偶然ではない。

・ゆかたをきものの入門編と位置付ける。

・いまの若者はアメリカやパリに憧れることもないかわり、日本の文化に対する後ろめたさもない。日本文化を不自然に卑下することがないぶん、ニュートラルにきものと向き合える。

・若い人はきものが古いなんて思っていない。わかりにくいと感じているだけ。一方、お年寄りはきものをわかっているけど、もういいと考えている。

・「わかりにくさ」「着にくさ」「買いにくさ」が着物の問題点。

・わかりにくいと高く売れる。「普段着としてちょっと着てみたいな」というニーズに、今の業界は応えられていない。

・五千円札の樋口一葉の襟は個性を主張するファッション。なのに現代人は、なぜかきものに関してだけは「これは正解」「これは不正解」という感覚をもっている。カジュアルなきものが消えて、フォーマルなきものしか存在しないことの弊害。フォーム=形式だから守っているだけでいい。

・「結婚式で着ていいきもの」「結婚式で着てはいけないきもの」が存在するという刷り込み。一葉の時代には、そういう感覚がなかった。

・みんなが「正解は自分の外にある」と感じていれば、その正解を知っている人が優位に立つ。ルールをつかさどる司祭みたいになって。ルールを複雑にすればするほど、消費者より優位に立てる。その不安につけこんできたのが戦後のきもの業界だった。売る側からしたら高額なフォーマルのきものを売るほうがいい。フォーマルの場合、個人の美意識は関係なくなる。「こういうものなんです」といわれたら、よくわからないまま買うしかない。いくらでも高いものが売れる。

・戦前にはカジュアルも存在した。フォーマルしか存在しなくなった分水嶺は1976年。(石油ショックは1973年。選別が始まった) イージー化が始まる。1976年にはダウンベストを街中で着るように。

・そんな状況のなか、敷居を高くしていったのは「ホームランの夢」。ミッチ―ブームと団塊世代の成人式。この二つの成功体験が離れない。9回裏の逆転満塁ホームランみたいな現象だったにもかかわらず。

・宝石業界では「4℃」。1970年代は37500円の免税点があって、そこを超えないと税金はかからなかった。そこで、その値段以下の宝石を売る。古い宝石屋からは「あれはジュエリーであってジュエルではない」とバカにされたが、しっかりブームになる。

・洋服の場合は、戦後に生まれたビジネスだから、流通が未整備。オンワードのように新しい流通形態(委託取引、派遣社員つき)を作るしかない。

・新興勢力のほうが、新しいモデルを作ることができる。戦後、コカ・コーラが日本に上陸したとき、飲料の流通システムは確立していて、入り込む余地がなかった。そこで自販機を考え出した。そうするとまったく新しい自販機マーケットが生まれ、巨大化していく。

・1980年代のニューキモノ。供給過剰で3年で崩壊。

・「きものの格」は着物業界の策略。シチュエーションごとに1枚ずつ買わせようという作戦。

・きものそのものに「格」があるという考え方が根付くのも、1976年以降。

・アンディ・ウォーホルがデニムのパンツにタキシードジャケットを着てフォーマルな場に現れ、以後、装い方を変えたのは「ソーシャルイノベーション」。

・伝統とは、変革の中で生き残ったもののこと。最初から伝統を作る人なんて存在しない。

・市松模様は、佐野川市松という18世紀なかばの歌舞伎役者が着た衣装が由来。

・大衆文化となり、「自分が参加するもの」でなくては、生き残れない。世界遺産をめざすのではなく、生きた文化のまま、産業化することで生き残る道を探せ。

・日本人衣服の歴史は4つの時期に分けられる。宮廷文化の時代、武家文化の時代、町人文化の時代、近現代。

・帯の結び目は、19世紀初頭までは前だったり、横だったり、後ろだったりした。世界のファッション史のなかでも、後ろにポイントをもってくるのは珍しい。そもそも後ろで結ぶことに合理性がない。

・友禅は、人の名。宮崎友禅斎という画家。プロの画家が衣服のデザインをやっているというのは、外国ではありえない。きものは平面仕立てなので、いくらでも絵をつなげられる。「絵を着る」ことができる。「文様を着るための衣服。それが小袖だ」(by 丸山伸彦教授)

・訪問着は1915年に三越百貨店が発明。visiting dressを直訳したもので、昼間に着る社交着。要は、庶民に夢を見させる提案。いままでの普段着より、ワンランク上のきものを着てみませんかと。応接間も大正時代の考案。訪問着という新しい概念を提案しつつ、庶民が買える値段にした。だからこそヒット。

・ウールも木綿も麻も、洋服の世界では低い扱いを受けていない。絹より格下だと考えているのは、きものの世界だけ。1970年代まではいろいろな素材があった。いまは可能性を限定してしまっている。

・きものは4段階で変化。江戸時代に小袖が誕生した時に「着物」が生まれる。近代、洋服が入り、着るものイコール和服ではなくなったが、その後も和服のことを「きもの」と呼ぶ。1980年代に入って「キモノ」が登場、2010年代から誰も見たことのないKIMONOが現れる。

・赤福の濱田益嗣社長は、味には3つあるという。見て食べたいと思う「先味」。食べてみておいしいと思う「中味」。そして食べた後、また買ってもいいなあと思う「後味」。3つ目を大切にすることで未来が生まれる。

・高額商品には絶対にストーリーが必要だし、店員にはそれを説明する義務がある。

・一時、日本人が米を食べないと大騒ぎした。だけど、吉野家の牛丼、コンビニのおにぎり、回転寿司の3つが米を救った。自然と米を消費してしまう仕組みを作ったことが重要。きものだって、きものを着るというスタイルを売ることで、残せる。手厚く保護することできものを残そうとしても、無力。みんなが自然ときものを着たくなるような仕組みを作る。そして売れる市場を創る。そこから産地へお金を回していく。つまり、文化を産業化する。

・便利で早くて安くてという世界共通項が多いのが文明。誰が作っても同じ味になる。(カップヌードル) 一方、お茶なんかは、入れる人によって味が変わる。これは文化。

・きものを着ることは毎日違う形を作り上げること。きものを着ると、昨日までと同じ場所にいても、まったく新しい自分が発見できる。インナートリップ。時間の流れ方が変わるし、自分の所作が変わるのを実感できる。

ほかにも示唆に富む話が満載だった。2020年のゴール「きものの森」に向けて、改革の行方を見守っていきたい。

Sheila Cliffe, “The Social Life of Kimono: Japanese Fashion Past and Present”. Bloomsbury.

  キモノの歴史、現在を描くとてもアカデミックな本。これは今年の3月に発売された英語版だが、日本語版が発売されたら物議を醸すのではないか。

なんといっても、「日本の着物を殺しているのはきもの学院」という旨を書いているのだから。

着物は本来、これほど着付けにうるさいものでもなく、因習にとらわれたものでもなかった。なのに、教条主義的なきもの着付け教室ではとても細かなルールを順守すること、がまんすることを強いられる。それ以外の着方をするだけで批判されるし、着物が本来もっていたエロティシズムがまったくなくなっている。これが着物から人を遠ざけている最大の要因。なるほど。

それを論じるための歴史的根拠が挙げられている点がすばらしい。現在の着物のルーツになっている江戸の小袖はたしかに、もとは下着だったのだ。身体を絞めつけ過ぎず、裾からちらりと見える襦袢の赤や裏地などがエロティシズムを演出していた。西洋にわたり、コルセットからの解放を促したのも、まさにこの時期、室内着として着られていたキモノだった。

 

21世紀に入って、着物人気がグローバルに広がり、世界中で自由な着物の着方が提案されている。(そのなかのいくつかは「文化の盗用」などと不当なバッシングにも合っているわけだが。)日本でも、きもの学院系の原理主義を破壊すべく、自由な着方を提案するスタイリストやデザイナーが続々が登場している。若い女の子も自由気ままな着方をしている。これに眉をひそめる原理主義者が多いことも知っているが(彼女たちは、自分たちこそが正しい着物の伝統を守っていると微塵も疑っていない)、しかし、本来、着物がもっと自由で楽でエロティックでさえあったことを知れば、着物の未来のためにも、現在、試みられている自由なアレンジはある程度、奨励されてもいいのかもしれないと思う。それが衰退の危機にある着物産業の発展を促すことを思えば、いっそう。

 

アカデミックなアプローチながら、写真も豊富で、一般の読者にも難しくない。より多くの日本の読者に読んでいただくべく、日本語版の登場を切に希望します。(もし、すでに企画が進行中でしたら、完成を楽しみにしています。)

 

高野登『リッツ・カールトンと日本人の流儀』(ポプラ社)。

 アメリカに渡り、皿洗いからスタートしてリッツ・カールトン日本支社の社長になるまで、どのようなリーダーと出会い、いかなる学びを得て、どんな努力をしてきたのか。前半はその苦労や学びの話が主で、エピソードがいちいちかっこいい。

後半は日本の会社の具体例をとりながら、日本的なおもてなしの心の話、リーダー論など。以下は、個人的なランダムな備忘録です。どんな仕事に就いても適用できる考え方だと思う。

・成長するとは、「人の心に寄り添い、人の思いを感じる力」がつくこと。

・お客様とスタッフ、スタッフ同士が尊敬し合い、人間同士として認め、認められてこそ、仕事に対する誇りも喜びも感じることができる。そのためには、スタッフも紳士淑女としての堂々とした立ち居振る舞いや豊かな教養、瑞々しい感性を身につけること。

・目指す年収の5%を自分に投資すること。(目指す年収の、というところがポイント)

・誰もがやっていることを、誰もがやらないレベルでやる。

・「倒されし竹はいつしか立ち上がり、倒せし雪の跡形もなし」

・チップには必ず「Thank You」とひと言書かれた小さなメモが添えられている。使用したシーツやタオルもきれいに整頓されている。さらに、チェックアウト後に手土産を渡す(チェックインの時だと、お返しを気遣わせるので)⇒こんな客だと「この方のためなら」とスタッフの感性にスイッチが入る。サービスを超えさせてしまう瞬間。(こんな客にならなくてはね)

・トップが語る確かな言葉が、心を動かし、人を動かす。

・バックヤードで働くスタッフを、裏方とは呼ばない。「ハート・オブ・ハウス・スタッフ」と呼ぶ。普段から、「私はこのホテルのハートを支えているスタッフなんだ」という意識で仕事に向かう姿勢がプロの仕事を磨き上げていく。

・トップになるときのコミットメント(腹の決め方)は3つ。Love, Passion, Courage。とりわけCourageが最も難しいゆえに重要。

・ブランディングとは、お客様のライフスタイルやプロフィールにリッツ・カールトンを取り込んでいただくこと。(そこで食事をする、宿泊する、打ち合わせをする、ということを取り込んでいただくために、何を求めているのかに気づく感性が重要。徹底的に研究し、考え、創意工夫をし続けながら価値を創造する、それがブランディング)

・信頼関係はたくさん言葉を交わすことで築かれる。

・人生はウェイティング・ゲーム。

・社長という役職はあるが、リーダーという役職はない。リーダーは「何をするか」ではなく「どんな人か」。生き方そのものが問われる。語るべき確かな言葉を持たないリーダーは、理念や社会で果たすべき役割を社員に示せないため、社員が誇りを持てず、その能力を発揮するこたができない。マネジメントはできても、夢を語り、人を巻き込み、引っ張っていく力がない人はリーダーとは違う。

・一所懸命生きていると、良い方向へ導いてくれる良き人との出会いがある。人生の「あみだくじ」の横棒がひかれていく。そうして段々と人から「ほっとかれない」人間になっていく。

本書に登場する伊奈食品工業の新人研修にならい、百年カレンダーのなかで、「自分の命日」に印を入れてみる。そこから逆算して、どんな物語を作るべきなのか、考えるよい契機になった。

 

 

高野登「リッツ・カールトンで学んだ超一流のおもてなし」(SB Creative)。まんがでわかるシリーズ。

ホテルやレストランにおけるおもてなしの心得を超えて、仕事一般について言えることが「ストーリーまんが」+解説という形で書かれている。具体的なエピソードもドラマのようで、インパクトがある。

仕事に向かう姿勢を今一度、正さねばとカツを入れるのによい本でした。以下はランダムな、個人的に覚えておきたいことのメモです。

・温かいサービスができるのは、そこで働く人自身が大切にされていると実感できたとき。

・言われたことをやるのがサービス、言葉にされないニーズに気づくのがホスピタリティ。

・挨拶=体全体で相手に迫っていくこと。 気持ちをこめる。 言葉を添える。

・気づいて行動することがおもてなしの基本。相手が自分の家族だったらどうするか?と考える。

・We are Ladies and Gentlemen serving Ladies and Gentlemen. 紳士淑女をおもてなしする私たちもまた紳士淑女です。

・リッツカールトンでは従業員が一日20万円をお客様のサービスのために使う決裁権を持っている。決裁権は信頼の証でもある。

・マニュアルをこなすのが作業、お客様の気持ちに自分の心を添えるのが仕事。

・観察力、洞察力、行動に移す表現力、そして先読み能力。

・お客様でさえ「無理だ」と思っていること、期待以上のことを実現できたら、お客様との強い絆、「物語」ができあがる。「そこまでやってくれた!」というサービスは記憶に残る。

・公平なサービスこそ不公平。お客様ひとりひとりを「区別」し、たった一人のお客様との物語を作り、次につないでいくことで「特別感」を持ってもらえる。

・お客様の反応に仮説をもつ。いちいち凹まず、なぜそのようなことを言ったのかを考えてみる。

・清潔さは人を呼び、「きれい」は循環する。汚したくないくらいに徹底的に清潔にしておく。

・クレーマーのレッテルをはらない。クレームはオポチュニティ。逆にファンになってもらう機会ととらえる。

・トラブルが起きたときは20分後に連絡を入れ、進捗を報告する。

・チーム、パートナーを大切にする。業者という言葉は使わない。世間が業者と呼ぶような関係の人たちともパートナーとして心のこもった関係を結んでおくことで、いざという時に助け合え、新しいお客様も連れてきてもらえる。

・プライド&ジョイを意識する。

 

上記すべてのことは、書く&話す&伝える自分の仕事においても徹底させるべき必須事項ですね。感動を与えられずにリピーターはない。物語を作ることできずに絆など生まれようもない。仕事の継続に、慢心は禁物。

 

Forbes Japan 9月号発売です。

5月にIWC×Forbes Japanの企画でシャフハウゼンに行きましたが、その模様が詳しい記事になって掲載されています。目次はこちら

「IWCの伝統と5人の日本女性たち」

なんと8ページにわたります。お話をうかがったクルト・クラウス、フランチェスカ・グゼル、クリスチャン・クヌープ、ハネス・パントリ、各氏のこともすっきり整理されて書かれています。私に響いたことと、ライターさんのまとめが若干ずれております。同じ話を聞いても、受け取る人によって違うところが印象に残る。なるほど、そこか!と。そんな受け取り方の違いを知るのも楽しいものです。

機会がありましたらご笑覧くださいませ。

 

本日の日本経済新聞 The NIKKEI Styleに、4月にドルチェ&ガッバ―ナにインタビューした記事が掲載されています。写真も美しく、目の覚めるような紙面になっています。ぜひぜひ、ご覧くださいませ。

ショウのこと、ディナーのことも書きたいことはたくさんありましたが、紙幅の関係で割愛せざるをえなかったのが心残りです……。

それにしても本当に豊かな時間だったなあ。パークハイアットでの単独インタビューも、101人の男女日本人モデルを使った壮大なショウも、スカラ座を移した赤テントでのディナーも。そして送られてきたデザイナーからのサンキューカード。けた外れのラグジュアリーを体験し、デザイナーの誠実な人柄にふれ、多くのことを学ばせていただいたお仕事でした。

一般社団法人社会応援ネットワーク(高比良美穂 代表理事)が出版する、若者応援マガジンYell  vol.2。

スーツについて取材を受けました。「仕事と服装の関係について教えてください」というタイトルで、話したことをまとめていただいた記事が掲載されています。

フリーペーパーです。

こちらからより詳しい中身をごらんいただけます。

 『英国貴族のすべて』(宝島社)。数人の執筆者による解説と豊富な写真。

ダウントンアビー(主にシーズン1~3)を例にとりながら、イギリスの貴族の相続問題、階級、テーブルマナー、呼び方、ファッション、結婚、使用人の序列と仕事内容、給与明細など、美しい写真とともに解説されています。2016年2月15日発行のムック。

しかし、「ファッション」の項目は、恐縮ですが、間違いが目立つのです。スルーしておいてもいいかとも思ったのですが、これを参照するファンも多く(FBのダウントンラバーズのウォールでも紹介されていました)、やはりこの記述はあまりにも……と思うところがありましたので、ダウントンファンのみなさまのために、指摘させてください。

 

69ページ。


真ん中あたりのキャプションに、「パーティーの正装では色が派手なものを着用することも」と、あたかもグランサム伯爵らがおしゃれで赤のジャケットを着ているように書かれていますが、そうではなく、この赤いジャケットは「メスジャケット(またはメスドレス)」と呼ばれるもので、将校がディナー時に着用した、フォーマル用の「制服」の一種です。将校は実に多種類の制服を着分けており、メスジャケットも「NO.10」などとも呼ばれた制服の一種です。グランサム伯爵もマシューも陸軍将校でしたね。

Mess-Jackets
さらに同ページ上、伯爵が羽織っているマントのキャプションに「日本ではシャーロック・ホームズが愛用するコートとして有名なケープ状の袖なしコート。正式にはインヴァネス・コートと呼ばれ、英国紳士の洒落た上着として愛された」と書かれていますが、そうではありません。インヴァネス・コートは長いコートとケープが二重になったコートです。伯爵がメスジャケットの上に羽織っているこのケープもまた、将校用のクローク、軍服の一種ではないでしょうか?(名称はいま探し中です。軍服に詳しい方どうぞ教えてください)。メスジャケット、クローク、ともに将校の軍服であって、「洒落た上着」などではないはずです。

そもそもインヴァネス・コート(インヴァネス・ケープとも呼ばれます)は、このタイプです。

ちなみに、エリザベス女王も海軍将校のクロークを着た肖像画を残し、写真も撮らせています。このクロークはGieves & Hawkes製。

上は、One Savile Row: Gieves & Hawkes (Flammarion)が紹介する、1930年代の軍服のインディケーター。将校は時と場面に応じてこれだけの種類の制服を揃えなくてはならなかったのですね。これは海軍の場合ですが、「Full No.1」「Undress No.9」「Mess Dress No.7」などと書かれたその下には、細部のアクセサリーにいたるまで何を装着すべきかが指示されています。

ほかにも本書には疑わしい記述がありますが、今の段階では「確たる根拠」を提示できないので、もやもやのままにしておきます。

レディスファッションの記述も怪しいです。漠然としすぎているというか。「現代日本人女性が結婚式やパーティーで身にまとう華やかなドレスが普段着だった。いや、それよりもさらにゴージャスだったと言っていい」「高貴かつハイセンスなものが求められた」って……。この時代、この階級ならではの服装の特徴やルールの解説、具体的な名称がほしかったところです。

一つが疑わしくなると、ほかの箇所の信憑性もやや不安になってきますが……。コンセプトはとてもいいと思うので、続編を作られる際はぜひ、細部の正確さを徹底させたものを出していただきたく、心よりお願いしつつ、楽しみにしています。

いい点も書きます。この本のなかでの最大の発見は、チャーチルの母ジャネット・ジェロームについてのコラムでした。アメリカの新興成金の娘である彼女は奔放で、結婚後も夫より地位の高い男たちを愛人にもち、そのネットワークを息子や夫の出世に利用したとのこと。そして夫の死後は、若い男性との恋に生き、二度目の夫はチャーチルと同じ年、三度目の夫はさらに三歳年下だって。かっこよすぎますね。(ほんとうだとしたら。)

  細切れの移動の途中に読みました、『壇蜜日記』1,2,3。文春文庫。この人の言葉のセンスが抜群に好きだし、自意識のあり方とか人の観察のしかたなど、おそろしく共感できる。

『壇蜜』を演じる、冷めていて地味な女性像(ひょっとしたらこれもまた演じられているのかもしれないが)には惹きつけられる。

じくじく、うつうつ、表現したくても立場上、のみこむしかない怒りや精神的な苦痛、悲哀に襲われた時など、気持ちを代弁して、昇華してくれるようで、読んでいるだけで救われる。

 

 「昔は『良い子』にしていたらプレゼントがもらえた。今は『イイコ』に思われると『イイコぶってんじゃねーよ』と罵声を貰える」……わかりすぎる。笑

「高くていいものを身につけていると揶揄されるが、安いものを身にまとっていると相手にされないこともある。忙しいと言えば金を持っていると決めつけられるが、暇だと言えば干された干されたと熱心に追いかけまわしてくれる」……これもほんと、あるある。

世間の非情を淡々と受け流し、自分に対するひどい中傷をどうすることもできずに受け止め、痛みの感情と静かにつきあっていく。共に傷をなぐさめあえる戦友というか親友ができたような錯覚を覚える。SNSでBFF(Best Friend Forever)アピールするきらきら女子の対極にあるメンタリティですね。もっとたくさん書いてほしい。

 

「レンズが撮らえた19世紀英国」(山川出版社)。これまであまり目にしたことのない19世紀のイギリスをとらえた写真が豊富。海野弘先生はじめ、専門家の解説により、それぞれの写真の「意味」がわかりやすくなっている。

個人的にはアルバート=エドワード(のちのエドワード7世)のオクスフォード大学時代の写真がツボにはまりました。立ち方、帽子の持ち方、視線の方向に、バーティー(愛称)の美意識がありありと現れているように見えます。

当時流行したファッション、ヘア、メイク、「英国美女」にも新鮮な発見あり。南方熊楠、夏目漱石、高村幸太郎ら「日本人から見たロンドン」の章もあります。「学問好きだが学校は嫌い」だった南方熊楠の型破りな学究生活ぶりに心打たれる。

 

行方昭夫先生『英文読解術 Mr. Know-All』(DHC)。

英文精読シリーズ、最新刊。モームの「物知り博士(Mr. Know-All)」の原文を精読しながら英文読解を学ぶことができ、同時に、行方先生による全訳も味わえる。

(あちこちで何度も書いているが)行方先生の「コンテクストを読め!」「辞書を引け!」という厳しい英文読解特訓の授業があったからこそ、どんな英語でもほぼ「読める」ようになった。字面の裏側を「読む」習慣ができた。そんな授業を思い出しながら読むと、あらためて確認できることも多く、教え方の勉強にもなります。

 

短編としての「物知り博士」も、最後のどんでんがえしが小気味よい。登場人物それぞれの心の中を想像して、思わずニヤリとしてしまう。人間がいとおしくなるような物語。誰からも嫌われる厚かましい奴、楚々として上品で慎ましい人妻。表面を見ているだけでは、人の本質なんて最後までわからない。

 

この物語のもうひとつの主役は、真珠。1925年に書かれた小説ですが、その頃はちょうど、御木本幸吉が精力的に海外進出をしていますね。1913年にロンドン支店開設、1926年にはフィラデルフィア万博にも出品。世界中から「日本の養殖真珠はニセモノだ」とバッシングを受け、そうではないことを証明するためにミキモトが真珠裁判を起こしている、まさにその最中ではないですか。養殖真珠排斥運動は1927年まで続いているので、養殖真珠が「本物」なのか「ニセモノ」なのか、まだ世界中がその判断に揺れていた時代のさなかに書かれた小説ですね。The cultured pearls which the cunning Japanese were making という表現から、ささやかな悪意が感じられます。

科学者らの証言により、ミキモトは最終的には裁判に勝ちます。それはこの小説以降のこと。

ラムゼイ夫人の「本物の真珠」は、天然ものか養殖ものか、はたしてどっちだったのかな。

 

それにしても1931年生まれの恩師のますますのご健筆ぶり!! 85歳になっても、何歳になっても社会から求められる冴えた仕事ができるというお手本でもあります。

*The cunning Japanese をどう解釈するか?に「文脈を読む」力が問われるわけですが……。「ずる賢い日本人」という否定的なニュアンスにするか、「技術力にすぐれた日本人」というホメことばにするか。

行方先生によれば、次の通り。

“モームは85歳で日本に来てから偏見をなくし
日本が好きになったようですが、この作品執筆時は
「ずる賢い」と思っていたのでしょうね。”

ここまで作者の背景を知ることが「文脈を読む」ということでもあるんですよね。Google翻訳やAI(現時点)ではとてもできません。

SPUR 3月号発売中です。

別冊 「靴&バッグ 新作コンプリートブック」巻頭で、靴とバッグの役割について語っております。

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「”ひとりダイバーシティ”時代の今、必要なのは靴なのか、バッグなのか?」 笑えるタイトル。として聞こえていればありがたいですが。

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機会がありましたらご笑覧くださいませ。

デヴィッド・ボウイ展が盛り上がりを見せていますが、会場の寺田倉庫まで往復すれば一日がかかり。なかなか時間がとれないので、こちらの本でしばし、しのぐ。

David Bowie Is Inside” (ed.by Victoria Broackes and Geoffrey Marsh. Space Shower Books).

大型の、重い写真本ですが、ボウイの全容が整理、網羅されています。V&Aでの回顧展のオフィシャルガイドブックの復刻版のようです。文字による解説も多く(日本語訳版)、ファンにとっては永久保存版です。

david bowie is 1

david bowie is 2

V&A director マーティン・ロスの序文から。

「彼が私たちの文化生活に与えた最大の影響のひとつは、個人主義の擁護にあります。私たちは何でもなりたいものになれる、したい格好ができる、そして常に他人の目に依存する必要はなく、追従するのではなくリードすることができる」

自由自在に変化し続けるボウイを眺めていると、ささいなイメージにこだわることがいかにばからしいことかと思えてきます。

2013年のオリジナルバージョンは、こちら。


こやまゆかりさん原作、霜月かよ子さん作画の「ポワソン」3。遂に完結。

宮廷に行くか、別れるかの賭けに出て、別れを選択したルイ王を前に、いったんは潔く引き下がったジャンヌ。涙。

そしてジャンヌを失ってみて、はじめて「愛」を自覚したルイ王。二人の覚悟の行動により、ジャンヌが正式な寵姫となるまでが描かれる。

ジャンヌの夫だったディテオールのこと、ジャンヌの母の「前夜」の教育、宮廷内の凄絶ないじめ、王妃の心の中……なまなましい多様な感情をかきたてるように書き込まれているから、ぐっと入り込める。

宮廷生活の細部のマナーもさすがの調査力で迫真性がある。

なによりも、ルイ王が、(貴族の若い美女軍団のだれかではなく)、平民のジャンヌをどうしてもそばにおかなければならなかった理由に、とても説得力がありました。

うわべだけのこびへつらいにあふれ、誰も心の底から信頼できない虚飾の宮廷にあって、唯一、本音で話すことができ、内面の感情を引っ張り出してくれ、心から信頼し、安心し、自分をさらけ出すことができた女性。それがジャンヌであった、ということ。

逆にそのような、他にとりかえのきかない人がたった一人、そばにいれば、無尽蔵の勇気がわき、八方が敵であろうと、いくらでも闘っていけるということ。

ゆかりさんも「読者の感情を引っ張り出す」ことに長けていますね。

 

ああ、でもこれで完結とは寂しすぎる。この後、正式にポンパドゥール夫人となってからのジャンヌの活躍、周囲の変化が面白いのですよね! ぜひぜひ続編を希望します。

その1)(その2)(その3)から続く

今回の最後の取材場所、高円寺の尼僧バー。中野にある坊主バーの姉妹店です。

BGMにお経が流れ、ルームフレグランス?として線香がほのかに香る、こじんまりしたバーのカウンターに立つ「尼僧」は、あれっというほど、ごく普通の主婦でした。聞けばご結婚もしていて、お子さまもいらっしゃるとのこと。口の悪いいでさんは「保育園落ちた 日本〇ね」風の主婦、というような形容をしていましたが(^^;)

尼僧といえば瀬戸内ジャッキーのような風貌の方を想定していたので、やや肩透かしでした。

この尼僧の宗派は真言宗。真言宗は「どちらかといえばゆったりしている」ので、頭髪も丸める必要はないし、結婚してても子供もいても可なのだそうです。なんだ、パートタイムのように尼僧がつとまるのか? 目指そうかと真剣に考える。

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ありがたい名前のカクテルが数種類あり、飲むだけで解脱できたり涅槃に行けたりしそうな感じ。

尼僧バーはお客様というか「信者」の夜中の駆け込み寺のようになっており、客は尼僧ママに悩みや苦しみを聞いてもらいにくるのだそうです。

「いちばん多い煩悩ってなんですか?」と聞いてみたところ、すかさず、

「愛欲ですね」

という答えが返ってきました。「出会いがない」という悩みもよく聞く、とのこと。

ちなみに、いでさんの煩悩は愛欲ではなく物欲だそうです。画伯は自由欲、金森編集長は金銭欲……。

 

当初、尼僧バーで尼さんから煩悩を叱り飛ばしてもらうという趣旨だったので、「煩悩の金字塔」コスプレがウケるかと思い、タダシ・ショージの金きらドレスに着替えていきました。靴もイヤリングもゴールドです。観音像か。現場ではかなり違和感があったようで、「カウンターの女性がガン見してましたよ」といでさん。いや気付きませんでした(鈍感なシェンシェー)。

4人それぞれの煩悩を聴いていて思ったことは、本誌ルポに書かれているとおり。

自分の中にかけらもないものに関しては、そもそも欲しがることすら知らなかったりする。

ちなみに私はたぶん煩悩が希薄です。夢見たこと、強く望んだことが叶ったという経験が一度もなかった。そんな苦い経験を何度か繰り返しているうちに、そもそも「欲」など持たなくなっていきました(最初からこれもきっとムリ、とあきらめの制限をかけてしまう、というか)。欲を自制すると、執着もなくなり、日々、あるもので足りて、案外、ハッピーに暮らせるものです。

「それはアンタが恵まれた立場だから」ということを言われたことがありますが、それは逆なのです。身の丈に合わない欲や、どんなに願っても叶わない夢をあきらめて、目の前の現実のことを損得抜きに最善化することだけを考えて行動するようにしました。その結果、思いもかけないときに、予想もしなかった方から、想定外の幸運がもたらされることが時折あった。恵まれているから欲がない、のではない。欲をなくして人に尽くしたから、少なくとも仕事には恵まれた、と思っています。

(そもそも、別の視点から見れば、私などシングルマザーの苦労人だし、将来もおぼつかない不安定な身分だし、現実には恵まれてるどころか常に崖っぷち…)

 

たとえ今は多少、状況が良かったとしても、人間界のことだからほんと、一寸先は闇。ちょっと浮わつけばこれまで築いたものすべてが瓦解してしまう。幸運をもたらしてくれるのも人間なら、人を地獄に陥れるのも人間。そんな針の筵な世界にあるからこそ、我欲を捨てて、少なくとも捨てるフリして、他人のために尽くすことが、最終的に、自分を生かすことにつながるのではないか。

おっと悪ノリしてさらに説法くさくなったぞ。

現実に煩悩で苦しまないと、ジャッキーのような重みのある説教はできないのかもしれない。それは一理あるが、古今東西の煩悩の行方の法則を学んできた学徒(古き良き時代の「文学部」の底ぢから)にもひょっとしたら尼僧の末端に加えていただくことも、ありえないことではない……と思えたことで、少し将来に希望の光が見えてきた気がします。

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解散したのは結局、12時近く。早朝の登山から深夜のバーまで、ほんとうにおつかれさまでした。得難い体験をさせていただき、楽しかったです。ルポの誌面は一生の記念にしますね。ありがとうございました。

さらなるアニヴァーサリーをめざしてがんばってください!

裏ルポ 終

【ゲストの立場から見たら現場です。勝手に書いてる裏ルポ(その1)(その2)から続く】

ひととおり全員が作り終わり、ようやく全員がほっとして座ることができる時間が訪れました。食べながら品評会と100回を顧みるの巻。

連載を続けるなかで受けたクレームやら行ってきた謝罪やらの数々も、今では半分笑い話になっている。現代の日本社会はささいなクレームに異様に過敏で、主催者側がすぐに作品を撤回したりプロジェクトを中止したりということが多々ありますが、「ナウのれん」は、クレームを何度も受けながら、がんとして連載が続いている。ある方を激怒させ、厳重な抗議を受けたときには、一度、表向きは連載中止にしたという。でもすぐに別のタイトルに変えて連載を復活したとのこと。出版社や編集部の肝の据わり方もあっぱれだし、それにめげず、ギリギリのラインで面白さを追求することをやめない画伯&いでコンビのクリエーター魂もたいしたもの。

そんなこんなも乗り越えての100回だから、偉業ですよね。

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ちなみに、男子4人はビールで。「シャンパンとのマリアージュ」料理は、ひたすら「シャンパンと白ワインしか飲まない」(←今回のキャラ上)シェンシェーが気に入るかどうかを考えて作られたのだった。ネタ的な役柄とはいえ、いやもうほんと、感動しました。役得感謝。それぞれの個性がフルに発揮されたプレゼンテーションで、順位なんてつけられませんよね。

ネタ的な役柄だからこそ、本誌のルポには冠に「美人」とつけられるとか「わたくし」語りとか、嫌がらせに近いムリもありましたが、戯画化された虚構のキャラクターということで。読者にしてみれば、非日常的なキャラのほうが面白いですもんね。

ちなみに、「中野シェンシェー」キャラをこのように書いたことで、いでさんはけっこう内心ビクついていたらしい。「怒ってない?」と心配していました。本が出てしまってからですが(遅いし。笑)

 

 

それぞれの料理ぶりから連想した単語をくっつけたリング名です。レスラーか。

ブリコラージュ綿谷(Bricola Wata)
マイウエイいで(My Way Ide)
スキルド市川(Skilled Ichi)
ビスマルク金森(Otto von Kanamori)

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私からは、連載100年を祝って、スペシャルケーキをプレゼントしました。編集部からは、ナウのれんのチケットが巻かれたシャンパンが。
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いでさん、綿谷画伯、市川さん、金森編集長、あらためて、連載100回おめでとう!

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キッチンの片付けも怒涛の速さで済ませ、出る前に記念写真。

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ここのレンタルキッチンはおすすめです。火力は強いし、あらゆる調味料や器具や食器がそろっているので、材料を買いこんで自分たちでわいわい作りながら楽しめる。お料理ぶりからそれぞれの人がらの一端もうかがい知ることができるのは、なかなか楽しい。

また来たいな!(料理男子を連れて)

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そして一行は三軒茶屋から高円寺へ向かいます。

(裏ルポは続く)

(裏ルポ その1から続く)

編集担当、市川さん作のお料理です。まず一品めは、魚料理、カジキマグロのムニエル。バルサミコ酢を仕上げに少し加えたのが工夫のポイントだそうです。このお酢の酸味によってムニエルがひきしまるとともにシャンパンと連携しやすくなり、料理とお酒の相性がぐっとよくなるのですね。なるほど、たしかに! 論理的です。
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そして市川さん二品めは、牛肉のタリアータ。中までしっかり火が通っていて、素材の味を活かした王道のおいしさ。見た目もきれい。当然、シャンパンがますます進みます。これは他のメンバーにも大人気で、あっという間にお皿が空になりました。

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市川さんはメインとしてボリュームのある魚料理、肉料理に真正面から挑んだわけですね。論理的な工夫もさしこみながら直球で堂々と勝負してくるガッツに誠実な仕事魂がにじみ出ていました。

そして三番目に仕上げてきたのは、いでさん。白菜と豚肉をミルフィユ状にして、ほぼお醤油+αだけでシンプルに蒸しあげた「白菜Nabe」です。「水を一滴も入れてないから、栄養たっぷりで美味しいんだよ、これが」という自信とともに、鍋ごと「でん!」というイメージで出してくださいました。

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たしかに、芯からあたたまり、滋養を実感できます。おいしいことにはちがいありません。……しかし、シャンパンとの相性となると? まあ、合わないということもない。どっちかといえば焼酎に合うような…。

鍋の中身が半分くらいになったところで、お豆腐と、おうどんを入れて、「二度おいしい」お料理に。

お題「シャンパンとのマリアージュ」をあっさりスルーし、わが道をいく自信作で強引に勝負をかける、ルール無用のマイペースぶり。これがやっぱり、いでさんなんだなあ。

そしてトリとして登場した金森編集長のお料理。まず一品めは、さきほどの、丁寧に下ごしらえされたビスマルク風アスパラとチーズのオーブン焼き。アンチョビーが効いた絶品です。アスパラの歯ごたえが快く、シャンパンとのマリアージュという点でも合格。

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そして金森編集長2品目。豚肉に切り込みを入れたり、フレッシュオレンジを絞っていたりと、やはりバックステージでの仕込みがとても凝っていて、料理する姿が絵になるし、プロ級だなあと眺めていたのですが、

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仕上がってきたのが、豚肉のオレンジ&ハニー&マスタードソースがけ。シャンパンといえばフルーツと相性がよい。だから、オレンジを加えることでシャンパンとのマリアージュは成功するはず」と金森編集長。きわめて論理的なのです。

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しかも上質な粒マスタードのぴりっとした辛みも効いて、非常においしい。ポークはシャンパンと合わせにくいという偏見が一掃されました。「これまでシャンパンと一緒に食べたポークのなかではいちばんおいしい」と絶賛しましたら、すかさず、いでさんが一言。「でも、ごはんには合わねーよ!」 それを受けて綿谷画伯「だからあ、今回はシャンパンとのマリアージュだっつーの!」 さすが負けず嫌いのいでさんでした。

なんのかんのと互いに言い合いながらも、画伯はしっかりといでさんの鍋を「おかわり」。口では言いたい放題でも、行動で愛を示す。このあたりがコンビ長続きの秘訣なんだろうなあ……と見ているほうまでほのぼのした気持ちに。なんでもコンビ結成23年。ちょっとした夫婦以上です。

というわけで金森編集長に戻ります。高級素材をおしみなく使い、バックステージで下ごしらえを華麗におこない、論理的に組み立て、時間をたっぷりかけて自信作を出す。あとで知ったのですが、自分以外のメンバーには経費をできるだけ抑えるようにとの指示があったらしい。笑。編集長の特権をフルに行使した専横的パフォーマンスで勝ち抜けるのが金森流?!

(裏ルポはまだまだ続く)

Begin 名物連載「ナウのれん」。100回記念ということで、ネタとして登場すべく?!ゲストとしてお招きいただきました。本誌が発売になりましたので、この裏ルポも解禁です。実は記憶が生々しいうちにと、お招きいただいた翌日の11月6日にすでに書き上げておりました。4回シリーズでお届けします。今日から4夜、20:00時に自動的に公開されます。

さて。取材が行われたのは11月5日土曜日。特別拡大バージョンのための取材スケジュールは次の通り。金森編集長、担当編集者の市川さん、いであつしさん、綿谷画伯の4名は、早朝から高尾山に山登りしたあと温泉につかり、その後さらに電車に乗って三軒茶屋まで来て食材の買い物、それを抱えてレンタルキッチンでそれぞれが2品ずつ料理を作り、さらに最後は高円寺の尼僧バーで一日を締めくくる。相当、ハードなスケジュールですね。

私はレンタルキッチンからの参加です。4名それぞれが、「シャンパンとのマリアージュ」をテーマに料理を作ります。私はそれを味見してコメントする……という役回りです。

なぜにシャンパンとのマリアージュかといえば、シャンパンと餃子のマリアージュをルポした回をふまえているわけですが、「中野香織はビールを飲まない。シャンパンと白ワインしか飲まない」という都市伝説(?)がまことしやかに出回っているからでもあるらしい。いや、ビールも飲むし、学生との飲み会では居酒屋のなんでもありコースだし(こういうときは生ビールとハイボール)。世間のイメージというのはかくもいい加減に作られるもんです。

世間のイメージといえば、数年前に「ナウのれん」忘年会に参加したときにドロンジョ系のコスプレをしていったことがあり、それ以来完全にそっち系の人と誤解されがちでした。今回はそれを裏切るよい機会と思いましたので、メイド服で参加してみました。

メイドなのに働かないし従順じゃない。シャンパンを飲みながら男子4人の働きぶりを鑑賞しつつあーだこーだと上から目線で批評する黒メイドというわけですね。

さて、4人がキッチンのなかでさっそく料理にとりかかります。4人が協働して前菜からメイン2種、デザートまでのコースメニューをつくる……という発想はまるでなく、めいめいが勝手に、「シャンパンとのマリアージュ」にふさわしい料理を考え、どれが一番おいしいのか競うというのがこのセッションのテーマ。

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このキッチンの火力はきわめて強力です。「これならチャーハンを作ればよかった」と言いながらなぜかうどんをゆでているいでさんと、その隣でシンプルなおつまみを手早くしあげていく綿谷画伯。

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アスパラのしたごしらえを丁寧に進めていく金森編集長。根のほうも柔らかく仕上がるようにと表面をピーリングしていらっしゃいます。かなり本格的。begin-14
市川さんは大きな肉の塊を手慣れた様子で転がし、焼き目をつけていらっしゃいます。日頃から料理していると見える安定の手つき。次第に集中してくると口数も少なくなっていく4人。それぞれが「ゾーン」に入っているのか、緊張感も漂ってきます。このころになると、さまざまな料理が仕上がっていく過程で立ち上る香りがまざりあい、調理で生まれる熱もよい感じで空気を満たしていきます。

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待っている間も退屈しないように、おつまみを用意してくださる金森編集長のこまやかなお気遣い。高尾山や温泉の話を聞きながらシャンパンをグラスに2杯ほど飲んだところで、次々と料理が仕上がってきます。

いちばん早かったのが、綿谷画伯の「餃子の皮のピザ」。begin-3begin-16

ピザの台を餃子の皮で代用してあるのですね。下はチーズに海苔がかかっているバージョン。意外とシャンパンにあうし、美味しい。なによりも早い!begin-18綿谷画伯のもう一品は、マッシュルームと魚介のアヒージョ。手前のフライパンの料理です。こちらも手早く仕上げてくださり、あつあつを美味しくいただきました。ピザもアヒージョもイタリア料理系なので、シャンパンとの相性もばっちりですね。

手早く、手堅く、軽やかに器用仕事をして、外さず確実におもてなし。これが綿谷画伯流ですね。(念のため:器用仕事とはブリコラージュのことで、なければあるもので代用するという人間の智恵。ピザ台の代わりに餃子の皮を使うという工夫がよかった。「餃子ルポ」の回に対するオマージュにもなっているし)

そして次、アヒージョのフライパンの横に「どうぞ!」と料理を出してきたのは市川さんでした。その料理とは……

次回へ続く。明日の20:00をお楽しみに。
(Click to Amazon)

 

Begin 2017年2月号 本日発売です。begin-2017-2

綿谷画伯&いであつし文豪による連載「ナウのれん」が100回目を迎えました。

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100回記念の拡大版に、ゲストとしてお招きいただきました。「中野香織シェンシェー」キャラとして登場しております。

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全容はぜひぜひ本誌をご購入のうえ、ご笑覧くださいませ。なかなか笑えます。

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それにしても、彼らから見た「中野シェンシェー」キャラと、自分の実態が相当違う気がしております。キャラなのでおもしろくおかしくデフォルメされてはいることはわかってますが。

まあ今回はこのようなキャラクターということで。それに合った(合ってるのか?!)コスプレしてますしね。

自己イメージは世間のイメージとずれているものだということをあらためて自覚しました。そういえば私のデビューはルポライター。(メキシコの旅ルポを19歳で敢行。)こういうレアな体験は、自分の言葉で書きたくてうずうずするのです。本誌が発売になったので、裏ルポも解禁。今日の夜から4回シリーズで、ゲストの目から見た「裏ルポ」をお届けしますね!
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昨年の函館ラサール高校の国語の入試問題に、拙著『ダンディズムの系譜』から出題されたことを受けて、来年発売の高校受験用の問題集に一部抜粋が収録されることになりました。

つまり、高校受験をめざす中学生必読参考書になったわけですね(←強引すぎる解釈。笑)

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ダンディズム(史)を語るのに、葉巻を片手にした北方謙三さんのような重厚な語り口でなくてはならない、というステレオタイプに固執すること、そのことじたい、私が「滑稽だ」と感じていることです。いや、北方謙三さんは全く悪くないんですけどね。しかるに、そのようなロマンティックなイメージにとりつかれるあまり、それを壊されると不快を示す男のいかに多いことか。歴史をきちんと知れば、そのイメージの起源がどこにあるか、いかに歴史の中で歪んだものであるのか、わかるはずなんですけどね。

オリジナル・ブリティッシュ・ダンディは、重たくないんです。

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(Count D’Orsay.  Photo from Wikimedia Public Domain)

 

時が、しかるべき評価を下してくれる。発売後、7年経っても重版が出て、このような形で公に評価していただけるというのは、非常にありがたいこと、と心より感謝しています。

 Precious 2017年1月号 発売中です。

別冊「ゲラン 美学の結晶『オーキデアンペリアル』洗練の美肌伝説」がついています。今年の連載「輝き続ける女性たち10人の美の秘密」をまとめた小冊子です。

光栄にも第2回目に登場させていただきました。今回の冊子にも収録されています。

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(リスペクトしてやまないデザイナー、芦田多恵さんも10回めに登場!! ご一緒できるのはたいへん光栄です)

それぞれの方のお話をあらためてじっくり読んでみて、ひとりひとりの考え方に感銘を受けました。「人生は一期一会と申しますが、舞台も同じ。同じ舞台は二度とありません」(尾上紫)。「画面に映らない部分でどう生きるかが勝負」(安藤優子)。「奇跡と思われることも、実は積み重ねと選択の結果なんですよね。選んで選ばされて今があり、さらにその先に、自ずと未来が広がっていく」(村治佳織)。「散らしの美、崩しの美、墨でにじんだりかすれたり……書にはさまざまな美があって、美しさは『きれいに整っている』だけとは違うのです」(木下真理子)などなど。

美人のカテゴリーにも入らない私などがこんなところに登場するのは場違いな気もしますが、仕事を(途中の困難や試行錯誤も含めて)ひたすら楽しんできたことで選んでいただいたものと受け取っています。まだまだ修行の途中で、大成する気配はまったくありませんが、誰かに喜んでいただけるような成果を、ひとつひとつ、積み重ねていくことができれば幸いです。ちょっとこっぱずかしいところもありますが、お手に取る機会がありましたら、ご笑覧くださいませ。

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Men’s EX 2017年 1月号 発売です。mens-ex-1

スーツの着こなしとマナー大特集。監修という形でご協力させていただきました。

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とりわけスーツ初心者にお読みいただけると嬉しいです。

 Begin編集部徹底取材「ホワイトハウスコックス ファンブック」が世界文化社より出版されました。whc-2

ブライドルレザーで定評のあるホワイトハウスコックスの革小物をめぐる魅力にあらゆる角度から迫るという、Begin スペシャルムックです。このブランド初の完全ガイドブック。ファンにはたまらない永久保存版です。

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巻頭で、「ジェントルマンと馬とブライドルレザー」というエッセイを寄稿しています。機会がありましたら、ご笑覧くださいませ。

 

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Begin 名物連載「ナウのれん」が連載100回を迎えるとのこと。記念すべき特別拡大回のネタになるべく?!ゲストとしてお招きいただきました。

begin-36左から編集担当の市川さん、編集長の金森さん、いであつしさん、綿谷画伯。

とてもゼイタクで、ありがたき体験の数々をさせていただきました。光栄でした。ありがとうございます。

詳しくは12月発売の2017年2月号「Begin」で。どんなルポになるのでしょうか。いでさん&綿谷画伯による記事が公になったあと、私の視点から見た「裏ルポ」も公開しますね。いくつかの視点があることでいっそう面白くなるのではないかと思います。

begin-24あらためて、連載100回達成、おめでとうございます!

 

明治大学広報誌で、小笠原泰教授が『紳士の名品50』をご紹介くださいました。

硬派の小笠原先生によるご紹介はひときわ嬉しいです。ありがとうございました!

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ヴァルカナイズ・ロンドン発行「Vulcanize Magazine」Vol.12 リリースされました。

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特集「服飾史家・中野香織がヴァルカナイズ・ロンドンで選ぶ紳士の名品20」。img014

最新のイギリス発の20アイテムのコピーを書きました。全12ページ・20アイテムのご紹介のなかに「紳士論」を練り込みました。

ヴァルカナイズ・ロンドン店頭で入手できます。『紳士の名品50』も販売してくださっています。 9-14-2016-2
秋のロンドンを感じる散歩に、ぜひお出かけください。

 

「いつものような感じでイギリス紳士について書いてください」という原稿依頼が、光栄でありがたく思うと同時にいちばん難しい。言葉通り受け取ってほんとうに同じようなことを書けばマンネリになるし、かといってまったく違うことを書けば一貫していない印象を与えたりする。だから絶えず新しい情報をインプットし続けなくてはならない。それで大きく見方が変わったりするわけではないけれど、すでにあるものだけで練り直すよりもはるかによい。

書く方からいえば、まったく新しいテーマや人を取材して書くのがいちばん新鮮で書きやすかったりする。かといってそんなことばかりやっていると、仕事がとり散らかる。

どんな仕事にもマンネリとの闘いはありますね。さて。イギリス文化の知識アップデートのための本とDVD。

イギリス史の基礎の学び直しができる良書。林信吾『女王とプリンセスの英国王室史』。

なぜ皇太子を「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼ぶのか。ユダヤ人問題の起源はどこにあるのか。ロンドンの起源は。「国王は君臨すれども統治せず」はどこの誰が言いだしたのか。(こういう基礎的なことは、昔一度学んだくらいではすぐに忘れる。)

エリザベス1世、エリザベス2世(この二人に血縁関係はない)、ヴィクトリア女王、ダイアナ妃、ウォリス・シンプソン、キャサリン妃など、王室史をいろどるおなじみのクイーン、プリンセス、コンソートなどが、ときに手厳しい視点で、描かれる。彼女たちをめぐるおなじみの人物も新たな視点から見直すことができる。

人物評価には、評価している本人が投影される。人物について書くときには、こちらが浅いとそれなりの見方しかできない。信頼を手ひどく裏切られて落ち込んでいても、苦い経験が人や自分を見る目を深める勉強のきっかけになったと思えば少しは救われる(そう思うことができればなんとか生きていける)。なによりも王室の愛憎裏切り激動のドラマは、自分の境遇を少しはマシに見せてくれる。

 

 君塚直隆先生『女王陛下のブルーリボン』(中公文庫)。安定の君塚先生の本格的な歴史研究書。注や巻末の勲章受章者リストも充実。でありながらワクワクしながら読める教養書としても成立していて、すばらしい。イギリスの王室外交に不可欠なはずの勲章、正装のときに必ず装われるブルーリボン(ガーター勲章)について、まともな知識がなかったことを深く恥じ入る……。この一冊でまずはしかと学び直します。人物や史実の説明に関しては、これまでのご著書と重なる部分も多いけど、それは復習ということで。

 こちらも君塚直隆先生。『ジョージ5世』。エドワード8世とその弟ジョージ6世の、厳しい父王です。この子供たちに起きるドラマが壮絶なために、父王ジョージ5世は比較的地味な存在でしたが(私にとって、です、はい)、あらためてどんな人だったかを知ることで、エドワード8世&ウォリスの事件も違うふうに見えてくる。

それにしてもイギリス王室はどこまでも奥が深い。

 

 

 もう授業でも何十回と扱っているほどの不滅の名作「Chariots of Fire(炎のランナー)」。ジェントルマンとスポーツ、アマチュアリズムについて、登場人物それぞれの立場から語ることができる。この映画の製作にあたっていたのが、ドディ・アルファイドだったという事実を今さらながら知る。ハロッズのオーナーの息子で、ダイアナ妃とパリで事故死した方ですね。

週刊新潮9月15日号、吹浦忠正さんによる「オリンピック・トリビア」からの発見。

 

肖像画で読み解くイギリス王室シリーズをまとめ読み。
 君塚直隆先生の『肖像画で読み解くイギリス王室の物語』。これすばらしい。豊富な文献を押えて、これまでぼんやりと眺めていた、あるいは初めて目にする、王室のメンバーが描かれている肖像画を、謎解きのようにスリリングに読み解いていく。とくに「群像」で描かれている絵の解説がいい。さりげなく書かれたフレーズから、これまで盲点だったイギリス史に関する知識を学んでいける。新しい発見の宝庫で、わくわくしながら読んだ。安定の君塚先生の技量が堪能できる、充実の一冊。

 

 こちらは齊藤貴子先生の『肖像画で読み解くイギリス史』。君塚先生がとりあげていない王室のメンバーとその周辺の人物を、君塚先生よりも情緒的な筆致で描いていく。(同じようなタイトルなので、つい比べちゃいますね、ごめんなさい。)後半は王室メンバー以外の人々を描く肖像画から、近現代のイギリスに迫る。男女の関係を書くとき、齊藤先生の筆致はより光る。エリザベス1世の50代のときの愛人、20代のエセックス伯のこととか。
君塚先生、齊藤先生の読み解き、それぞれに丹念に調べぬいたうえ、読み方と文体にオリジナリティがあって、豊かな読後感が残ります。

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ニコラス・ヒリヤードが描く、エセックス伯ロバート・ドヴルー。50代のエリザベス1世を惑わせた「白タイツの王子様」。写真はWikimedia Public Domainより。

アイロニーやブリット的ユーモアが通じにくい時代になったなと思う。ここは笑ってもらうところと思って書いたつもりが、マジ切れされたりして。素直といえば聞こえはいいけど、文の背後や行間を読まず、字面のまんま受け取る人が増えましたね。真意を「説明」してもきょとんとされる。たぶんもう日本語が通じ合っていないのではないかと思うことがある。自己啓発本やSNSの影響か? 啓発本しか読まない人が言う「わかりやすい」「さくっと読める」(↞ハズカシ)というのが事務的でぺらぺらの散文で、書いたり読んだりするときの感覚的な喜びみたいなものが、まずない。まあ、なくても生きられるけど。

殺伐とした日には、アイロニーと毒舌とブラックユーモアが効きまくりの「イギリス的な」本がいい。イーグルトンのこれ、一度読んだけど、やはり痛快なので、再読。こういう感覚が共有できる世界があると思うと、少し安心する。年がら年中こういう世界だとまた疲れるけどね。この本に関して贅沢を言えば後半の翻訳がちょっと読みづらいのが難点。イーグルトンは英語も難しいから翻訳もたいへんだったでしょう。大学一年のときにふつうに教科書にされていて(「文学批評とイデオロギー」とか)、そのときにはまったく意味不明だった。この本も、たぶん、イギリス文化やレトリックを学んで、実人生でも苦い思いをなんどか味わってやっと、「読める」ように、というか「笑える」ようになる。

ブリット的ジョークをわかって「笑える」ようになったらなったで、逆にエリート主義として白い目で見られるか、そもそもスルーされるのが現代。

アイロニーが愛でられる土壌について、イーグルトンはこんな風に書く。「アイロニーの文化は、ある程度の余暇というものが欠かせない。平明な真実を差し迫って必要としないような特権的な地位にいることがアイロニーを愛でる文化を生む。事実とは、工場主にまかせておけばいいのだ」

「貴族は、見解の多様性を面白がることができる。なぜならそうした見解のどれも自分の生き方をゆるがすことはないからだ。これは貴族が、独自の見解をもっていないせいでもある。意見は平民のためのものだ。事象をめぐって熱くなるのは、よろしくない。見解をもつことは、好戦的な組合員のように、見苦しく一面的になることだ」

ここで「工場主」とか「組合員」を引き合いに出すあたりが、階級と共に生きているイギリス人らしい。日本人なら「差別」だの政治的な正しさだのの問題に配慮して絶対書かない。

 

アイロニーが廃れたことは、余裕がなくなったことばかりではなく、エリート主義への嫌悪とも結びついているわけですね。「わかりやすい」ドナルド・トランプへの共感が高まるような時代には、アイロニーやレトリックなど通用しなくなっていく。

 

私は余裕があるわけでもないし、貴族でもなければエリート主義者でもないけれど、平明を通り越してすかすかの散文を「さくっと読める」とほめることの恥ずかしさくらいは自覚しておきたい。

 

ソリマチさんのイラストが親しみやすさを感じさせますが、中身は決して親しみやすくはない。そこを乗り越えていけるか、試すようなところもある。

 

 

パリ在住の皮膚科専門医、岩本麻奈さん著『生涯男性現役 男のセンシュアル・エイジング入門』(ディスカヴァー携書)。同時発売された女性向けのピンクのカバー『生涯恋愛現役』の、男性向けセンシュアルエイジング入門書。

ドクターだけあって、男女間のかなり生々しい関係や、男性のデリケートな問題にまですぱすぱとメスを入れていきますが、筆致が理知的でエレガントなので、それこそ読後の印象は、センシュアルです。

センシュアルとは、官能性であり、岩本さんによればそれは「身体感覚と知性が統合された生命的な理念」。「都会的な環境で研ぎ澄まされたエレガントな野性」(↞この定義、好きです)。センシュアリティを年齢とともに育み、磨いていくことが、ビジネスや男女の関係を潤滑にするばかりか、社会全体を良いほうへ変えていくことにつながる、と具体的エピソードを交えながら指南してくれます。

なかでも、第一章の「ビジネスとセンシュアリティ」は、よくぞ言ってくださいましたという指摘が多い。一流の仕事人はみなセンシュアルというのは、何人かの著名な経営者の顔を思い浮かべても、納得。では、具体的にどのようなことをセンシュアルというのか? 本書に豊富な具体例が紹介されています。

セクハラ上司とセンシュアル上司の紙一重の違い、の話も興味深い。これ、時々聞かれるので、いつも答えに困っていました。「どこからがセクハラなのか? 同じことを言ってもあの人はOKでオレはセクハラと糾弾されるのはなぜか?」みたいな質問。岩本先生の答えはブレがない。「センシュアルな人になろう」です! 具体的にどうすれば? 本書に紹介されています。

スーツ、香水、時計をはじめとした小物選びについても「センシュアル」という観点から具体的な助言がなされる。髪、口腔、ボディライン、指と手、デリケートゾーン、男の更年期問題などに関しても、最新のケア情報を得られるともに、意識を向けるべきポイントもわかる。

コラムでマニアックに紹介される女性のボディパーツの話なども、「官能的な知性」を刺激する艶っぽい文体で書かれます。

ビジネス書に分類される本なのかもしれないですが、安っぽくない潤いがあり、とげとげしくない知性に貫かれ、いやらしくない官能があり、手厳しいけど人間愛のある日本社会への批判が盛り込まれます。

「婚活やおひとりさまに欠けているのは単なる愛だけではありません。それは、破滅を引き受けてやるぞとのセンシュアルな無頼で『いま・ここ』を生きる勇気にほかならない」。最後の「センシュアル0地点」はむしろ女性が読むべき項目かもしれません。

 

 

 同時に発売された、女性版。多くの「恋愛現役」の方のエピソードが興味深い。というか私には縁のない色っぽい話や自信と喜びにあふれたマチュアな女性の話が盛りだくさんで、恋愛先進国フランス的な感覚に基づいた指南の数々は、中学生レベル以下の草食系には敷居が高い。笑。ヨーロッパ映画をみるような感覚で(取材に基づいた実話なのですが)楽しみました。センシュアルとは生命力だな、と感じ入った次第。こんなセンシュアルな男女が増えると、社会はもっと潤いに満ちて、いろんなことがうまく回り、幸福度も高まることでしょう。センシュアルで世直し、賛成です。

下村一喜さん著『美女の正体』(集英社)。大勢の女優やモデルら「美女」を撮ってきたカメラマン(しかも美にうるさいゲイ)の視点から、「美女」と呼ばれる人は何が違うのかということを、具体的に、実名を挙げながら解説する。

美女の正体

いきなり美人のヒエラルキーの話がでてきてぎょっとするし、このなかのどこかに女は属するなどと言われると絶望するし(ちなみに私は「別物(異形)」が近いようです)、ほんとにズバズバと言うべきことをおっしゃってくださいます。

分量的にやや「すかすか」感が否めないのですが、でも、ファッション史やヘアメイク史の学徒にとって不可欠な固有名詞とその簡単な解説は有意義で、「オードリー・ヘップバーン、誰それ?」と言い放ったモデルみたいな輩を撲滅したい身には、エールを送りたい本でした。

・「結局勝ち残るのは、他人とは比較されない何かを見つけた人なんです」

・「ファッションはお金で買える人格」

・「今のあなたは、あなたがなりたかった自分です」

・「美女になりたかったら、練習すること」「ポイントは腰と指先」

・「表情をコレクション」

・「本人がその特徴を受け入れていないときには欠点となり、受け入れてしまえば個性として説得力が出ます」「顔立ちはきれいなのに自信がなくて、卑屈になったりオドオドしている人は、美女にはなれません。逆にそれほど整った顔立ちでなくても、存在感があって華やかな人は、美女と呼ばれます。華やかさはとは、パワー」

・「正しさより方便を使う女性は魅力的」

・「洗練とは知性、華やかさ、センス、オーラ、あたたかみ、信頼感。人の痛みがわかる、他人に恥をかかせない、大きな優しさを持っていること。自分の足ですっくと立って、一人で生きていく力のあること」

・「美しい人には知性と冒険心がある」「知性のある人ほど、キャパシティも広い。頭の良い人ほど、自分のイメージにこだわることなく、自分が想像もしなかったアイディアに、楽しみながら乗ってくれる」

好奇心、向上心、冒険心を忘れず、他人に対しても謙虚でオープンで、過去にしがみつかず、常に努力を続けていれば、いつのまにか「美女」になっており、その暁には美醜などにこだわらなくてもいい自由な世界が広がっている……という教えはほんと、「ファッション学」に通じますよね。

参考映画リストにある映画も、ぜひ観てみたい。

エリザベット・ド・フェドー著『マリー・アントワネットの調香師』(原書房)。王妃の香水を調香していた香水商ジャン・ルイ・ファージョンの視点から、当時の宮廷やマリー・アントワネットをとりまく革命の状況を描いていくという物語。香水商が扱うもののなかには、化粧品や健康補助、治療用の薬品も含まれていた。

丁寧に掘り起こされた史実の間に、当時の香水の事情や、著者の想像もはさみこまれながら、「トップノート」から「ミドルノート」、「ラストノート」へとドラマティックに物語が紡がれていく、香り高い本。2005年のゲラン賞を受賞している。

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とても充実した内容の本ですが、やや翻訳に残念なところがあり、主語と述語が呼応していなかったり、校閲が徹底していないようにうかがわれる箇所もあったので、以下、興味深かったことのメモですが、必ずしも本文のままではありません。適宜、要約してあります。

・香水発祥の地はモンペリエ。モンペリエ風オードトワレの処方は「9つの植物—イリス、camanneの根、ローズウッド、白檀、カラムス、スーシュ、シナモン、クローブの実、ラブダナム、そのほかあらゆる対比を与える香り」

・治療性のある薬剤を扱う薬剤師のうち、香水のエッセンスを蒸溜するアラブの技術を習得した者にはアロマタリという称号が与えられる。

・ハンガリーウォーター。14世紀に60歳の老妃ジャンヌが、放浪の修道士から手渡されたもの。ハンガリーウォーターはジャンヌ王妃に以前のような体力と美しさを取り戻させ、76歳でポーランド王にめとられた。ハンガリーウォーターはかくして万能薬として認知され、とくに若さと美しさを取り戻すと信じられていた。

・デュ・バリー夫人が訪れた時、ジャン・ルイはシトロン、ネロリ、イリスをコニャックに混ぜ合わせ、メースとニンジンを調合した香りを差し出す。「サンシュエルウォーター(快楽の水)」として。

・1775年にジョン・フランソワ・ウビガンが「コーベイユ・ド・フルール」という名の店舗を開く。花だけを使い、肌をリフレッシュさせて保湿するウビガンウォーターも発売。

・「王妃風」とは、スミレ、ヒヤシンス、赤いカーネーション、ジョンキル、ムスクの組み合わせ。

・入浴剤「ル・バン・ド・モデスティ」(慎みの入浴)。スウィートアーモンド、エレキャンペーン、松の実、リネンシード、たちあおいの根、ユリの球根からできている。

・王妃に仕える侍女は、ヴィネグレットの小瓶を持ち歩き、王妃の気分が高揚してしまった時に使用。

・マリー・アントワネットの要望にあわせ、ファージョンは、ワインエキスを使って、バラ、スミレ、ジャスミン、ジョンキル、チュベローズなどの花を蒸溜したエキス水を創る。そこへムスク、アンバー、オポナックスを加える。ファージョンはこれを「エスプリ・アルデン(熱烈エキス)」と呼んだが、王妃は「エスプリ・ベルサン(染み入るエキス)」と呼ぶ。

・アントワネットが別荘用に所望したプチ・トリアノン香水の核となるのは、イリス。イリスはギリシア神話でゼウスの使者から名づけられ「奇跡の粉」とも呼ばれる。毅然とした香りが、王妃に似つかわしい。ファージョンはすでにこれを王妃の手袋用香水に使い、国王用の髪粉にも応用していた。また、ファージョンはイリスを使ってスミレの香りを再現することにも成功。スミレの香りは、かつてのフェルセン伯爵との「消え去りし恋」も象徴した。

・フェルセンが勇気をふりしぼって用意した国王一家逃亡計画。目立ってはいけないにもかかわらず、王妃はあらゆるものを新調、馬車に詰め込んだ。王妃がファージョンに発注した香水周辺グッズは次のようなリスト。トリアノン香水、ファージョン風パウダー、ポマード入りケース、ラベンダーウォーター、セレストウォーター(天空の化粧水)、スヴランウォーター(至高の化粧水)、オレンジウォーター、ラベンダーエキス。鎮静効果で有名なトニック、ヴィネグレット、「慎みの入浴」と名付けた入浴剤入りサシェ。ベルガモットエッセンス、ヘリオトロープポマード・・・。髪結いまで予約をしたので、結局、国王一家の逃亡はバレバレに。

・王妃幽閉中も、ファージョンは、苦悩から解放されるためのラベンダーウォーター、オレンジフラワーポマードのほかに、トリアノン香水を届ける。

・1786年にファージョンが購入したスルス城にほど近いシュレーヌの家屋は、それまではスケルトン伯爵の持ち物だったが、一世紀半後、この地に香水商フランソワ・コティが住まい、1904年にはシテ・ド・パルファムをここに設立。

巻末には香水の成分の解説や、製法の解説、手袋の製法、詳しい参考文献リストがつく。香水のことを学びたい方には役に立つ参考書ともなる一冊。革命前のアンシャンレジームの宮廷生活も、匂いを通してありありと想像できる。

 

25ans 9月号 発売です。

特集「エリザベス女王、90年の麗しき日々」において、巻頭言「エリザベス女王が敬愛される理由」を語っております。

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この特集は、イギリスファン、クイニー(Queeny)ファンにとっては、必携の永久保存版です。8ページにわたり、美しい写真を中心に、エリザベス女王の90年の軌跡がまとめられています。ぜひ、ご覧くださいませ。

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本日付の読売新聞(全国版)夕刊2面に、『紳士の名品50』が大きく掲載されました。

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今回の撮影にご協力くださったのは、ヴァルカナイズロンドン南青山店です。

ありがとうございました。

 

 

行方昭夫先生著『英文翻訳術』(DHC)。

モームの「大佐の奥方」(The Colonel’s Lady)を翻訳する過程を、試訳から翻訳にいたるまで、一文一文丁寧に解説していく。英文読解の勉強になるのはもちろんのこと、日本語の奥深さを学ぶことにもつながり、さらに、モーム特有のアイロニーや苦いユーモアを解釈するための「文学」の勉強にもなる。日本人が誤訳しがちな英文や、翻訳しづらい英語特有の言い回しをピックアップした「暗記用例文集」もついている。

翻訳された作品だけ読みたいという性急な方には、その「完成版」を通読できるというおまけもあり、さらにそれをどのように読むかという丁寧な解説もつく。

あらゆる方向から学べる、盛りだくさんな一冊。

ちなみに「大佐の奥方」は、20世紀初頭の「ジェントルマン」の一典型でもある人物像も描かれており、苦味の効いた感慨がじわっとあとをひく快作です。

女の魅力には欠ける地味な中年女とばかり思いこんでいた自分の妻が、はじめて書いた詩集がベストセラーとなり、社交界の話題となる。その内容はと言えば、妻とおぼしき女性と若い青年のエロティックで哀しく美しい愛の物語であった……。文学に縁遠く、プライドの高い「ジェントルマン」である大佐のとった行動とその心情の描かれ方が鋭くていじわる。最後の一行までパンチが効いてにやりと笑える。

何度も書いてきてますが、大学時代に行方先生に徹底的に英文の読み方と辞書のひき方を鍛えられたおかげで、今がある。字面ではなく、文脈をとらえろという考え方は、英文解釈を超えてあらゆる文脈の「読み方」の基本になっている。感謝してもしきれないほど。

 

暗記用例文から。こういう英語の言い回しはやはり、覚えてしまうのがいちばんですね。

She is all that a wife should be.(彼女は妻として完璧だ)

What he is is not what he appears to be.  (彼の実体は外見と違う)

Not a few people read from habit. (癖になっているので読書する人も結構いる)

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本日発売の「Begin」9月号。begin
いであつしさん×綿谷寛・画伯による連載「ナウのれん」にて、先日、明治大学でおこないましたデーヴィッド・マークス氏によるアメトラ特別講義 & その後のインタビューの模様がリポートされております。

nownolenデーヴィッドの似顔絵は実物よりも本人にそっくり!

「オヤジが若いヤツに昔話をすると嫌われるけど、若いヤツがオヤジに昔話をすると喜ばれる」(笑)。たしかに。

いでさん本文に出てくるMade in U.S.A.catalog と、Take Ivy。

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講義後のインタビュー、というか、いでさんがデーヴィッドに「これ知ってるか?あれ知ってるか?」と挑み続けるの図はこちらです。いでさんの隣は編集の市川さん。

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「中野香織先生」もイラストに登場しますが、ちょっとヤな女っぽく描かれております(^-^;

機会がありましたら、ぜひ全文&全イラストをご覧くださいませ。

 

 

 

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伊勢丹新宿本店の売り場の各所で、『紳士の名品50』がこのようにディスプレイに参加させていただいています! ありがとうございます。

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装丁を赤にしてよかった、とあらためて思いました…。装丁の亀井さん、編集の河内さんとともに、都内の何件かの書店をまわり、メンズファッションコーナーを見た上で、赤がいい、と希望しました。というのも、赤い装丁の本が一冊もなかったからです(前例のないことを選んでみる、というのはすっかり習性になっています)。立体感のある紙を使うことで、また、大型本ではないことで、下品にならず目立ちながら、紳士用品を引き立てる赤の表紙に仕上がったことを、心よりありがたく思っています。

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こうした目に見える形の、あるいは見えない形でも、多方面からご支援をいただき、多くの方々のご厚情に支えられている幸せを実感する日々です。ほんとうにありがとうございます。

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朗報は 忘れた頃に やってくる。

2009年に新潮選書として出版した『ダンディズムの系譜 男が憧れた男たち』が、7年目にして増刷されるという連絡を受けました。

版元さんのお言葉を借りれば「稀有なロングセラー」とのことです。

まったく見当違いの方向からとんでくる中傷に耐え、罵倒もやりすごし、いちいちくだらないことで傷つかないための体力と精神力とレトリック力を養い、淡々と日々の自己ベストを尽くしてきたご褒美と受け取ることにします。なんかね、正直、ひどいことを言って足を引っ張ろうとした連中に、心の中で、「勝った」と思いましたよ。笑

真面目な話、弱くて逃げようとしていた自分に「勝った」。ま、とるにたらないささやかな闘いですけどね。

理不尽なことがあろうと、地道にひとつひとつ成果を示し続けていれば、不意にふっと明かりがみえてくる(こともあります)。

If you are going through hell, keep going.

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「Gentry」での連載当初は、「エンサイクロペディア・オブ・ダンディズム」として構想され、ビジュアル豊富に掲載されていました。企画してお話をもってきてくださったのは、当時編集長だった林信朗さん。感謝!

単行本を担当して下ったあぜつまさこさん、7年目にして重版を決めてくださった新潮社に心より感謝します。

応援してくださった読者のみなさまには、いくら感謝してもしきれません! ありがとうございました。

 

 

「紳士の名品50」(小学館)本日発売です。shinshi 3表紙のイラストについて。
表には、コートを手にしている紳士がひとりで立っています。
裏表紙には、こんなイラストが。本を読み終えると、女性にスマートにコートを着せてあげられるような紳士になっているというストーリーですね。綿谷画伯考案のお茶目なコンセプトです。

という話を、昨日、明治大学(リバティアカデミー)にご来校くださったホイチョイプロダクションの馬場康夫さんに伝えましたところ、「ぼくだったら着せるんじゃなくて脱がせてるなあ(笑)」ですと(^-^;

単なるモノガイドではない名品ガイド。50の名品を語りながら、そもそも明確な定義のない<ジェントルマン / 紳士>的な思考や態度やふるまいを考えてみました。お手に取ってご覧いただければ幸いです。

 

「紳士の名品50」(小学館)ちら見せです。

各章の扉には、綿谷画伯によるこのような描きおろしのイラストレーションが入っています。

完成した紳士像よりもむしろ、それをやや背伸びしてめざすプレ紳士をイメージしています。モデルは昨年、明治大学の講座にも来ていただいた俳優Tさんとどこか似ています……。この表情、女性にとっては抵抗不可能なかわゆさですね。笑

(プレ紳士ということばはこのイラストを眺めているうちに思いついた、中野による造語です)

5月19日発売です。

Congratulations to my friends, who have published memorable books recently.  One book is “The World Barber Tour”, by the Razor Club.  The other “Poisson” by Ms. Yukari Koyama.

☆祝! 「The World Barber Tour 」発刊。12.11.2015.6

カミソリ倶楽部さんによる壮大なプロジェクトの完成です。2008年から現在まで、世界38か国、157の理髪店を実際に訪れ、データや写真や虚実織り交ぜたエピソードでその土地のさまざまなことがらを紹介する本。それぞれの土地の文化が、理髪店から浮かび上がるというとてもユニークで価値のある本です。

 

カミソリ倶楽部さんとのご縁は、ペンハリガンのイベントから。プロジェクトの完成、おめでとうございます! ヒゲ倶楽部の丸山尊人さん、ご恵贈ありがとうございました。
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ぺンハリガン「バイオレア」の発表会にて。左がヒゲ倶楽部会長の丸山さん。

☆そしてもう一冊が、こやまゆかりさん原作による「ポワソン」第二巻。ポワソンとはフランス語で「魚」の意味。ポンパドゥール夫人の旧姓が「ポワソン」で、平民出身の彼女は、ヴェルサイユ宮殿でさんざん「魚」ネタでからかわれたのです。poison 2
ポンパドゥール夫人を描く漫画も映画もすでにいくつかありますが、ゆかりさん版は、より心理的な闘いにぐぐっと迫っているのです。好色であっても愛を知らないルイ15世を虜にした彼女の魅力とは
なんだったのか?!

封を開いたら面白すぎてそのまま一気に読み切ってしまいました。サインまで入れてくださって感激。

koyama sign
ゆかりさん、おめでとう&ありがとう!第三巻が待ちきれません。

koyama matumoto
10月のリーガロイヤル大阪の講演に来てくださった、こやまゆかりさん(左)。中央は、やはり人気漫画家の松本美緒さん。古今東西の「壮絶な生き方をした女たち」で時間を忘れて盛り上がりっぱなしだったひと時です。

 

An inspiring book by Prof. Ayumu Yasutomi. “Who I really am”.

I, as a fashion historian, share the idea written in this book:  Beauty is a gold mine of your own, which could be found only by digging yourself.

This is exactly what I am talking in the lecture of Fashion Studies.  Fashion is not about decorating you, nor shaping you into the trendy stereotype .  It is about  liberating you. Giving you confidence to become who you really are. That is why I believe Fashion Studies can be one of the last fort for the Humanities.

☆☆☆

女性装で活躍している男性(ゲイではない)、東大教授の安冨歩さんの『ありのままの私』(ぴあ)。

美しさの追求には勇気が必要だったが、それが安冨先生の精神にはてしない安らぎを与えていったという、体験から生まれた話に非常に説得力がある。

「『自分は、美しさなどとは無縁だ』と思いこんでいた男装時代、そのことが、私を深く傷つけてきたことに気づきました。それは、女性装するかどうかは、関係ありません。男性として生まれたら『美』とは関係ないよ、ということそれ自体が、男に対するひどい暴力なのです」

「美しさは、作るものではありません。掘り出すものです。自分自身という金鉱を探し出して掘り当てる。そうすると人は美しくなるのではないでしょうか」

「自分自身がある、そのあり方のままに生きることが、人間に与えられた唯一の使命だと信じています。そのような生き方は、さまざまの外部の力とぶつかりますが、それを恐れずに勇気をもって生きるべきであり、その試練から学び、成長することが、人間にとって最高の倫理だと思っています」

日本はもともとトランスジェンダーには寛容で、両性を具有し、越境できる異能の人は、神と人との仲介者扱いされていたという指摘も興味深い。日本語の「性同一性障害」って、あきらかに間違ってることばですよね。Gender Identity Disorderを訳したものだそうですが、「障害」じゃないの。トランスジェンダーなの。レアTを見よ。アンドレイ・ベシックを見よ。唯一無二の、かっこいい存在なの。

 

この本を読みたいと思ったきっかけは、次のインタビュー記事でした。
東大教授、安冨歩さんのインタビュー記事より。

「他人から道でジロジロ見られることは、今でも多いですよ。もしも理論的に何も考えられなかったら、怖かったかもしれません。でも、親しい友人知人はもちろん、初対面であっても、まともな人なら、女性の装いをしているからといって、私をジロジロ見るような失礼はしないんです。

たとえば、黒人を差別的な眼差しでジロジロ見る白人がいたら、問題は黒人じゃなくてその白人の中にあるんですよ。自分とは違う奇妙な人間を露骨に見たりする人は、その人自身が問題を抱えているということを露呈しているにすぎないんです。

つまり、白い目はそれを向ける人自身の中に問題がある。そのことを思想的に理解していたので、視線の暴力に怯えるようなことはありませんでした。むしろ、そのような視線を実際に体験できたことは、私の思想に大きな影響を与えてくれました」

「それよりも考えなければならないことは、フランツ・ファノンという思想家が指摘したことですが、差別される人々が、自ら帯びかねない暴力性です。なぜならこのような白い目にさらされて、それを自分が原因だからだ、と思っていると、深く傷つきます。そして残念なことに人間の本性として、自分のせいで傷ついたと思い込んでいる人は、その傷から発生する暴力を、我が身に帯びてしまうのです。その暴力は無意識のうちに発動し、自分に向かえば自傷してしまい、他人に向かえば、他の人を差別したり、暴力を振るったりしてしまいかねないのです」

だから各人が自分を解放し、ありのままを生きること、他人がそれを寛容に受け入れることは、暴力のない社会を作ることにもつながるんですよね。ひいては万人の幸福としてかえってくる。「自分を掘り出すことで形づくる=ファッション」は、そのあり方を、導くことができる。

女性装といってもさまざまで、たとえば20年前からこのような格好で活動しているお福さん。サロン・ド・シマジではじめてお会いしたのがきっかけでしたが、先日、変身前の長谷川高士さんとしてお食事をご一緒して、お話をうかがい、多くの気づきを得られました。人生のどん底にあったときにお福が「降臨」し、美しいお福になりきることで、長谷川さんの人生が好転していったという。もうダメだということきに、違う自分になることで元気になり、救われる。トランスジェンダーを意識的におこなってみることは、無意識のうちに人を縛る偏見から自分を自由に解放する第一歩でもあるのかもしれません。ofuku

 

山田篤美著『真珠の世界史』(中公新書)。

仕事上の必要から読み始めたのですが、充実の力作。という表現が失礼にあたるほど、古今東西の膨大な資料をもとにまとめあげられた、まさしく「真珠の世界史」。具体的なエピソードが豊富で、真珠を通してみると、世界史の見方が変わる。

とりわけ興味深かったのが、御木本幸吉が成功させた養殖の真円真珠がヨーロッパで引き起こした騒動のこと。以下は自分のための備忘録メモとしての概要です。

★★★
1921年ごろ、ヨーロッパに送られた御木本の養殖真珠は「ニセモノ」扱いをされていた。

「スター」紙スクープ(「ロンドン真珠大詐欺事件」)のあと、ロンドン商工会議所の宝石業セクションが公式声明を出す。「日本の『養殖(cultured)』真珠を真珠として故意に販売した人物は、虚偽記載の罪で起訴されることになる」。「日本の養殖真珠は、真珠質に覆われた貝殻製のビーズに過ぎない」。

ロンドンのジャーナリズムは、日本の真珠養殖そのものについても関心を示すようになる。御木本真珠店ロンドン支店に記者が押しかけ、御木本は反転攻勢のチャンスと見て日本の養殖真珠についてのパンフレットを配り解説する。

「イラストレーティッド・ロンドン・ニュース」は海女(sea girls)の写真を紹介。当時のヨーロッパ人の理解では、真珠採りの潜水夫とは、借金にまみれて酷使される奴隷状態の人。ところが日本の真珠養殖では、健康な若い美女が海に潜っている!

真珠商たちにとっては、天然ものと区別ができないうえ、無尽蔵に作ることができる日本の真円の養殖真珠は、自分たちの商売をおびやかす悪夢そのもの。とりわけフランスで、激しい排斥運動が起きる。パリ商工会議所は、養殖真珠の発明を放棄するなら報酬を出すとまで。アメリカでは、日本の真珠をつけると皮膚病になるというデマまで出回る。しかし、御木本のパリ代理店は屈せず、フランスの行政官庁に輸入禁止の不当を訴え、裁判で訴訟合戦を繰り返す。(1927年まで排斥運動は続く)

科学者は擁護。オクスフォード大学のリスター・ジェイムソン教授、ボルドー大学のルイ・ブータン教授など、日本の養殖真珠はホンモノというお墨付きを与える。

国際的な真珠騒動が起きても一歩も引かず認めさせた御木本幸吉の強烈な個性の賜物!

(1929年のウォールストリートクラッシュのあと)1930年にパールクラッシュが起きる。天然真珠の価格は85%下落。欧米の天然真珠市場は壊滅。以後、欧米の名だたる宝石店は養殖真珠に嫌悪感を示す。ティファニーは養殖真珠を拒否し、天然真珠ももたず。ティファニーやカルティエが日本の養殖真珠を扱うのは、1955年以降。

オーストリア、バハレーンでも困難。バハレーンでは日本の養殖真珠の席巻により、唯一の産業だった真珠業が衰退していく。バハレーンは新たな産業の必要性を感じ、石油開発に乗り出す。バハレーンに石油収入が入りだすのは1934年。

そんな状況のなか、真珠そのものの救世主になったのが、ほかならぬココ・シャネルであった!

そしてこれ以降の、真珠から見たファッション史がまたスリリングなのです。リトルブラックドレスにあしらわれる真珠の意味、コスチュームジュエリーの余波。戦後ディオールのニュールックにあしらわれる真珠、グレース・ケリー、マリリン・モンローの真珠。真珠が似合わないミニスカート流行による真珠不況。マキシが復活させた真珠。などなど、これまではっきりと意識してこなかった真珠に焦点を当ててみると、ファッション史がまた別の見え方で立ち現われてくる。

山田篤美さん、リスペクト。

立川談慶著『いつも同じお題なのに、なぜ落語家の話は面白いのか』(大和書房)。

面白くて引き込まれました。二度読み。以下、自分のための備忘録メモですが、この本の面白さは、落語と同様、内容(情報)そのものよりもむしろ、語り方にあるので、落語を聴きに行くように本を読んでいただいたほうが味わいがいがあります。笑って感心して共感して最後はほろりと泣ける。話し方を学ぶということは、人の心の動きの仕組みを学ぶということ、ひいては修業の姿勢を学ぶということ。

以下、とくに意識的に心がけたいと思ったこと(の一部)。

・「独演会名人は花見酒経済をもたらす」。身内だけで盛り上がり満足しているようでは先細りするだけ。自分の客、とはいえないアウェイな場所で地獄を満喫することが大きな成長につながる。「どんな場所でも落語をやれ。ここではできませんと言った時点で負けだ」(談志師匠)

・「修業とは、不合理・矛盾に耐えること」(談志師匠)

・「負荷と節制を精神に与える無茶ぶり、つまり『人工的前座修行期間』の余禄として『筋肥大』ならぬ『精神肥大』につながります。その結果、心が大きくなり、必ず『受けとめ力』がアップするのです。(中略)ざっとあげると、『聞く力』『読解力』『包容力』『連想力』『妄想力』『忍耐力』『構成力』『守備力』などです。面白い喋り手=発信者になるための土台作りともいうべき『受け止め力』アップを目指しましょう」

・「師匠にとっての聞く行為とは、凡人のようにただ漫然と聞き流すという消極的な姿勢ではなく、『そこから発信者の本質や裏側の闇、劣っている部分などプラスマイナス一切合切すべてを吸収してやる』という、気魄に満ちた積極的な姿勢でした。発信のみではなく、受信でも攻めの姿勢だったのです」

・(自慢話が嫌われる理由)「相手側が介在する『スキ』がないのです。この『スキ』がないからこそ、息苦しさも感じてしまうのです」

・「『ひたむきさがテクニックを凌駕している』という現象が、聞いている人間を惹きつける」

・「自慢話・愚痴・悪口をそのまま排出する前に、『これ、面白い見方はできないかなあ』と一旦、受け止めて考えてみる」

・(自慢話・愚痴・悪口=精神的老廃物)「口説きたい相手に迫って、必死にアプローチするのではなく、向こうから自慢話・愚痴・悪口をこちらに言わせるように仕向ける」

・「戦いは五分の勝ちをもって上となし、七分を中とし、十を下とす」(武田信玄)。「人間関係的にも、環境的にも、一人勝ちの末路は悲惨。一人勝ちした結果、残された遺恨は、人間関係においても、環境においても大きなロス」

・「読解力や想像力をフルに働かせているのは、演じる落語家よりも、むしろお客さんであるという、お金を払う側により頭脳労働をさせている奇妙な現象こそが、落語の魅力」

・「自信は、まず心がけなのです。『私という自信にあふれた素晴らしい人間は、二度と戻らないあなたの大事な時間を割いてまで過ごす、値打ちのある人間だ』そんな思い上がりにも似た気構えがあれば、自然それは目にも表れます。これは傲慢ではありません。むしろ相手への思いやりなのです」

・「カットアウトのようなオチと共にクライマックス。上手い落語家は、床上手よろしくぬかりなく、決して相手を置き去りにしません。平然とオチを語り、観客の余韻を、さも当然のことをしたまでだという落ち着き払った笑顔でお辞儀し、立ち上がり去ってゆきます」

・「個性は結果論」「芸という言葉は『草かんむり』だと気づきました。芸は植物と同じように、手間暇かけて慈しみながら育てなければいけないものなのです」

・「『キャラ』というのは、発信者側と受信者側とのあいだで、相互通話的に認知し合うことで成立する『約束事』」

・「一世一代の江戸の風を、一瞬でも吹かせてみろ」(談志師匠)

江戸の風がなんであるかは、本文のなかに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鈴木光司さんとお嬢様の美里さんの共著『野人力 オヤジが娘に伝える「生きる原理」』(小学館新書)。yajin爆笑に次ぐ爆笑、鈴木家の型破りの子育て。でもきわめてロジカルで、筋が通っている。日常のなかの笑い話が、最後には哲学的な話になっていく。面白くて夢中になってあっという間に読めます。

鈴木光司さんにしかできない子育てなので、表層だけまねようとしてもムリです!彼氏との婚前旅行を勧めるどころか宿までとってしまうとか、子供の飲み会に合流して〇〇〇相撲の行事をするとか。笑 しかし、その破天荒な行動の根底に流れる野太い考え方は、人間の行動原理にのっとった合理的なもので、とても共感できるし、明快なことばでそれを教えられることで、勇気づけられます。なんだか楽天的な力がわいてきます。

おふたりのサイン入り! ありがとうございます。yajin sign

しかも美里さんが添えてくれたカードには私の似顔絵まで入っています。yajin illustバラ散らしてるし。マリー・アントワネットですか。笑。こんな楽しい鈴木ファミリー大好き。美里さんは秋にご結婚を控えていらっしゃいます。あのお父さんのお嬢さまと結婚しようというお婿さんはどんな方なのか(メンタルが相当な猛者のはず)、いまからとても楽しみです。

御手洗瑞子さん著『気仙沼ニッティング物語』出版記念イベント。気仙沼や東京に先駆けて、富山にて。8.24.5

僭越ながら、ナヴィゲーターをつとめさせていただきました。熱心な聴衆の方にお集まりいただき、ライブ感あふれる濃厚な時間を共にしました。

御手洗さんの話のあと、参加者からの質問に答えるという形で、ブランディングのこと、社員の士気の高め方、ファンのつくり方など、法人のみならず、個人においても参考になる刺激的な議論が繰り広げられました。

とりわけ考えさせられたお話の一部は、来月の「まんまる」にて書きます。

終了後は気仙沼と富山の美味・美酒で参加者のみなさまとプチパーティー。

すばらしい会の実現のためにご尽力くださいましたハミングバードの武内孝憲さん(左)はじめスタッフのみなさま、ありがとうございました。

8.24.4
それにしても、瑞子さんとお話するたびに、新しい刺激を得られます。経営者、コンサルタントとしてのタフな能力はすでにブータンや気仙沼で実証済みですが、ストーリーテラーとしてもすぐれているんですね。人の心のひだの奥まで思いを馳せ、あたたかく満たす。そういう人に私もなりたいと思わせられます。

タイトルにしたことばは、瑞子さんが語った社員のモチベーションの高め方。同じ目標を見据え、同じ目線で船を漕ぐように心がけることが大切、と。

 

 

ビジネス本はめったに買わないのですが、ルイ・ヴィトン元CEOという文字にひかれて買ってみたら、ドラマを見ているようなハラハラワクワク感で一気読み。マーク・ウェバーの『出世の極意』(飛鳥新社)。タイトルも扇情的ですね。いっそ映画化を希望します。笑

ブルックリン(下層階級)出身、大学もたいしたことなく、コネもなく、でも才覚と献身と圧倒的な努力でフィリップ・ヴァン・ヒューゼン(アメリカのシャツ会社)でCEOまで上り詰めたものの、取締役会と対立して突然の解任。そのどん底から数か月後、LVMHグループの米国法人CEO、その傘下のダナ・キャランCEOに抜擢される。という「ヒーローズ・ジャーニー」をそのまんまいくキャリア。

実名で登場するドナルド・トランプ、ダナ・キャラン、アラン・フラッサー、ベルナール・アルノーなどファッション業界有名人のエピソードも面白いし、成功体験からどん底体験まであらゆる体験を通して得られた「教訓」の紹介も説得力がある。

それにしてもフィリップ・ヴァン・ヒューゼンの取締役会となんで対立したんだろうか。強引すぎたのか。そのあたりを違う立場の方の目線から読んでみたい。30年以上会社に貢献してCEOになっても、あっさりとクビになるということじたいも衝撃だった。ビジネスは戦争だ、というのが誇張ではなく実感できる。

以下は、思わず「みつを」カレンダーのように作りたいと思った「マーク・ウェバー」語録(若干の編集ありです)。

・目指すのは「ゴールの一歩先」がちょうどいい

・操り人形になるか?操る側になるか? 状況をコントロールする側に立ちたければ、興味をかき立てられない分野にも積極的に手を出すこと

・「運」は努力するほど増えていく

・つねに感情をコントロールすること。認められなかったときこそ、その失望をバネに、それまで以上に仕事に邁進すること

・ダントツで勝てる分野で勝負をかけること

・将来やりたい仕事にふさわしい服装をせよ。大勢の人に対して説得力のあるメッセージを伝えるプレゼン技術を磨くこと

・「真の顧客」を知ること

・はじめから「そこそこ」しか求めない人間は、その「そこそこ」さえも手に入らない。「そこそこ」の成功ではなく、圧倒的な成功を目指すこと。そこそこの価値ではなく最高の価値を求めること。圧倒的成功を収めている人は圧倒的な努力を重ねている

・「サンクコスト」(それまでに費やした時間や労力)をあきらめる勇気をもて

・熾烈な競争に直面したときは、大勢が進む方向とは逆をいけ

・他人のために尽くす度合いと、その人が手に入れる成功の大きさは比例する

・どん底の屈辱的状況に放り込まれたら、君自身を徹底的に肯定すること。気持ちを落ち着けて、それまでの自分の実績を心から祝福すること

・人の成功を計るものさしは、頂点に立ったときになにをするかではない。どん底を経験した後でどれだけ這い上がれるかだ

・いかなる時も、自分を安売りしてはならない

・最高のクリエイティブとは「ノー」を「イエス」に変えること

・ファッションは「欲望」のビジネス。ファッション業界は、場面に応じて身につけるものを使い分けるよう、消費者を教育している。大儲けの仕組みだ。欲望をつくりだすこと、これこそがファッションビジネスの真髄である。君は「ほんとうは誰からも必要とされていないもの」を売っている。

・力を貸してくれたすべての人たちに礼を尽くすことを忘れないように。ビジネスの現場では無礼をたしなめてくれる親切な人間はいない。だから無礼な人間は、自分がどれほどの信用とチャンスを失っているか、一生気づくことはない

・いざというときに実力を評価されるよう、常日頃からベストを尽くすこと。自然淘汰が作用する。与えられた仕事をやり遂げなければ、その人はそこで淘汰される

 

すべて私も思い当たることばかり。とくに下から二番目の話には、ちょっと胸のつかえが下りる気がした。私はけっこうお人よしで、仕事上のつながりで、人と人とをお引き合わせすることが多いのです(そんなに多くの知り合いがいるわけではなく、頼まれた時にふと思い浮かぶ顔があれば、という程度ですが)。もちろん、何の見返りも求めないし、話がまとまればそれはよかったと相手のために喜んではいる。でも、あとから、一言のあいさつ(その後、どうなったのかの報告)もないということがあるとさすがにその人の人間性を疑うものなんですよね。それどころか、「すべて自分の能力が高いから請われて行ってやった」というふうに吹聴されると(そんなことが実際にあったのです)紹介した私の立場もなくなってしまう。こういう傲慢で無礼な人は、いくら能力が高くても、早晩、自滅するのではないでしょうか。翻って、自分も知らず知らずのうちに失礼なことはしていないかと顧みる。ほんと、ビジネスの場では、他人は無礼を指摘してくれないのです。ただ、「次はない」で終了。これもまた、自然淘汰ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉川弘文館より発刊された、研谷紀夫編『皇族元勲と明治人のアルバム』。写真師、丸木利陽が写した明治~大正期の皇族およびやんごとなき方々の肖像写真が豊富におさめられています。

丸木写真館は、漱石の「坊ちゃん」(明治39年)に登場するほどの有名写真館。

当時の大礼服、フロックコート事情が鮮明にわかるほか、女性のドレスも西洋の流行にほとんど遅れをとっていなかった(オンタイムで倣っていた)ことがわかります。5.1.2

これはガーター勲章をつけた大正天皇!!

親王は、男子であっても幼少時は女の子のドレスを着せられていたこともわかる。

セピア色ながら鮮明な写真は、19世紀末~20世紀初頭の日本の服事情に関心が高い方にとっては、貴重な資料となるはずです。全力でお勧めします。淡々と紹介されている写真ですが、実は細部に関して語りどころ満載なので、内心興奮続き、あ~話したくてしょうがない(笑)。でもあんまりここで何もかも披露してしまうと本の売れ行きにも差し障るので(^-^;、ぜひ、同好の士とこの本について語りあいたい!

(写真をクリックするとamazonにとびます)


江刺昭子さん著『「ミセス」の時代』(現代書館)。1964年から70年まで文化出版局にいて「装苑」や「ミセス」の編集者として仕事をしてきた江刺さんが見た、「高級で、上品な、朝の雑誌」こと「ミセス」の舞台裏の熱気。

具体例が生むリアリティあふれる戦後のファッション史、雑誌史としても貴重なノンフィクションです。たまたま同じ時期に少し関わることになったJun Ashida50年の軌跡と照らし合わせると、いっそう感慨深いものがあります。


恩師である行方昭夫先生の新著、『身につく英語のためのA to Z』(岩波ジュニア新書)。

ジュニア新書とはいえ、大人が読んでも面白い。読み書き聴き話す、すべての領域にわたって英語力を向上させるためのヒントや盲点などが、アルファベットのAからZまで、一ワード、ワンテーマをタイトルに掲げた26のエッセイ集として書かれています。どの項目からでも読めます。

もちろん、表層的なハウツー指南とはまったく別物。読むのに基礎的な教養が要ります。でもそれゆえに、修得すればいっそうレベルの高い英語の使い手になれるでしょう。

たとえば、比較級の使い方の例として、ウィリアム王子がパパになったときの一言が紹介されます。

I couldn’t be happier.

否定形を使って「最高の幸せ」を表現する、これはいかにもイギリス的で、なかなかすぐには出てこない。ゆえにマスターすれば最強だなと感じました。

We couldn’ agree more.(大賛成)とか。メモメモ。

英語のなぞなぞも知っておくと便利かも。いちばん長い英単語は? 

の正解はsmiles. 第一文字と最後の文字の間が1mileあるからですって! 

っていう頓智もいいし、実際にfloccinaucinihiliplification (富への軽蔑)という単語があると知ったことも衝撃でした。 ほかにも知的な刺激が満載。

それぞれに頭の切れる、表現力ずばぬけた著者によるおもろい本ですが、2冊を読み比べると、というか読み合わせると、また別のコワ面白さが…。


この本の内容がブログ記事だったころから笑い死にしそうになっていた水野敬也の「スパルタ婚活塾」。恋愛指南本の定説をことごとく覆し、本音で語れるコミュニケーションマスターとなれ、とビシバシ鞭をうつ。「理論」のネーミングセンスがばつぐんにくだらなくて(←ホメ言葉です)、でも根底にものすごく愛があふれている。婚活だけではなく、あらゆる人間関係にいえることが書いてあると思う。リスペクト。

「ファーブルが昆虫を見るような目で男を視よ」というファーブル・ナンパ理論とかもう爆笑。

「SATC臭」も、要警戒ね。くわばらくわばら(死語)。


その敬也がターゲットとして説いている層が、ほぼこちらですかね。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』のジェーン・スーおよびその愉快な友人。前著もそうでしたが、ときにぐさっときて、でも知的な分析をユーモアたっぷりにまぶしてあるので、からりと笑いとばすことができます。

なるほど~と思った項目はけっこうあるが、そのなかの一つ、「隙がないこと岩のごとし」。隙とはなにか。曖昧な空気を漂わせたままにしておくこと。台本をきめきめにしないこと。「私はよく『しっかりした人』と言われますが、それはあいまいな空気を漂わせたままにしておくことが苦手な、自信のなさの裏返しでもあります。(中略)隙のある状態に耐えられる能力は、あいまいな空気を他者との間に漂わせたままにできる強さです。一見主体性のない女の子の方が、強気な女よりずっと強いと思うことがあるのは、己を漂わせる強さを彼女たちが持っているからです。(たくさん略) グッと曖昧な空気に耐える。そうすると、相手が舵をとって船が進んでいく。隙は作るものではなく、堪えることや任せることや信じることで生まれるもの」

「男女間に友情は成立するか否か問題が着地しました」もケッサク。男女間の友情が成立する派の女の分析というのに、私はみごとにあてはまってる(笑)。 

かように高度に自虐をやってのける知的なおもしろ「女子」と、自虐をするな、自アゲをして価値を高めよと説く敬也の教え。両者読み合わせると、味わい深い…。

政近準子さんの新著、『人生は服、次第。』

パーソナルスタイリストの政近準子氏が幅広くアツい信頼を得ているのは、「センス」とか「フィーリング」「バランスのいいコーディネイト」みたいな表層のレベルではなく、まずは
「あなたはいったい、どういう人生を送りたいの?」という覚悟を真っ向から問い直す、厳しくも剛速球直球の問いをつきつけてくるからでしょう。

彼女はおそろしいほど鋭く、でも愛をもって、人を見ています。ずばっと本当のことを(衷心から)指摘するその現場に、何度か私は鳥肌ものの経験として立ち会っています。酒席ですが(^-^;
その観察眼が随所に光っているのが、本書。だから、こわいよ~。(笑)
「ボレロ+ワンピース」という考えられてないファッションで万人受けを狙った結果ほんとうのターゲットにとどかない、ってそれ私のことですがきゃーごめんなさい!
っていうのはほんの一例ですが、そんなこわい指摘がズバズバあって、冷汗かくやら背筋が伸びるやら。

服を、チャンスに満ちた人生の味方につけるために、
まずはマインドから変えましょう。という
ラディカルに、生き方のレベルから問われる本。

「政近さんの本を読むまで、ファッションって頭の悪いものだと思ってました」という女性のコメントが帯に載ってますが、実はこれ、私の学生のレポートにも、似たような文句がよく書いてあるのです。「先生の講義を受けるまで、ファッションってちゃらい服のことだと思ってました」と。笑。
私は実践的な指南はやらないので、カテゴリーはまったく違いますが、世間に通底する偏見と闘ってきたというところでも共感を覚えるところ。

ファッションと自分は何の関係もない…と思い込んできた人にこそ読んで「覚醒」してほしい。

不意打ちで、本文中に「知的で艶やかなエッセイストNさん」が登場しますが、
その描写からはどうも痴的で大雑把な私とは別人ですね(^-^;

とくに痛快だった指摘は、ハイブランドの力に関する話。「日本では多くの方が、自分の格を上げるためにブランドものを身につけると考えているようですが、それは間違い。力のある人がブランドものを身につけると、ブランドのほうが、その本来の良さを引き出され、まるで服に命が与えられたようになるのです。ブランドが人の価値を上げるのではなく、人がブランドの価値を上げる」。まさしくそう。「いばれるブランド」という発想(言葉)が飛び交うことじたい、滑稽。ロゴマークのふりかざしは、その人の底を浅く見せる。

「自分を表現している人に、チャンスは訪れる」というのは、周囲を見渡してみても本当。人と違ったことをしてみたときに、顔をしかめる人も必ずいるけれど、プラスの評価をしてくれる人もいる、その人こそがチャンスを運んでくれる「出会うべき人」。だから無難に波風立たないようにしていることは、逆に大勢に埋もれるリスクを侵していることになる…という指摘は、リクルートスーツで「人と同じ」におさまっている学生さんたちにも教えたい。

「同じことをしてもバッシングされがちな人と、『あの人はああいう人ね』で済んでしまう人がいます。その違いはどこから来るのか。その差は<自分をよく知っているか否か>にあります。(中略)中身と見た目が一致しているかどうかということに、人はとても敏感なのです」。これ読んだときに思い出した言葉があって、それは先日の大学の同窓会で会った、今はNHKのアナウンス室長になってるMアナの話。「バッシングされないための最強の方法は、無理に<作らない>ことなんだよ」。自分を客観的に知ること、すみずみまで自覚をもっていることで、この境地に至れるんでしょうね。道は険し。

などなど、多くの刺激をいただきました。
準子さん、あらためておめでとう!


資料として購入した本。オーストラリア版ヴォーグの編集長だった人が書いた、「ヴォーグ」のインサイドストーリー。Kirstie Clements, The Vogue Factor. 固有名詞もばんばん登場しているので楽しみ。日本の編集長も回顧録だしてくれないかな。


こちらも。松栄堂監修「日本の香り」。日本の香水文化に関して、ほとんど知識がなかったことをあらためて自覚して愕然とした。

伏籠(ふせご)。体身香。香枕。聞香炉。六国五味。源氏香。競馬香。矢数香。名所香。
日本の香り文化のほうが、西洋のそれよりもはるかに繊細で奥深く、知的だった…。


文学批評系インテリのアイドル?、テリー・イーグルトンの英米比較、「アメリカ的、イギリス的」。表紙のイラストはソリマチアキラ王子。さすがの洒脱なセンス、グッドジョブね!

日本語訳がよくもわるくも東大英文科的で(^-^; 英文が透けて見える分、かえって原書のニュアンスがわかろうというもの。妙な意訳をしすぎてますます意味不明になるよりも、こっちのほうがまだいい(!?)

「合衆国には、明らかにヨーロッパの基準とは異なる女性の美の理想がある。高い頬骨、細面、大きな口が好まれる。(中略) アメリカの女性たちは、部外者の眼からみると、表情が豊かすぎる。顔の筋肉が感情とぴったり連動しているようにみえる。アメリの女性はまた、しばしば話しながらうなずく、また相手が話し終わっても一秒か二秒うなずきつづける、世界で他に例をみないヒト科の動物である」

英文だったら笑えるんだけど、日本語だと理屈っぽく聞こえ過ぎる…の一例。翻訳って難しいですよねえ。英文が高度になればなるほど、日本語にそのニュアンスを「わかりやすく」伝えるのが困難になる。

なんて偉そうにごめんなさい。イギリスの知識人の毒やひねったユーモアを理解して笑うのが大好きな人には楽しめるハイコンテクストな一冊です。

王子イラストを中身にも適用して、比較対照表にしてシンプルに構成しなおしたらベストセラーになるかな?などと考えながら読んでましたm(__)m


ポンパドゥール夫人研究に関連して購入した本。’The Libertine: The Art of Love in Eighteen Century France’  18世紀の絵画をふんだんに使いながら、18世紀的「愛の作法」を解説するコーヒーテーブルブック。巨大で重たくてカラフルでグロッシー。本の中身もルックスも趣味どまんなか。こんな贅沢な本に関われたら幸せだろうなあ。

A woman of wit one day told me, in one sentence, what may be the secret of her sex, which is that every woman, in taking a lover, pays more attention to how he is regarded by other women than to how she regards him herself.

(女は愛人をもつとき、自分がその男をどう思うかということよりもむしろ、その男がほかの女からどう見られているか、ということを重視する)

本文に紹介されていたNicola Chamfortの警句。普遍の真理とは決して思わないが、このような女性がどの時代にも一定割合存在するのはたしか。

Dawnton_abbey
うわさのドラマ、DVDが届きました。移動やネイルの合間のお楽しみ。として買いましたが友人のなかにはすでに中毒者も。

イギリス特集の雑誌2冊。

Courrier

courrier 巻頭のコリン・ジョイスのインタビュー記事が面白かった。現代イギリスにおける階級。まだ頑として存在するのね。コリンはオクスフォードを出て、ジャーナリストとして働いているけれども、出身が労働者階級なので、現在も「間違っても上流階級ではない」と。

・階級を含めた人間のバックグラウンドが、話しかたや仕草、ヘアスタイル、服装、趣味などからわかります。

・中には、訛りで推定した出身地(ロムフォード)から、私を「酒飲み」と呼ぶ者もいれば、「白い靴下はどうした?」と聞いてくる者もいました。ロムフォードのあったエセックス州の人は白い靴下を好んではく、つまり趣味が悪いとされていたからです。

・上流階級の金持ちの学生たちには、驚かされることが多くありました。彼らは、気取った服を着ているのかとおもいきや、かなりカジュアルな格好をしていました。破れたジーンズやくたびれたブーツを身につけていたのです。しかし後にわかったのですが、それらは計算されたラフなスタイルでした。ジーンズは古着ふうに仕立てた高級品で、ブーツも150ポンドもする革製品でした。穴の空いたジャンパーは、よく見るとカシミア製でした。

・「イートンで得られる良質な人脈が、子供の人生を最後までしっかり支えてくれる」。

その次のパーヴィス家のインタビューも興味深かった。写真の中のパーヴィス家の家長、正真正銘の上流階級のジェントルマンであるが、スーツ姿がゆるゆる。ずるっとさがったブルーの靴下と足を組んで上がったトラウザーズの隙間から脛が見えている。ネクタイの赤とシャツのパープルと靴下の色もあってない。だけどそれでOK.。ホンモノの紳士の余裕ですね。えてしてホンモノはゆるくてもホンモノだから何をしても許される。それにあこがれる部外者が、形の上でのマナー(脛を見せてはいけないとか色を統一とか)だけを厳格になぞればなぞるほど哀れに見えるというジレンマ(^-^;

学生の頃の、スノッブなカジュアルダウン。年をとってからの、ダサダサ演出。本場の紳士の、かくも高度な排他意識というか特権意識にはかなわないよねえ。


鹿島茂先生はやはり外さない。これも面白い。ラ・フォンテーヌの寓話にフランス的な処世術を学ぶ、の本。

「つきあうなら、同じ身分の人にしておくほがいい」「敬意は、衣装に対して払われるものである」「遠くから見ればたいした人物だが、近くから見るとろくでもない」

ヒトのよさが禍を呼ぶこともあるということを実感するこの頃。ヒトがいいとかナイーヴであるとかはフランス人から見れば軽蔑すべき欠点でしかないだろう。社会に対しては慎重すぎるほど慎重にふるまうに越したことはない。繰り返し読んで頭&ハートを鍛えたくなる一冊。


 処世術ついでに。女性アイドルへ向けてのラブ(・・・なんでしょうね(^_^;))に基づいた毒気たっぷりのコラム集。黒木メイサの本名が島袋さつきとは知らなかった。島袋さつきではできなかったであろうことが黒木メイサという名ならできる。なんだか納得。

滝クリのお・も・て・な・しに関しては「この動きは人が犬に言うことを聞かせようとする時のハンドサインのようです。滝川クリステルによって世界が調教された瞬間でした」。

ここまで書かれてしまうアイドルもたまらないと思うが、書かれるのも人気があるからこそ。アイドルとしての人格が、名前と同様、別だと思えば。


原稿用の資料として読み始めたら面白すぎて一気に。

シャネルとの共通点も多々。実の親に「見捨てられ」(ジョブズは育ての親には大事に育てられているが)、矛盾だらけで、唯我独尊で周りの人に畏れられ、でもアーティストの純粋さと鋭いビジネス感覚をもって、誰も真似のできない仕事をして革命を成し遂げた人。

面白い表現に出会う。ジョブズがまとい続けた「現実歪曲フィールド」。詳しくは原稿で。

一緒に働いていた人はたまったものではなかったろうな…というほどの独断専行ぶりが面白いが、それでもそのカリスマに人は魅せられた。

「ジョブズが極端な言動に走るのは、他人の感情を思いはかる能力がないからだろうか。そんなことはない。むしろ逆だと言える。 (中略) だから、おだてたりすかしたり、説き伏せたり喜ばせたり、あるいはまた、脅したりすることも名人級に上手なのだ」

「『他人の弱点をピンポイントで把握できるのがあの人のすごいところです。どうすればかなわないと思わせられるのか、どうすれば相手がすくむのかがわかってしまうのです。これはカリスマ性があり、他人の操縦方法を心得ている人に共通する資質だと思います。かなわない相手だと思うと弱気になり、彼に認めてほしいと願うようになります。そうなったとき、褒めて祭り上げれば、あとはもう意のままというわけです』と、ジョアンナ・ホフマンも言う」


おおたうにさんのイラストとミニエッセイによる美女図鑑。伝説の美女たちにどっぷり感情移入しているゆえの面白さ。うっとり、クスクス、心を動かされつつ読み終わればなぜかじわっと広がる哀しさ、ナミダが落ちる。すばらしくて、あっぱれで、やがて哀しい美女の人生。

マリア・カラスへのコメントがとりわけぐっときますね。「考え方がブス発信。きっとどんな女性を見ても、常に自分より優れた部分を無意識に探してしまったり、するんだろうな。『自分を大切にしなさい』『自分を愛せない人は愛されない』今では女性誌がこぞってこんなことを言うけれど、ほんとうに必要な女の耳に、こんな言葉、届くもんか」

マリリン・モンローへのコメントも泣ける。「若い頃から、人に見られる場所を目指しつづけた女の子は、やがてスペアのいない唯一の存在になったけど、本来の自分をどこかに置き忘れてきてしまった」

ソフィア・ローレンの言葉も。「ジョージ・キューカー監督に言われたわ。『自信のない美人は、自信をもった醜女より美しくないもの。自信をもてば美しく見えるんだ』。自分の醜さを信じる女は、他人にも醜さのみを感じさせてしまいます」。

どう見ても美人のカテゴリーには入りづらいあの結婚詐欺師の女性(最近刑務所ブログを始めたようですが)が、ある種の男性たちにとって「絶世の美女」と見えてしまうのは、やはり彼女の自信のなせるわざなのでしょうね。

まえがきに書かれる美女の定義も、いいですね。「私の思う美しい女性たちには、水晶の柱みたいな透き通る強い芯が、すっと通っている。容れ物の美しさは年月を経るごとに変化してゆくが、目というふたつの穴から覗く本質の輝きにその背骨を見るとき、心から、そのひとの持つ、特別な美に感動する」

3月1日、17時にうお座で新月です。2014年最初の2ヶ月も怒涛のように過ぎ去った。1月1日の新月が遠い昔のような。春に向けてリスタートするのにいい日かもしれません。

面白かった! 真剣勝負な「性から政へ」のお話。硬派なナンパ話です。要約なんてできない豊かさにあふれていて、一筋縄ではいかないのですが、新しく教えられたことなどを以下にメモしておきます。ほとんど自分のための備忘録であったりするので(紙に書いたメモはなくなりますが、ウェブ上にアップしておけばいつでも検索可能に)、前後の文脈がなくて恐縮です。そんな自分勝手な記録ですが、読者の方にも少しでもシェアできるアイディアがあれば幸いです。

★ヴァーチュー(virtue) = 内から湧き上がる力。内発性。<自発性>は損得勘定が中核だが、<内発性>は損得を超えた不条理なもの。

どんな社会も、損得勘定の<自発性>とは別に、損得勘定を超えたヴァーチューがないと、社会的貢献動機を十分に調達できない。そして、損得勘定を超えたヴァーチューを示す人は、周囲を次々にミメーシス(感染)させていく。

ミメーシスは変性意識状態を前提にしたもの。

内から沸き上がる力だけが、相手に変性意識状態をもたらし、「ここ=実数」に「ここではないどこか=虚数」を重ね焼きにした複素数空間を生きさせる。 

★女性は花。花だから、自分から誘いに行ったら、みっともない。ただし、花のような感じで「ふわーっ」とひきつけている。

★<受苦的疎外> 世界は本当なら別のものでありえたのに、目の前にあるこのものでしかない、というふうに現れる。

★「性に乗り出せないことの困難」から「性に乗り出したことによる困難」へのシフトは、「現実の実りから疎外されている」という感覚から「現実の実りのなさへと疎外されている」という感覚へのシフトにつながる。

これをデュルケームの自殺類型にあてはめると「貧困ゆえの自殺から、豊かさの実りなさゆえの自殺へ」。「現実は取るに足りない」との感覚。

★「男子における<恨み>がナンパクラスタ的ミソジニーにおける女の<物格化>として現れる事態」と「女子における<恨み>が風俗や売春における男の<物格化>として現れる事態」が機能的に等価。

★黒ギャル⇒白ギャル。援交から離脱したリーダー層の「男たちの性的視線を拒絶する」ガングロ化にシンクロして、「性的に過剰であることはイタイ」という意識が日本全国に広がる。これは社交的なリーダー層がストリートから退却して24時間出入り自由な地元の友達の部屋にたむろする「お部屋族化」ともシンクロ。

リアルに過剰にこだわるのはイタイ、という男子。性的に過剰であることはイタイ、という女子。90年代後半には過剰さという痛さの忌避が一般化。

★肉食系合コン。単に<踏み出し>に積極的なだけで<深入り>の意欲とノウハウを持たないので、マンネリ化と取っ替え引っ替えを繰り返す。

騎士道における7つのヴァーチュー。美徳、と訳していてはダメでしたね。ミメーシスという概念も、大学の文学の授業で延々と時間をかけてやったわりにはよくわかってなかった。この本でようやくすんなり腑に落ちた。


前にも一度アップしたかもしれないけれど、何度も読み返している、私にとっての心のクスリみたいな本なので再掲。

言葉尻だけを捉えてのあげつらい、悪意を前提とした偏った解釈や罵倒、嫉妬を避けるための巧妙な自虐、あるいはその反対の、明朗すぎて気持ち悪い自己アピール、味方のフリして打算だらけの噂話、ガチガチの正論攻撃など、なにか気持ちが荒むような言葉を浴びて心がやられそうなときがあったりすると、この二人の、適度にいいかげんな、リベラルな言葉でバランスをとりたくなってくる。以下は第一章からの引用、ほとんど自分に言い聞かせて、癒されるためのものです(笑)。

鷲田「近代社会って生まれて死ぬまで同じ自分でないといけないという強迫観念があって、直線的に自分の人生を語ろうとするじゃないですか。昔の偉い人は何回も名前が変わった。失敗しても名前を変えるくらいの気持ちでいたらええよ、と。人生を語るときは直線でなく、あみだくじで語れ、といいたいね。あのとき内田さんと会ったからこんな人生に曲げられてしまった、でいいんです(笑)。出会った人を数えたほうがいいんですよ」

内田「若い人たちが書いたものを読むと、整合的なことが書いてはあるんだけど、言葉がとげとげしいんですよね。(中略) 格差論の中には『無能で強欲なジジイたちを退場させろ』なんて言葉を使う人もいる。言葉の肌理が紙やすりみたいにざらざらしているんです。そんな言葉遣いしてたら、どんなに正しいことを書いても誰もついていけない。とげとげしい人たちが集まって、果たしてそこに共同体が作れるのか」

鷲田「人が成熟するというのは、編み目がびっしりと詰まって繊維が複雑に絡み合ったじゅうたんのように、情報やコンテンツが詰まっていく、ということです。それなのに今の世の中、ジャーナリズムも単次元的な語り口でしょう。すぐに善悪を分けたがる」

鷲田「僕は多様性という言葉を使う人にいつも質問するんです。『わかった。文化は多様でなくてはならない、人はそれぞれ違う。では、どうして私は多様であってはいけないの』と。なぜ個人が多様性を持つと、多重人格というレッテルが貼られるのでしょう」

内田「ほんとですね。それが今回のテーマである『成熟』の一つの答えでもあると思うんです。子供と大人の違いは個人の中に多様性があるかどうかということですから。(中略) 年をとる効用ってそれだと思うんです。生きてきた年数分だけの自分がひとりの人間の中に多重人格のように存在する。そのまとまりのなさが大人の『手柄』じゃないかな。善良なところも邪悪な部分も、緩やかなかたちで統合されている。そういうでたらめの味が若い人にはなかなかわからないみたい」

読者の知性を信じるからこそ生まれている、このゆるゆるで寛容なやさしさにほっとする。年をとる効用が、人格が増えること・・・って(笑)。「15歳の自分」を打ち消す必要もなく、「40歳の自分」なんかの合間に時々出てきてもいいじゃないか、といういいかげんな懐深さに、救われます。


投資銀行、コンサル、大手資産運用会社、プライベート・エクイティ、MBAという私にはほぼ縁がない世界で活躍してきた筆者が見た、グローバルエリートの世界。資産運用のトップエリートの公私にわたる特徴が、具体例とともにおもしろおかしく書かれている。

トップエリートの共通点。

1.ニコニコバトル。

2.お金に細かい。

3.大成功するにつれて質素な服装を好む。(ファッション誌が示すようなデキる男のライフスタイルは、成り上がり途上スタイルで、仕事の性格によっては逆効果であることも。大成功すれば、その人自身がブランドになるのでむしろ質素になる)

4.信頼と評判を第一に。「誠実で信頼できる」「公明正大」という評判こそキャリアを守ることを理解している。

5.目の前の仕事に全力投球。そこからおもしろい仕事を獲得していく。

6.長い期間をかけて築き上げたネットワーク内で最強のチームをつくる。

7.おやじころがしがうまい。業界の重鎮を味方につける。(楽天の三木谷さんと元ライブドアの堀江さんの別れ目はここだったという指摘。「おやじをうまくころがした楽天と、若者をころがしているうちに自分もころんでしまったライブドア」という比喩がわかりやすい)

下世話な話題で面白かったのが恋愛・結婚・離婚事情に関する話。携わっている仕事のやり方がそのまま恋愛・結婚にも反映されるさまは、生々しくておもしろすぎる。ぜひとも映画化希望(笑)。

身近な例においても、エリートというか、仕事ができる高収入な人ほど、仕事のやり方と恋愛・結婚のあり方がみごとにリンクするなあ・・・とぼんやりと傍目から観察していたが、やはり投資業界においてもそうだったのですね(^_^;)

以下はスペシャル付録の「今日からマネできる!12のスキル」のなかからピックアップ。「知っている」ことばかりだが、実際に「実行できている」かどうかは、「?」。実行するためのヒントもあって、なるほど、と。

1.与太話の鬼になる。与太話をマメにデータベース化しておく。小さな心配りが大きな報酬につながる。

2.ノンバーバル・コミュニケーションを極める。腕の位置、手のひらの方向、ジェスチャー、動作が言語よりもモノをいう。

5.プレゼン資料は「ブルーオーシャン戦略」で1ページや3ページのシンプルなキラー・チャートのみに。

6.プレゼン前に「本音でどうしても伝えたいことがある」ことを明確に意識しておく。誠実さと情熱こそが成功の鍵。

7.手書きの年賀状を送りまくる。

8.交際費をけちらない。交際費は「自己宣伝費」。

9.レストラン選びは命がけで。

10.仕事とは関係のない幅広い分野の知識を身につける。人間的な深みを伝えて「この人と一緒にいると楽しい」という感覚を無意識レベルで相手にたたきこむ。リベラルアーツがマネジメントの本当の基礎になる。

11.社交パーティーは「エレベーターピッチ」を用意し、事前準備をして臨む。ネットワークでは、自分が相手を知っていることではなく、相手が自分を知っていることが重要。

12.社内政治のプロになる。

油断ならないニコニコバトルの世界。どの業界でも通じる話なのではないか。備えよ常に!ですね。


はい、こういう見方があるということをしっかり頭の片隅に入れたうえで、言葉を扱わねばなりませんね。私なども小心なものだから「・・・かも。」と断定を避けて文章を終えることがままありますが、それも内館先生からは叱られそうです(^_^;)。

冒頭から「生き様」の話が書いてあってよかった。いろんなところで、「生き様」ほど下品なことばはないから使わないでと何度も何度も言っているのに、メンズファッション誌のグラビアでは平気で太い活字になってたりして。みんな好きなのね、「生き様」。でも「ぶざま」「ざまをみろ」など醜態を連想させることばということをもっと意識しましょう。そもそも発音してみて美しいか? モデルに着せる服と同じだけ、使う言葉に気を遣ってくれるとうれしいです。

やはりファッション誌であまりにも使われすぎていてあたりまえになっている「カタカナ+さ」についてもチェックが入っていて、ほっとしました。「エレガンスさ」「キュートさ」「ナチュラルさ」、もうやめましょうね、こんなバカっぽい書き方。「エレガンス」はそれだけでOK、あとの二つはたとえば「キュートな雰囲気」とか「ナチュラルなたたずまい」のように、うしろになにか日本語の名詞をもってくるのがコツです。

どさくさにまぎれて言ってしまうと、私は「女史」ということばも好きではありません。敬するフリして距離を置いて蔑んでいるような冷たさが漂うことばです。「中野香織女史」など書かれたりすると心にさぶい風が吹く。まあ、相手に悪気はないのだと自分に言い聞かせはするものの。女だからといってハレモノをさわるように特別扱いすることはない、ふつうにさらっと「さん」か「氏」でいいではないですか。

そういう「好きでないことば」をあげはじめるときりがないということを発見してなんだかギスギスしてきた(笑)。たぶん、人の数だけそういうことばが出てくるだろう。そういうことばをいちいち避けているとモノも言えなくなるから、神経質になりすぎないのも大事かと思うが、ただ、自覚して使うのと無自覚に使うのとでは大きな違いがある。

島地 勝彦✖️三橋英之『乗り移り人生相談傑作選 1  男と女は誤解して愛し合い  理解して別れる』、届きました。
男と女の深い真実がぎっしりの一冊。

巻末の座談会に参加しています。

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この座談会は、実はここに収録されていない後半が面白かった。フツー、男は飲めば飲むほど話が堕ちていくものだと思っていたが(すいません)、このときは、飲めば飲むほど話が高尚でアカデミックに深まっていったのである。

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で、あまりにもこの本のテーマにそぐわなくなるほどピュアな学問になっていったので、編集ミツハシさんによれば、それはまた別の機会に読者にお目にかけたい、とのことでした。

私も日々ものごとが忘却の彼方へ流れていくので、あのときのお話をぜひ活字で読み直したい思い。というか、活字になったら「初めて聞く話」に思えたりするんだろうなあ^_^;

対話は一回だけ、その場だけのものだからこそすばらしい、という考え方もあるにはあるけれど。

同じ「忘れていく」のでも、文字通り、さらっと流していっちゃうのと、一度文字にしてから忘れてしまうのとでは、あとから意味が全然違ってくる。

と思いたい。

☆関係ないけど、昨日、長年の間、自分にはできるわけがないと思い込んでやらなかったことを、はじめてやり遂げた。なんとか、ひどい状態でありながらも、できたではないか。妨げていたのは、私自身だった。それにうすうす気づいていたけれど、こわくていろんな理由をつけて殻を破れなかった。エゴなど手放して無防備になれば、「限界」なんていくらでも突破できる、というか、ない。はたから見れば拙い、滑稽な一歩だけど、私にとってはとても大きな一歩だった。手に余るものばかり引き寄せてしまい、無理難題な試練が続々とふりかかってくる気がするけれど、逃げずに乗り越えたら一回り晴れやかな宇宙に包まれる。

不可能に見える壁を乗り越える秘訣は、エゴの放棄と無防備、と悟る。無になるまで没頭する。それだけのこと。アタマでわかってはいても実際にその境地にたどりつき、そう「なる」までが、闘い。


とても深い薫陶を受けた恩師のひとり、故・安東伸介先生の論文、エッセイ、対談などがぎっしりつまった本が出版されました。「ミメーシスの詩学」。2002年に先に天に旅立たれたのですが、奥様の博子さまが膨大な安東先生のお仕事を丁寧に集め、こうして本の形になりました。

安東先生は、慶應義塾大学英文学の伝統に光り輝く方。ケンブリッジで客員研究員として過ごしていた1994年ごろに、同じケンブリッジで訪問教授をなさっていた安東先生ご一家と知り合い、家族ぐるみでのお付き合いが始まり、ほぼ毎日のようにご家族のどなたかと会ってご飯を食べたりお話していたりした記憶があります。

安東先生の偉大さは、なによりもそのお話ぶりにあるので、ここに書かれたものだけでその功績がすべて伝わりきらないのが悔しいですが。

帰国後も、家族ぐるみで渋谷のご自宅や八ヶ岳ふもとの山荘に呼んでいただいたりして、イギリス紳士の行動、日本の山の手文化、チョーサー、シェイクスピア、ミルトンなどの古典などなど多岐にわたるテーマについて、奥様の手料理(抜群の腕前!)とワインをいただきながら親しく伺えたことは、なんと贅沢な経験だったことか。

メディアに出るような俗っぽいことはあまりなさらない先生でしたが、一度、私が引っ張り出してしまいました^_^;。『性とスーツ』の翻訳を出した直後ぐらいだったかと思いますが、1998年A/Wの「ダイヤモンド スタイル」。モダン・ジェントルマンの特集で、ジェントルマン階級についてインタビューをさせていただきました。15年前、私の方はショートカット時代(笑)のお恥ずかしい写真ですが、安東先生「新刊」ご出版記念ということでご寛恕。ちなみに、「ミメーシスの詩学」に収録されている安東先生の肖像は、このときに撮影したグラビアページの写真(誌面では、下の記事の右ページに掲載)です。

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今読んでも含蓄のあることば。「人間というものは外にあらわれたところで判断するしかない。陶器を評するのと同じで、重い、軽い、風格があるというような形容詞は、ことごとく人間にあてはまります。美醜にかかわらず、人間は顔で判断される。英国のジェントリイ階級は、おしゃれの部分でもそれを意識していますが、やはり顔が違うのです」

ちなみに写真のうしろに写っているのは、安東先生コレクションの高価な陶器。

今生きていらしたら、どんなお話が聞けたでしょうか…。当時、感動しながらたっぷりとうかがったはずの話をしっかりメモしておけばよかった(ブログがあったらしっかりメモしておいたかもしれない(-_-;))。「今この瞬間この人と話している」ことがどれほど貴重ですばらしいことか、ずっとあとになってわかるのですよね。

そんな時間を慈しんでいくことが、年を重ねた時に、美醜を超えた「顔のちがい」として表れていくのでしょうか。

祝! 芦田淳先生、新刊、『髭のそり残し』(角川学芸出版)発売です。

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1998年既刊の同タイトルの文庫版に、新しいエッセイを加え、再編集した本。芦田先生のお人柄がにじみでる文章によって、美や幸福やビジネスや人生などなどについて考えさせられる、豊かで味わい深いエッセイ集です。

恥ずかしながら、巻末に解説を書かせていただきました。「愛と合理主義とプレタポルテ」。

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10日前後に書店に並ぶそうです。

学生たちと、いまどきの「合コン」について雑談していた時に出てきたファッションネタ。「いちばん最近の合コンで、男の子5人のうち3人が同じ格好だったので驚いた」という女子学生に、「どんな?」と聞いたところ。

「白いTシャツの上に黒いベスト」。

なるほど。清潔感とワイルドネスのほどよいアピール、でしょうか…。

さてさて。発売中の「メンズプレシャス」最新号(Autumn 2013)、たいへん楽しめました。赤い表紙に描かれるイラストは、ソリマチアキラ王子のお仕事。


いちばん面白かった記事が、林信朗さんがデヴィ夫人にインタビューした「デヴィ夫人の追懐」。60年代~70年代のヨーロッパ社交界の様子がありありと語られる。

「社交界はね、『美』を競うところなんです。王族、貴族、富豪、名士や一流の芸術家たちが集まって『美』を競う。富だけではなく、自分の財産をどう優雅に使うか、そこが見せどころなんですよ」

「ディナー・パーティーの会話ひとつでも『美』の競い合いですよ。機知に富んだ会話ができないといけません。みんなの心が高揚してくるような、そういうお話がね。髪型でも、服装でも、宝石でも、最高のおもてなしをしてくれるホストにお返しをする意味でも美しくしていく」。

具体的な固有名詞やエピソードが次々に出てきて、しかも、ウォリス・シンプソンが下品だったというお話までなまなましく出てきて、いや~、興味深かったです。

ほかには、綿谷寛画伯による「妄想おしゃれ世界旅行」。名品を自在にコーディネートして、行きたい国へ、行きたい時代へ。1968年のパリ、サンジェルマンとか、1953年のサンヴァレーとか、1924年のロンドンとか。画伯のシリアス系のイラストならではのリッチで優雅で楽しい迫力。眼福ものです。

島地勝彦さん「乗り移り人生相談」が単行本化、記念座談会。サロン・ド・シマジにて。11月に発売の単行本に収録される予定です。

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左から一橋大学准教授の小岩信治さん、外資系IT企業に携わる森正貴資さん、「ミツハシ」こと担当編集者の三橋英之さん、中野、そして島地さんです。小岩さん、森正さんは、とても品のいい熱狂的なシマジ教信者。行動だけ聞くとかなり大胆な攻め系なのですが、人当りや言葉がとても丁寧で穏やか。ファンとしてじかあたりした森正さんは、なんとシマジさんとスコットランドに一緒に旅行するまでの仲に。やはり作家のレベルと読者のレベルは引き合うのでしょうか。「乗り移り」のコメント欄の読者の反応もレベルが高いことが話題になりました。

それにしても、シングルモルトがすすめばすすむほど男性の皆さんのお話が格調高くなっていくというのは(笑)。

じかあたりと運とご縁。一言付け加える「感想」。ほんのささいなことが仕事の質を上げ、縁を結び、人生を面白くしていくの図、まのあたりに。

salon de shimaji オリジナルラベルがかっこよすぎる。

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同じ人間界の話とは思えないほどかけ離れた世界の話だったが、面白すぎて一気読み。超富裕層のお話。


ロバート・フランク著「ザ・ニューリッチ」。リッチスタン(富裕層の国)のお話。2007年の本だから、今は昔…な話も多々あろうかと思うのだが。それでも、アメリカの新富裕層の実態が赤裸々に描かれており、興味がつきなかった。執事、起業、慈善、パーティー、ヨット、ジェット機、スパ、城、屋敷内ゴルフコース、デスティネーション・クラブ、美術品…。

以下、とくに面白いと思った引用&概要など、備忘録。

・現在の執事は、「ハウスホールド・マネージャー」

・富裕層が安心できる金額はほぼ常に、現在の純資産額あるいは所得の約二倍。

・有閑階級は一変しつつある。暇なお金持ちに代わって、仕事中毒の富裕層が登場している。

・富は人間の最低の部分も、最良の部分も引き出す。つまり、富は人間性を誇張するのだ。「金は自白剤のようなもので、人間の本質を引き出してしまう。だから、嫌なやつは金をもつとますます嫌なやつになる」

・映画みたいだ、と感じたのが、社交界の頂点をめざすファイマン氏のエピソード。赤十字ダンスパーティーに100万ドルという史上最高の寄付をすることで、パ―ティー実行委員になる。いわば、社交界を金で買おうとする。これが守旧派の大ひんしゅくをかう。あれこれの小競り合いがあって、ファイマンは文字通り転落(舞台の上から)。厚かましい野心家の失態として大いにオールドマネーを喜ばせたというエピソード。

・新旧の確執は古くから。古代ギリシアでは、香辛料や香水、亜麻糸といった贅沢品の輸出入で財を成した貿易商がニューリッチとして台頭したが、彼らと地主階級とのあいだには繰り返し争いが起きている。

・古代ギリシアのニューリッチは、オールドリッチに打ち勝とうとする一方で、彼らの仲間として受け入れられることを必死に求めていた、とギリシアの歴史学者チェスター・スターは述べる。「富と地位を手に入れたカコイ(ニューリッチ)は、社交面で貴族を真似ようとした。こうした社交上の意思表明は、たとえそれが貴族への賞賛であったとしても、おそらく貴族の目から見れば、この上なく苛立たしいものだっただろう」

・オールドリッチとニューリッチの確執は、1800年代後半から1900年代前半にかけて、さらに激化する。新世界アメリカの産業王や鉄道王たちが、ヨーロッパの地主貴族階級に挑戦しはじめた時代。

・金メッキ時代のアメリカの富豪たちも、貴族階級より裕福ではあるものの、ヨーロッパの王室に認められ、賞賛されることを常に求めていた。

・今日のリッチスタン人も、上流階級の門戸を突き破ろうとしている。それがオールドリッチとニューリッチの新たな確執を生んでいる。100年以上前の金メッキ時代と同様、いまのアメリカでも、ニューリッチが富裕層コミュニティに大量参入し、血筋や家柄ではなく、金に基づく社会的ヒエラルキーを築こうとしている。

・リッチスタン人にとって、名士録に名前が載ることなどもはや当然のことだ。彼らが競って登場したがるのは、「ハンプトンズ」「アスペン・ピーク」「ガルフショア・ライフ」といった新種の社交雑誌。

・今日の即席起業家出自はさまざまで、明確な「支配階級」もなければ、ニューリッチ全体に共通する価値観もない。旧富裕層は、慎みや伝統、公共への奉仕、慈善、洗練された余暇活動を誇りとしたが、リッチスタン人が誇りとしているのは、ミドルクラスの倫理観と、自力で築いた資産、そして高額消費。

・「ニューリッチの夢はこうだ。ある日、町の名門一族の主が名刺ファイルを繰って、電話をかけてくる。そして、こう言う。『君のお金が必要なんだ』。そこで金を出し、仲間に入れてもらうというわけさ」。

・パームビーチの決まりごと。一度着たドレスを別のパーティーに着ていくのは厳禁。目立つブレスレットと目立つイヤリングを両方つけるのはいいが、目立つネックレスまで一緒につけるのは、やりすぎ。

・慈善パーティーの実行委員長になって賞賛されるためには、金持ちの友人を総動員し、大金を寄付してもらう必要がある。しかも、集めたのと同じ金額を自分も寄付しなければならない。もちつもたれつのおかげで、金さえ積めば慈善家としてパームビーチ社交界での地位を築けるようになった。しかも、寄付はすべて課税控除される。

・ベントレーは、15万ドルとやや手頃だ。ベントレーによると、需要が非常に高いので通常の広告を打つ必要はまったくないという。「この車を買える人は、向こうからわれわれを見つけてくれます」

・美術品は壁を飾るだけでなく投資にもなると、ニューリッチは信じている。資産マネージャーやファイナンシャル・アドバイザー、美術商、ギャラリー、それにオークション会社が結託して、美術品は蓄財の手段だと宣伝している。チャック・クローズの肖像画は、ただの絵ではなく「リスク相関のない資産」であり、美術品は居間のバランスだけでなくポートフォリオのバランスも整えてくれるのだ。

・美術商は、美術品を金融商品に変えることで、美術品市場のリッチスタン人にとっての魅力をぐっと高めた。

・支出のトリクルダウンは、野心のトリクルダウンを伴う。これほど多くの富裕層が財力を誇示するのを見て、ミドルクラスやアッパーミドルクラスでさえも急に相対的な貧しさを感じ、負けじと身の丈以上の支出をしはじめる。

こういう側面を知っておかないとラグジュアリー業界の見え方が片手落ちになる。といっても本に書かれていることすら、ごく一部の話だと思うが。

今日、届いた本の中から。

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これは……ちょっと衝撃でした。Nathaniel Adams, Rose Callahan, ‘ I am Dandy; The Return of the Elegant Gentleman ‘, Gestalten.

ハードカバーを開くとショッキングピンクの世界(文字通りのイミです)。今どきのダンディ約60人のグラビアなわけですが。それぞれに、凝りに凝った宇宙人のような装い。ぞわっとくる。必ずしも「魅力的」ではない。けれど、目をひきつけずにはおかない超個性派ぞろい。

序文にグレン・オブライエンはこんなタイトルをつけている。「ダンディは危機にある世界に希望をもたらす」。

反発と興味をともにかきたてるという意味では、まちがいなく、今日的ダンディ。ふつうの生活を送っている人の目には、ブキミに見えます。まさしくそこが彼らの狙い。

この本については、あらためて、ダンディズム連載などの記事で紹介したいと思います。


博報堂が出している「広告」。レイアウトがひどく読みづらいのですが(スミマセン)、読みやすいところからつまみ食いする形で前後読んでいくと、示唆的なメッセージに行き当たることが多いのですね。

今号でいちばん興味深かったのが、IDEOチーフクリエイティブオフィサーのポール・ベネットさんのインタビュー「物を売るための神話から、TRUTHのあるストーリーテリングへ」。以下、ほとんど自分自身のための備忘録です。書きっぱなし御寛恕。

TRUTHとIMPACT。

大事なのはわかるが、では、TRUTHとはなにか。

「人々がどう生活するかをとにかく観察して、人を理解しようとすること。人は生活のどういう局面で、なにを必要とするのか、何を欲するのか、どのようにコミュニケーションするのか。

僕たちは『出どころのない、物を売るためだけの神話』をこしらえることには一切興味がなくて、すべてのストーリーにはそういう人の生活にやどるTRUTHがあるかどうか」

TRUTHの部分が、いかなる立場であれ、重要、と。

「どんな状況に立たされようと、クライアントに対しても、社内に対しても、人が望むものはこれです、と胸を張って言えるものがあるかどうかが、これからのクリエイターのすべてを決めると思う」。

だから、そんなデザインは、政治ともかかわってくる。

「デザインのために、生活するひとびとを見つめる。ひとびとが仕事する様子をじっくり見つめる。学校に通う姿をじっくり見つめる。親子の関係を見つめる。そういうプロセスの中から、生活の根底にある本質を見つめて、生活をよくするソリューションを出すんです、と。

すると、一人の議員が急に叫んだ、それがまさに政治家がすべきことじゃないか!と」

で。IMPACTは、

「人の心に梃子が当たっていなければならない。構造にも、使用方法にも、新しい発見がなければならない」

表現は、シンプルに。

「要素が昇華しきれてない、ふたこぶらくだみたいなのは、持ってこないでね」

IDEOをIDEOたらしめているのは、スタンフォード大学内にあるd.school. 

「マーケティングによる最適解を出すという問題設計よりも、デザインが持つ人々の心理、生活、人生、文化、エコシステムを貫通できる問題設計の方が、より本質的で創造的ソリューションを社会に提供できる」

「良い会社はより大学みたいに、良い大学はより会社のように、急速になっている」。

「コラボレーションとはすなわち越境であり、いろいろなバックグラウンドのひとがぶらぶらしている『必要』がある」


文芸別冊、「向田邦子」。この人のセンス、この人をとりまく方々のセンス、すべてが「まっとう」で粋で一流で上質で鋭くてホンモノ、いいなあ。


この人も、まっとうなものの見方や感覚を教えてくれる。
曽野綾子「人間にとって成熟とは何か」。ときに、どきっとする。

・「自分の立場を社会の中で考えられるか」
の問いで、野田聖子議員へのきつい苦言。子供の治療にかかる莫大な医療費に関して、「国民の皆様のご負担のおかげです」という感謝の言葉がまったくないことに対する批判。こんな高額治療を、国民の負担において受けさせてもらっていることに対する感謝を表明することが「成熟」だ、と。

「野田氏が根本的に、人間のあるべき謙虚な視点を失っていて、人間を権利でしか見ない人」とまで。

「成熟とは、鏡を磨いてよく見えるようにすること」

…読んでおいてよかった。こんなふうに言われないように、言動に慎みを忘れないようにしよう(小心者)。

・「品を保つということは、1人で人生を戦うということなのだろう。自分を失わずに、誰とでも穏やかに心を開いて会話ができ、相手と同感するところと、拒否すべき点とを明確に見極め、その中にあって決して流されないことである」「品というものは、多分に勉強によって身につく。本を読み、謙虚に他人の言動から学び、感謝を忘れず、利己的にならないことだ。受けるだけでなく、与えることは光栄だと考えていると、それだけでその人には気品が感じられるようになるものである」

・「威張る人というのは、弱い人なのだ」。「最低限、威張らないことで、みっともない女性にならずにいる」。「威張るという行為は、外界が語りかけてくるさまざまな本音をシャットアウトする行為である。しかし謙虚に、一人の人として誰とでも付き合うと、誰もが私にとって貴重な情報を教えてくれる。それが私を成熟した大人に導いてくれる」。

・「成熟ということは、傷のない人格になることでもない。熟すことによる芳香を指す言葉のように思う。或る人の背後にあるその人間を育てる時間の質が大切だ」

・「存在感をはっきりさせるために服を着る」、まるまる一章で。これについてはまた後日あるいはどこかの媒体で。

成熟への道は遠い。ワイルドの意見を聞いてみよう。

To be premature is to be perfect. 「未熟であるということは、完璧であるということだ」 by Oscar Wilde

ふふふ。さすがワイルド様ね。円熟した人は、尊敬の対象になるけど、恋の対象にはなりにくいのよね。ワイルドのやんちゃ坊や好みから推測したことですが。私自身も、成熟修行は永遠に続けるけれど、成熟の完成版みたくはなりたくない。

お盆休み期間はこもりっきりで仕事ですが、書いても書いても終わりません。そんな状況なのにネタ探しながら気分転換に遊んでしまいました。すいません。原稿に戻ります。


久々に2度、部分的に3度読みしてしまった本。内田樹&岡田斗司夫の『評価と贈与の経済学』。日本の現状と将来を、鋭くてユニークなキーワード満載で、ポジティブに楽しく論じ合うといった感のある対談集。以下、とくに面白いなと思った論点、個人的なメモ程度ですが。

・表紙がイワシ。というのも今の日本の社会は「イワシ化」しているから…って。笑。小さい魚が普段は巨大な群れになって泳いでいる。リーダーはいない。突発的に何かが起きたらバラバラになる。

・「自分の気持ち至上主義」。自分のなかの気持ちの盛り上がりが絶対で、それがなくなったら「もういいんです」とやめてしまう。仕事に対しても、恋愛に対してもそうで、相手に対して責任を持たない。「心が折れる」というのも、閾値を超えて壊れるのではなく、閾値が下がってもたなくなる。

・草食化するワケは、欲望を逆手にとって利用されるのが怖いから。誰かにいいように利用されるくらいなら、欲望を持たないほうがいい、というスタンス。

・SNS、ブログ、ネットによる「完全記録時代」。失敗は生涯指摘される恐ろしい時代が今。

・キャッシュ・オン・デリバリーは、信用が成り立たない関係の取引。信託能力に自信があれば、「いまもらえなくても、いつか」が成り立つ。「次はない」と思っている人間だけが、同時交換・等価交換をうるさく求める。自分が差し出したものが先方の要求以上であれば、「おお、次回もぜひ」と必ずなる。

・「成果主義」をペラペラ言葉にしているヤツは、成果の力や奥行きや影響を信じてない。人間の営みは、「棺を蓋いて事定まる」もの。

・いいことしてると、自尊感情がわき、それだけで生命力が向上する。これも報酬。

・「一家を構える」システム。「次郎長三国志」みたいな。親分には定職がないけど、取り巻きがあれこれ工夫して暮らせる。上納金でなんとかやってける。英国王室のシステムもまさにこれ。笑!相手は大家にすぎないから、平気で悪口が言える。

・才能のある人は、天からそれを贈与されている=負債を負っている、のだから、次の世代へパスする義務がある。社会に還元、贈与する義務がある。

・拡張型家族というあり方。ジョン・ウォーターズ組、ドリームランダーズがその例。深刻なトラウマを抱えた人たちと共同作業で映画を作る。しかもお気楽な娯楽映画を。家業は映画製作。小津組も。

・自己実現が優先するなんて、狂ってる。最優先すべきは「集団が生き延びること」。単独で「誰にも迷惑をかけない、かけられない」生き方を貫くより、集団的に生きて「迷惑をかけたり、かけられたり」するほうが生き延びる確率が高い。自己決定・自己実現のイデオロギーはもう通用しない。

・「おはよう」「おやすみ」「いただきます」「ごちそうさま」「いってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」「の八語を家族全員が適切なタイミングで口にできれば、家族制度は十分もつ。

・「先生」とは「機能」。コンテンツを提供しなくていい。最終的な回答を与えなくていい。教師の仕事はどうやって学びを起動させるトリガーを見つけるかだけ。

・先生がすばらしい先生であることを世間に立証する唯一の方法は、弟子が才能を発揮し、市民的成熟を遂げたことを満天下に知らしめること。

…前半メモ以上。後半また後日。

内田先生による、現在の日本の学校教育についての見方も鋭い。↓

http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php

Sims, Luckett, & Gunn "Vintage Menswear". 購入。スポーツウエア、ワークウエア、ミリタリーの「ほんもの」の古着をディテールまで詳しく写した、メンズウエアの大型写真本。

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汚れたりよれたり変色したりしている、タフな動きに耐え抜いた服の写真の数々には、かなりドキドキしてくる。たっぷり300ページあるし、保存版にしておきたい、よい資料ではある。

ただし。

ヨーロッパのヴィンテージクローズが多いのだけれど、東洋のものもあって、「???」と感じた服もあるのですね。たとえばコレ。「1940年代のジャパニーズ・アーミー トロピカルユニフォーム」と書いてある。スターウォーズのジェダイの騎士が着ているパーカは、ここからインスピレーションを得たんだって! 

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だけどだけど、右の正面写真、襟についている赤字に黄色い☆の国旗は、どうみてもチャイナではないだろうか…? 著者にとっては、日本も中国も同じジャパニーズ? でも、ひょっとしたらこれもまた当時の「日本軍」の制服だったのだろうか? このあたりの歴史認識が私には疎く、自分が無知なだけなのか、著者がまちがってるのか、わからなくなってきた。どなたか教えてください。

<追記>

……と書いてからまもなく、読者の方から回答をいただきました! コメント欄をご参照ください。博識で親切寛大な読者に恵まれた私は幸運です。心より感謝します。

まとめ買いしておいた樋口毅宏本の最後の一冊。扇情的なタイトルだが、真正面から「愛を求める人々」の哀しさといとおしさを描いている。冒頭はノリノリのポルノグラフィー、しかもカンダウリズム(Candaulism)という、愛する女性をほかの男に委ねることで快楽を得られるという特殊な性的嗜好をもった人たちの饗宴描写から。次第にそれが樋口さんお得意のグロさ極限の血も凍るバイオレンスの世界となり、その後、展開ががらりと変わってシリアスな裁判で彼らの「自由な愛」がきわめて「日本人的に」裁かれていく。「自分を棚に上げて他人を断罪」するとなるとヒステリックなまでにモラルを振りかざす日本人の醜い小市民ぶりの描写がドライで笑える。さらに裁判のあと、二転三転する「裏の真実」が判明していき…とこのあたりはミステリーの謎解きタッチ。人物がすべて、互いのパートナーに見せる顔とは別の面を、別の人に対しては見せていく。一人十色。愛の求め方も、誰も素直ではなくて、自分と最愛の人に誠実であればあろうとするほど、ゆがんだり社会的に裁かれたりする方向に行ってしまう。

恒例の、映画や音楽に対するマニアックなオタク語りもちりばめられ、次はなんだどうなる?と飽きさせずに一気に読ませる。破綻しているところや中途半端感でくすぶる箇所もあるけれど、B級感をきわめつつあらゆる要素をつめこんで限界に挑もうとした野心を評価したいかな。この人の文章はやっぱり神経のぎりぎり限界を試すような劇画的暴力描写をしているときが、いちばん生き生きしている。

カンダウリズム、という専門用語をはじめて知ったのだが。ポルシェが好きすぎて、自分で運転するとその姿が見られないので友人に運転してもらい、走る姿の全容を外から眺めることで満足する、というメンタリティと似ている、というような解説が本書のなかにあって、ああなるほど、と納得。人の心はどこまでもややこしくて奥深い。

私は強運の持ち主です。ついに誰もなり手がなかったのでしかたなく「くじびき選出」になった小学校のPTA役員を引き当て、その上、代表(会長職)になってしまいました。今年の初めには全く予想すらしなかった運命の急展開です。

ただでさえ片づけきれていない膨大な仕事量で溺死しそうな生活。これ以上このような重責をどうやって…と絶望で泣きそうになりましたが、降りてきたものはたぶん天からの贈り物。謹んで取り組むことにした。

本日が公務の初日で、入学式における祝辞を述べるというお仕事。ふだんレクチャーなどではまったくアガったりしないのだけれど、「物議を醸さないように」注意して作り上げた原稿を「読む」となると、いつになく緊張してしまう。あれかな、「自分を抑えよう」とか「自分でないものを演じよう」とするとアガるんだろうな。でもいい試練になった。こういうふうに自分を鍛えられる機会なんて、めったにいただけるものではない。ちなみに、スピーチ原稿は、原稿料をいただいて書くふだんの仕事よりも、はるかに気を使うことになった。

で、これまでPTAなんて一生無縁だと思っていたのでこの制度について何も知らない自分に愕然とし、考えるきっかけになりそうな本を読んでみた。まずは、山本シュウの『レモンさんのPTA爆談』(小学館)。

コミュニケーション論としても面白かった本。熱いやり方はこの方にしかできないだろうが、笑ったり感心したりしながら、多くの示唆をいただいた。

「愛する」と「甘やかす」の違いなんて、重要。「正しく愛すると、相手は人としてカッコよくなるはず。甘やかすと、逆に人としてカッコ悪くなるはず」

もう一冊は川端裕人『PTA再活用論』(中公新書ラクレ)。実際に何年かPTAを経験しながら取材を重ねてきた著者による、現状整理と問題提起本。

各地の具体的な試みなども書かれていて、今後もしばしば参考になりそうな事例多し。

ちょっとした発見だったのは、PTAが戦後GHQによってつくられたものであったということ。「上からの押し付け」。だからかくも生き生きしないのだ。

「義務」から「機会」への転換、っていうのはいい言葉だな。たしかに、やってみると、自分の幅を思わぬところへ広げることができる「機会」なのよね。

などと余裕こいたようなこと言ってる場合ではない生活なのだが(T_T) 

加賀乙彦『科学と宗教と死』(集英社新書)。難しそうなタイトルだけど、やさしく語るように書いてある。著者、80歳を超えている。

身近に死を何度も経験した加賀さんの個人的な思いの部分も興味深かったが、もっとも示唆に富んでいたのが、死刑と人間心理。死刑囚と、無期囚とはぜんぜん「症状」が違ってくるという指摘。

死刑囚は、反応性の躁状態になる。しゃべったり冗談をとばしたり、笑い歌い騒々しく興奮しやすく暴れまわる。

「古くから、罪人が処刑寸前の引き回しのときに笑ったり歌ったりする様子を『引かれ者の小唄』と言いましたが、まさにその状態です。『引かれ者の小唄』は、死を前にわざと平気をよそおうこととされてきましたが、私の観察では『わざと』している行為ではないと思います」

無期囚には、「プリゾニゼーション」すなわち「刑務所ぼけ」がおきる。感情を麻痺させ、無感動になり、刑務所の生活に適応する。「退屈というものを感じなくなるほど鈍感になる」。

「死刑囚は常に『いつ殺されるか』という興奮状態にありますが、無機囚は全然別の人間になってしまう」。

死刑囚は濃密な時間を生き、生のエネルギーを発散させざるをえない。無期囚は無限に薄い時間を生きざるをえない。

どっちが残酷なんだろうか。

という狭い枠の問題を超えて、塀の外にいる人間にとっても、死をどれだけ強く意識するかによって、生の濃度が変わってくる…という示唆を、かみしめる。

芥川賞受賞作を読みたいと思って買ってみたが、むしろ断然、面白かったのが、「テレビの伝説 長寿番組の秘密」。なんであれ、長続きするって偉大なことだが、その秘密が納得できるような言葉の数々。

・紅白最多出場の北島三郎が語る「オレと紅白と美空ひばりさん」より。「紅白の舞台に限らず、キャバレーで歌っても、ステージの向こうに歌を聴いている人はいる。そこに届けようと思って歌えば、メシを食う手をとめて、聴いてくれるんです。それが、プロの仕事ですよ。そういう思いで自分に鞭打ちながら、今日までやってきた」

・立川志の輔「『ためしてガッテン』は六か月かけて一本つくる」より。「(立川談志師匠のコメントとして)科学的に言ったら、酒も煙草も体に悪いに決まっているけど、そうはいってもやめられない人間の業を肯定していくのが落語なんだよ、おまえは『酒も飲まず、煙草も喫わず、百まで生きたバカがいた』といい放つ側にいろ、と」。その結果、癌になる確率を減らすテーマを取り上げた回でしめくくりに色紙に書いた一言が、「癌は運である」。

・萩本欽一「僕が泣いた『仮装大賞』名作選」より。「笑いの方程式は、『振りは静かにまっすぐと』なんです」「(二郎さんの晩年の舞台を見ていて)名人芸の上に仙人芸があると思った」

・堺正章「『チューボーですよ』の食材はゲストです」より。「(60代になったときにどうなっていたいかと考えた時に)そこで覚えたのが『捨てる芸』です。ツッコミたくても割り込みたくても、ここは言わないでおこう、とスタジオにどんどん捨てていくんです。昔は全部言わなければ気がすまなかったけど、この年齢になると、それでは必ずしも得をしない。あえて前に出ず、後で、『ああ、あそこは捨ててよかったな』と思える捨て方を覚えたことは、僕にとって大きな財産です」

・草野仁が黒柳徹子の『ふしぎ発見!』」より。「(黒柳)これまで蓄積してきた自分の知識のレベルを考えてみたら、音楽、芝居、パンダ、ユニセフなど一生懸命やってきた分野に関しては自信があるけれど、スポーツ、科学、歴史などに関しては惨憺たる知識しか持っていないと気づいて愕然とした。だから、出演をきっかけに少し腰を据えて、歴史と地理を勉強してみようと思います。一週間前でかまわないので、『古代ヨーロッパ』とか『開拓時代のアメリカ』とか、大まかなテーマを教えてください。それについての本を読んでからクイズにチャレンジしたいんです」……で、毎回平均して5冊は読んで予習していらっしゃるとのこと!

・樋口毅宏「30周年『笑っていいとも』タモリの虚無」より。「(四半世紀、お昼の生放送の司会を務めれば)まともな人ならとっくにノイローゼになっているよ。タモリが狂わないのは、自分にも他人にも何一つ期待をしていないから。そんな絶望大王」……。「たけしやダウンタウン松本が時に刃物をチラつかせて、誰からも恐れられる『自らをコントロールできる狂人』だとしたら、タモリは一見、その強さや凄さが伝わりにくい、まるで武道の達人のようです」。「(あるときテレフォンショッキングッキングのコーナーに突然、男が乱入)しかしタモリは慌てず騒がず、『何、言いたいことがある?』と返し、やりとりをしている間に男はスタッフに取り押さえられました。観覧していた客は目の前の光景が信じられず、しばらくざわついていたが、タモリはケラケラと笑っていた」(!)。

思いや喜びを届けたいというサービス精神やプロ根性、尋常ならざる努力や強運に加え、捨てる芸を覚えて絶望大王として構えていれば、仙人の域に達していることもある。強引なまとめでスミマセン。

原研哉『日本のデザイン』(岩波新書)。久々に、ゆっくりと文章そのものを「味わう」という喜びを堪能した本。日本の歴史や現在のなかに潜在する可能性を見出し、具体的な未来のビジョンを明快に描きだす(=デザインする)、という趣旨の本なのだが、ウェブにあふれる「日本の未来をこうすべき」というハウツーものとはまったく別格のレベル。ハウツー表記は字面をたどっていくにつれてなにか焦燥感や虚無感が増していくのだが、この本は読んでいくに従って心が落ち着いて潤っていく気がする。

要点の総括とか、概略の紹介、というのは、このようなタイプの本にかぎり、あまり意味をなさないような気もするので(そういうことを知りたい人は通販系ウェブサイトのレビューでもチェックしていただければ)、文筆業者として、「美しい文章だなあ…」と感じ入った箇所の中からいくつかを、ランダムに紹介。「何が書かれているか」ということよりもむしろ、「どのように書かれているのか」という表現において魅了された文章ばかりである。いかなる文脈において登場するのかは、各自購入して確認されたい。

「人為の痕跡もないような極まった自然の中に先端テクノロジーを駆使してぽつりと存在したいという衝動は、理性に自負を持つ人間の根源的な欲望のひとつである。植民地文化の華やかなりし時、西洋人がことさら極まった野性的環境の中で、白いテーブルクロスと、白服の給仕係をともなって、フルコースの食事をしたがった心性も同じ動機に起因するものだ」

「およそ人間が集まって集団をなす場合、それが村であれ国であれ、集団の結束を維持するには強い求心力が必要になる。中枢に君臨する覇者には強い統率力がなくてはならず、この力が弱いと、より強い力を持つものに取って代わられたり、他のより強力な集団に吸収されてしまったりする。村も国も、回転する独楽のような存在である。回転速度や求心力がないと倒れてしまう。複雑な青銅器は、その求心力が、目に訴える形象として顕現したものと想像される。普通の人々が目の当たりにすると、思わず『ひょええ』と畏れをなすオーラを発する複雑・絢爛なオブジェクトは、そのような暗黙の役割を担ってきた」

「中国は龍を、イスラムは幾何学的パターンをびっしりと身にまとい、互いに『僕を攻めるとちょっと怖い目に遭いますよ』と、威嚇し合っていたにちがいない。現代でいうところの抑止力。核兵器で脅し合うのではなく、緻密な文様の威力で互いの侵略を抑止していたのだ」

ファッションに関する記述が、とりわけ一文一文、正確で、本当は全文丸暗記したいくらいの勢いなのだが。なかでも、この表現はさすが!と拍手したのがこちら。

「(VOGUEの編集には筋の通った原則がある、という話にふれて)ファッションとは、衣服や装身具のことではなく、人間の存在感の競いであり交感であるという暗黙の前提のようなものだ」

ファッションとは、人間の存在感の競い。そして交感。こうした視点をもってファッションシーンで繰り広げられる情景を眺めてみると、昨日とは違う風景としてその中の人間が見えてこないか。

「人間は偏りをもって生まれ、歪みも癖も持ち合わせて生きているが、そういうものを全部のみこんで、どっかりと開き直って生きている人々には、時代を経た大木のような迫力が備わってくる。シミを取ったり、まぶたを二重にしたり、アゴの線を整えたりするのではとうてい太刀打ちできない、人間としての強烈なオーラを放っている。そして、そういう人は、才能ある服飾デザイナーが全身全霊を投じて創作したオートクチュールのパワーを見事に一身に引き受けて服を着こなしている。着られるものなら着てみろと言わんばかりの、斬新で独創的な服飾デザイナーの挑戦を、真正面から受け止め、自身の身体と人的オーラでそれを増幅し、あたりに発散している」

私が「ダンディズム」で取り上げた男たちの態度を通して言いたかったかったこととも、まさに通じている気がして、深く納得。偏り、欠点、歪み。コンプレックス。「かっこいい」男たちは、みなこうしたマイナスを受け入れて、それを長所に転じてしまった。そのロマンティックなパワー、ラブ&ヘイトを同量たっぷりと受けとめる懐の深さこそが、人を魅了するエネルギー源になっているんだよね。そのあたりのもやもやを、「人間の存在感の競い」とずばり的確に表現してくれた原さんに感謝。

「個々の人々の自由が保証され、誰もが欲しいだけ情報を入手することのできる社会においては、人々は平衡や均衡に対する感度が鋭敏になる。したがって『夜なべをして手袋を編む』ような、アンバランスな献身性を発揮して子育てや家事にいそしむ母のイメージは支持を得られない。女性は社会の中に相応のポジションを得て、賢く損のない人生を生きようとする。少子化の根は、育児にお金がかかるからという単純な理由にあるのではない。全ての人々が自由を享受する社会の趨勢に根をおろした現象なのである」

「ミック・ジャガーは68歳。年齢的には立派な老人だが、そういう認識ではとらえにくい。若さはすでにないが、多くの時間をロック・スターとして生き抜いてきたことで強烈な存在感が醸成されている。老齢化社会を考える時、いつも僕はこの人物を思い出し、ひとつの態度に回帰する。そこに平衡や均衡への配慮はない。あるのは超然とした大人のプリンシプルである」

平衡や均衡へ配慮なんかしないこと。今風に言えば「空気を読む」ことへの配慮なんかしないこと。難しいからこそ憧れる…。でもぼんやりと憧れごっこしてるヒマはあんまりないのだ。昨日、旅立っていったホイットニー・ヒューストンは、私よりも年下だった。誰にも永遠に時間が与えられているわけではないのですね。

ほかにも、思考を刺激してくれる美文多々あるのだけれど、今日はこのくらいに。折に触れて読み直したい本。

本音に迫るインタビューをこなす人としてすごいな、と思っていた本橋信宏さんの『心を開かせる技術』(幻冬舎新書)。

こわもての人からAV界の人まで、ふだんはなかなか会えないような人にインタビューをおこなう、そのそれぞれのプロセスに臨場感があっておもしろい本。

とりわけいいなと思ったのが、代々木忠監督へのインタビュー。「あなたに逢えるようにずっと波動を送っていました」というツカミのいい挨拶(これを監督が言う)の言葉もぐっとくるし、

「自分が心のなかでつくったものは自分でしか解決できない」

「対象を否定的にとらえてしまうと、否定したものにエネルギーを与えて肥大化してしまう」

「彼は常に優等生を演じている。だからメスを刺激しない」

「”男は獣”と子どもに言いつづけると、育った子供はそんな男としか出会わなくなる。人間は意味づけしたものしか認識できないから」

などなどの、真実をつく名言の数々にはっとさせられる。

「個性とはその人の使う言葉でもある」、という著者のことばにも、納得。

心を開かせる技術とは? それを一口で言っちゃった「まとめ」は、とても平凡な一般法則なのだけれど、神はそんな抽象論には宿らない。1対1の、一期一会のインタビュー、それぞれの具体例こそがきらきらとしている。

桐光学園の特別講座14回分の内容を書籍化した本の、4冊目。分野不問で最前線で活躍なさっている先生方14人の、中・高生向けレクチャー。とても贅沢な教育だなあと感心する。

[E:clover]とりわけ印象に残ったのが、森達也さんが2010年6月におこなったレクチャーの記録。「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」。

ノルウェーでの受刑者の様子。オスロ刑務所では、受刑者の生活に不自由ないどころか、自由まである。部屋にはテレビもゲームもあるし、冷蔵庫には旬の野菜やデザートまで。所長の話。「こうした環境にしているのは、最終的には彼らにきちんと社会に戻ってほしいから。受刑者が厳しい環境で過ごし、ひどい扱いを受ければ、更生しないまま社会に出て、適応できなくなる」

こうして受刑者は新しい人間的な環境で社交性を身につけ、ルールを守ることを覚えていくのだとか。

ノルウェー法務省の役人のことばも印象的だった。「なぜ罪を犯すのか。一つは、幼いときの愛情の不足。二つ目は、青少年のときの教育の不足。三つ目が、現在の貧困。であれば、この三つを社会がカバーしてあげればいい。苦しみを与える必要はない」。

このような寛容な措置が可能になるのは、豊富な財源があるから、といってしまえばそれまでなのだけれど。「罪と罰」に対する根本的な考え方の違いも感じる。

「善意が人を暴走させる」という森氏の意見も、深く心にとどめておく価値あり。

「『正義のため』『大義のため』『善意のため』、さらには『愛するものを守るため』という理由があったとき、人は何万人でも殺すことができる。悪意には摩擦が働き、後ろめたさを残す。でも善意には摩擦が働かず、後ろめたさがないから、人を暴走させるのです」

「さらには『危機意識』。オウム以降、僕たちがメディアによってそれを植えつけられたように、危機意識があると人は攻撃的になる。20世紀以降の戦争や虐殺のすべてはこれらが原因です。そこに領土的野心はほとんどありません。『このままだと民族が絶えてしまう。守らなければ』。そんな善意と危機意識が働き、人は際限なく人を殺し続けることができたのです」

[E:clover]もう一人、奥泉光さんの「文学力をきたえる」。

「表現とは、極端にいえば、再現すること」。過去に面白いと思った経験を、もう一度つくりだすことである、と。

「人間の文化とは、おもしろいものに触れた次の世代が、そのおもしろさを再現しようと試みる、その連続」

「文学に関わる者は、感動の質を見極めなくてはいけません」

「つくり手に求められるのは、パターンから離れた感動をどれだけつくり出すことができるか、ということ。理想は、今まで誰も知らなかった感動です。それをもし発見できれば、作家冥利に尽きるでしょう」

過去に面白いと思った経験を再現することと、誰も知らなかった感動を作り出すことの間には、いくばくかの距離があるのでは?と奥泉先生に質問してみたいのだが。 問いと矛盾が果てしなく終わらないからこそ、文学か。

☆今日は、いつもそばにいてくれる(笑)キティ・ホワイト(ロンドン生まれ)の誕生日。おめでとう!

映画話ついでに、内田樹先生の新刊『うほほいシネクラブ 街場の映画論』(文春新書)。立ち飲み屋、バー、クラブー、居酒屋などなど、あちこちの飲み屋で映画の感想を言いたい放題、というノリが楽しい本(多様な初出媒体の原稿を収録してあるので、文体が章ごとに違う)。

とはいえ、さすが内田先生で、映画を超えてさまざまな示唆に富んでいて、論じられている映画そのものを観ていなくても読みどころ満載。

「ミリオンダラー・ベイビー」のヒラリー・スワンクを評して、「さわがしくない性」と。「『あ、そういえば、私、女なんですけど、それが何か問題でも?』という肩の力の抜けた性意識。彼女がクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンという圧倒的な存在感を持つ名優に挟まれてなお堂々たる存在感を示すことのできた理由はそこにあると思います」。

「シン・シティ」を評して、「いかにも嘘くさく、嘘の話をする」と。「映画が固有の現実性を獲得するためには、フィルムメーカーと観客が『同じ側』に立って映画内的現実をみつめているという状況設定が必要なのです。『こちら』側にフィルムメーカーと観客、『あちら』に映画そのもの。この二項対立関係が成立すると、映画そのものが(もう人間たちが作り出したものではなく)、固有の悪夢のような現実性を持ち始めて自律的に存在するようになるのです」。

「サマータイムマシーン・ブルース」を通して「なぜ、タイム・トラベルをすると善人になるのでしょうか?」という問題を考える。「過去を見ると、今自分がいる場所も、そこに当然のようにいる友人たちも、彼らから見える『私』も、信じられないほどの偶然が織り重なってつくりあげられた『一瞬の作品』にほかならないこと、はかなく移ろいやすい物であることが実感されます。(中略)僕たちは誰もが偶然的な存在であり、一瞬後には『別の人』になっている。だからこそ、この一瞬を全身全霊をあげて生きなさい、というのが、『クリスマス・キャロル』以来あらゆる『タイム・トラベル物語』の教訓」。

「バベル」を通して「ことばが通じない」状況を考える。「最後まで話はうまく通じない。でも、話が通じないからこそ、人間たちはその乗り越えがたい距離を隔てたまま、向き合い、見つめあうことを止めることができません。言葉が通じないことがむしろ出会いたいという欲望を亢進させるのです。『あなたの言いたいことはよくわかった』という宣言は『だから、私の前から消えてよろしい』という拒絶の意志を含意しています。僕たちはむしろ『あなたの言いたいことがよくわからない。だからあなたのそばにいたい』という言葉を待ち望んでいるのです」。

「父親たちの星条旗」のイーストウッドのスタイルを通して、「少しだけ足りない」ことの有用性を教える。「すべてが『少しだけ足りない』。そのせいで、観客は映画の中に、自分の責任で、言葉を書き加え、感情を補充し、見えないもの見、聞こえない音を聴くように誘われる。そんなふうにして、クリント・イーストウッドは観客を映画の『創造』に参加させてしまうんです」。「それが完成するために僕たちのわずかな『参加』を控えめに求めるからです。それを享受するために僕たちがささやかな『身銭を切る』が必要になる。それによって、そこにはあるオリジナリティが加算されます。つまり、クリント・イーストウッドの映画を見ているとき、僕たちはそれぞれに少しだけ違う『私だけの映画』を観ているのです」

などなど、インスピレーションに満ちた解説はどこまでも続く。

読むだけで満足してしまって、紹介されていた映画をもう観る必要がないように感じてしまう点で、昨日挙げた「映画ガイド」とはジャンルが異なる。『死ぬまでに観たい……」は、上の内田先生のことばを借りるならば、「完成するために、参加が必要」。読者が観てはじめて完成するような映画ガイド。内田先生本は、これだけですでに完成している感じ。どっちがいいかという問題ではなく、私のような映画ファンには、どっちも同じだけ重要。

これもここしばらく持ち歩いて何度か読み返した本。内田樹先生の『最終講義 生き延びるための六講』(技術評論社)。ヒューマニズム、アカデミズムの王道をいくお話として、ひたひたと心を潤してくれるような感覚を味わわせてくれる。

「かすかなシグナルに反応して、何かわからないけれども自分を強く惹きつけるものに対して、自分の身体を使って、自分の感覚を信じて、身体を投じた人にだけ、個人的な贈り物が届けられる」

「どんなふうに人間は欲望を覚えるか、どうやって絶望するのか、どうやってそこから立ち直るのか、どうやって愛し合うのか……そういうことを研究するのが文学研究です。だから、文学研究が学問の基本であり、それがすべての学術の真ん中に存在していなければいけない」

「知性のパフォーマンスを向上させようと思ったら、自分以外の『何か』を背負った方が効率的であるに決まっています。自分の成功をともに喜び、自分の失敗でともに苦しむ人たちの人数が多ければ多いほど、人間は努力する。背負うものが多ければ、自分の能力の限界を突破することだって可能になる」

「どうやったら学びのモチベーションを高く維持できるか。そのために使えるものは全部使う。最終的に彼らが採用したのは、営利栄達でも、知的優越でもなく、自分の脳が高速度で回転しているという事実そのものだったんです。その『アカデミック・ハイ』だけは間違いなく、今ここでたしかに実感できる。最後に残るのは、この快感だけである」

「自分の知性の活動が最大化するときの、最高速度で頭脳が回転しているときの、あの火照るような体感に『アディクトする』人間がいて、そういう人間が学者になるんです。『あの感じ』を繰り返し経験したくてたまらない。だから、どうやったら自分の知性が最高速度で機能するようになるか、その手立てを必死になって考える。(中略)だから、使えるものは全部使うようになるんです。自分の知的なパフォーマンスを高める可能性のあるものは、総動員する。それが本当の学者だと僕は思います」

「自分が『理解することの困難なこと』をめぐって語っているのだという自覚があれば、書き手が最初に配慮すべきは、『読者の知的緊張をどこまで高いレベルに押し上げられるか、どれだけ長い時間それを維持できるか?」という、すぐれて技術的な『読者問題』になるんじゃないですか」

ほかにも、五感に染み渡るような「情理を尽くし語られた」ことばのオンパレード。とりわけ専門化しすぎて排他的になりすぎたアカデミズムに対するご意見のあたりが、ひやひやしながらも、とても共感できた。

ユダヤ人問題のこと、北方領土問題など、私には完全には理解が及ばなかった箇所もある。なんだかすごく大事なことが書いてありそうなのに。ホント、自分のレベルに応じたものとしか「出会う」ことなんてできないんですよね、本の内容も、人も。

「自分のレベルに応じたものとしか出会えない」ことついでに、最近なるほど、と思った酒場の教養。「ル・パラン」本多さんの、「バーテンダーは砂金採りのようなもの」説。「砂金の宝庫、と評判の場所でも、心の網の目が粗いと、カンやゴミしか集まらない。でも、心の網の目を細かくしておく(=知識や教養を磨いておく)と、砂金にもたとえられるいいお客様がたくさん集まってくる」という意味だそうである。たぶん、バーテンダーばかりではなく。

上野千鶴子先生の最終講義録が目的で買った「文學界」9月号だったが、思わぬ収穫もあった。河野多恵子と吉田修一の対談、「『逆事』と抑制の小説作法」。

河野 「そういえば、福島原発の事故以降、やたらと「節電!節電!」と言うでしょう。先日、新聞を見ていたら、「節電」と『陰翳礼讃』を結びつけた内容の記事があったの。あれには驚いた」

吉田 「たまたま僕が読んだ雑誌にも似たような記事がありました。『陰翳礼讃』がエコ生活読本のような扱われ方で(笑)」

河野 「そう。冗談じゃないわ。『陰翳礼讃』は、その頃の谷崎の心理的マゾヒズムという性的欲求から生まれているのよ。そこのところが全くわかっていない」

吉田 「目隠しをされた時に感じる人間の五感の喜びのようなものだと僕は理解しているのですが」

……上のくだり、痛快だった。たしかに、「節電のために暗い」=「日本人には陰翳礼讃という美的感覚が」みたいな記事が多くて、ちょっと違うなあ、気持ち悪いなあ、という違和感をおぼえていたのだが、そうそう、そういうことだったのね。

で、もう一か所だけ、備忘録としての引用を許していただきたい。

河野 「ところで、なぜ人は小説を書くのかというと、私は『精神的種族の保存拡大』のためだというのが、本当のように思います」

吉田 「『精神的種族』とは聞きなれない言葉ですね」

河野 「これは佐藤(春夫)さんが、師と仰いでいた生田長江の言葉らしいんだけど、自分の作品に共鳴してくれて、最高の理解者として作品を愛し続けてくれる、心の底から通じ合える読者のことなの。苦労して書き上げた作品を発表したときには、読者の反応が気になって、誰かに共感して欲しいでしょう」

吉田 「はい、そのために書いているようなところがあります」

河野 「そうなのよ。作家は作品を発表することで、たとえ自分がこの世から去ったとしても、その作品を大切に思い続けてくれる自分の精神的種族とつながることで、時代を越えていつまでも作品を残すことができるのね」

……そういう信念と実感があるのとないのとでは、モチベーションがまったく違ってくる。吉田さんではないが、こういう発想というか自覚の有無が「5年後、10年後に立っている場所」を変えるような気さえする。そんな名言。

◇遅まきながら、「文學界」9月号に掲載されていた上野千鶴子先生による最終講義「生き延びるための思想」。

フェミニズムは敬遠しがちだったが、これを読んで上野先生がどのような思いで闘い、いかなる業績を築いてきたのかということの一端がはっきりとわかった。畏敬の念がじわ~っとわき、心が洗われるような思いがする。

最初は最終講義のタイトルを「不惑のフェミニズム」としたかった、と。「最終講義のときに東京大学の構内に出る看板に、『フェミニズム』という文字を載せてもらいたかったからです。その文字の入った看板が東大構内に立つのをこの目で見たかった。同時に、『フェミニズム』という文字の入ったタイトルで最終講義を行うのは、おそらく私が最初で最後であろうというふうにも、予感をしておりました」

上野先生の業績がわかったこと、フェミニズムに対する理解をあらためて得られたことも収穫であったが、それ以上に、「ファッション学」を考えるときにも応用可能な、力強く愛にあふれた言葉を、しかと「バトン」として受け取った気になれた。

「私たちは女性学というものの種を蒔き、それを育て、担い手と聴衆を共に育て、マーケットを作り上げてきました。ですから、学問もベンチャーの一種だと考えれば、ある意味、私は女性学というベンチャーの創業者の一人であったと言ってもいいかもしれません」

「学問の原点にあるのは、『私って何?』という謎です」

「フェミニズムというのは、社会的弱者の自己定義権の獲得運動」

「問題って、あなたをつかんで放さないもののことよ」

「学問というのは、こういう人々の営為が積み重なった『伝達可能な共有の知』」

「女が自分を語ろうとしたときに、語る言葉がなかったときに、女の言葉を悪戦苦闘しながらつくってきた先輩の女たちが、私たちの前にいました。その女たちの言葉が私の血となり、肉となっています。英語で言うと、I owe you. つまり、私はあなたたちのおかげでここにいる。私はあなたたちのおかげで、この私になった。私は彼女たちに恩義がある、ということです。だから恩返しをしなくてはなりません。これが私の40年でした」

「弱者が生き延びようとしたときに、弱者は敵と戦うということをしなくてもよい。敵と戦うということはもっと大きな打撃に自分がさらされるだけだからです。強者になろうとする者は、戦いを選ぶかもしれないが、弱者の選択肢はたった一つ、『逃げよ、生き延びよ』」

「時間と年齢は誰にでも平等に訪れます。かつて強者であった人も自分が弱者になる可能性に、想像力を持たなければならない時代が、超高齢化社会だと思います。私たちは、弱者になるまい、ならない、というような努力をするぐらいならば、むしろ誰もが安心して弱者になれる社会をつくる、そのための努力をしたほうがマシなのです」

……だから何、といま一気にまとめてしまうと、こぼれおちたことのほうに大切なものがありそうで惜しい感じがするのだが。日本においてはファッション学はまだ「ベンチャー」として位置づけることができ、それゆえの可能性に満ちていること。「原点」や「問題」は、「弱者」としての自分から出発していいこと。というか、むしろそれを曇りなく見ることができる目を磨くべきこと。「わかってくれる人だけにわかればいい」のではなく、伝達可能な共有知として抽象化する責任があること。数少ない先人の恩義を忘れてはいけないこと。大きな土俵で闘うことを考えず、生き延びることを考えていいこと。想像力を駆使して社会全体とのつながりを保ち続けるべきこと。などなど。

◇私が「バトンを受け取った」異国の先人のひとりに、ヴァレリー・スティールがいる(まだばりばり現役中だが)。The Berg Companion to Fashion は厚さ4センチを超える「読めるファッション辞典」。各項目がコラムのように読み物として書かれていて、それぞれに参考文献がついている。この言葉の集積の迫力たるや。

ユニークな辞典二つ。一つは、できたてのほやほや、『英和ブランド名辞典』(研究社)。山田政美・田中芳文 編著。

英語の新聞や雑誌を読んでいると、とにかく固有名詞に悩まされる。人の名前もそうだけど、最近圧倒的に増えたのが、企業やブランドの名前。仕事柄、ファッションブランドならばだいたい見当がつくが、ウィスキーの銘柄だとか家電、食料品、洗剤、家具あたりになるとお手上げになる。

ウェブで調べるとだいたい出てくるが、ウェブで用語を調べることの欠点は、行きついたサイトが面白かったら(そして近頃ますます、面白すぎるサイトが増えているのだ)、ついそこに長居してしまい、気がついたらどんどんジャンプしてまったく遠いところまで遊びに行っており、「えっと、わたしはいったい何をしようとしていたのだっけ?」ということになり、結局、仕事がまったく進んでないという事態を招いてしまうこと。その点、必要最低限の情報をさっと教えてくれる、こういうコンパクトな辞典が手元にあると、ありがたい。

もうひとつは、1960年から読み継がれている古典的ファッション辞典の、2010年度アップデート版。Valerie Cumming, C.W. Cunnington and P.E. Cunnington, The Dictionary of Fashion History. 写真やイラストを加え、大判になって見やすくなった。それぞれの用語が、どの時代に使われたものなのか?ということが、きっちりと書いてあるのも心強い。

マイナーであっても、きちんとした仕事を世に出し続けていくことが長期的な信頼につながる、ということを教えられる一冊でもある。

◇台風12号の被害が大きい。亡くなった方が30名近くも…。(その後の報道では、さらに日々大幅に犠牲者が増えている。)なんともむごいことだ。まだ見つかっていない方や、避難を余儀なくされている方々も多い。村ごと孤立しているところもある。何もできず、ありきたりの言葉で心苦しい限りだが、被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。孤立している村の方々の安全が一刻も早く確保されることを祈ります。こんなにも大きな水難が続くことなんて、かつてあっただろうか…。

◇鷲田清一先生の『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』(筑摩書房)。2001年に『働く女性のための哲学クリニック』として出ていた本の、増補版文庫化。今年の8月10日に出たばかり。

新版には、小沼純一氏と鷲田清一氏の対談あり。震災後に鷲田先生が気になっていることとして、「子孫のことを社会が考えてこなかった」ことを指摘。

「明日は今日より絶対によりよくなるっていう感覚があって、将来のこと、つまり子孫のことをあんまり考えてこなかった。次の世代も何とかなるだろう、やっていけるんだろうって」。

だからエネルギーは使い放題。国債は発行し放題。子孫のために辛抱するとか蓄えるという人類の基本をまったく考えない社会になってしまった、と。財を残し、知恵を残し、言葉を残すということをしなくなった先に、いったい何がくるんだろう。「七世代先」のことまで考えていかなくては、みんな沈んでしまう。自戒をこめて。

この前から考えていた「かわいい=こわい」問題に対するヒントも。

鷲田「いまは、世の中にやたらかわいいキャラがあふれているけど、結局ああいうものは、想像力が一番乏しい。あのキャラクターが送ってくる電圧っていうのは、ほとんど均一ですよね。尖った議論であるとか、尖った感覚であるとか、拒絶の感覚であるとか、そういう強度の高いものを全部あらかじめシャットダウンするという感じがあります」

小沼「ある意味ではこの列島にずっとつながっているようなごまかしみたいな感じもありますよね」

かわいい=日本にずっとつながっているごまかし。

「かわいい」礼賛と、子孫を無視した国債発行やエネルギー浪費をしてしまうメンタリティは、一続きである。一見、乱暴に見えるが、いや、この視点も、あながち無視できないように感じる。

コリン・ジョイスの『「イギリス社会」入門 日本人に伝えたい本当の英国』(NHK出版新書)。以前の2冊で大ファンになり、新刊が出てすぐに買っておいたのだが、読了してしまうのがなんだかもったいなくてとっておいた(笑)。

やはりこの人の感覚はいいなあ。教条主義的なところはかけらもなく、ちょっと斜め後ろから、冷静に詳細に、人や社会を観察して、みんなが見ていながらはっきりと意識しなかったようなことを、すっと俎上に載せてくれる。ちょこっとユーモアのスパイスを添えて。

この本も、例によって高い観察力とまっとうなヒューマニティが駆使され、インテレクチュアルに、ユーモラスに、血の通った今のイギリスの姿を教えてくれる。

90年代のクールブリタニカのブームの描写も、とてもシブい。

「そのころ、ふつうならイギリスにはつけられないはずの形容詞がずっと聞こえていた。『モダンな』『ダイナミックな』『前進する』『革新的な』。イギリスは『リブランド(ブランド再生)』の真っ最中だという触れ込みを、さんざん聞かされた。

イギリスの著名なジャーナリストがこんなことを言っている。何かの事象に語る価値があるかどうかを知りたければ、その逆のことを言ってみて、ばかばかしく聞こえないかどうか確かめるといい。そのころイギリスに関して言われていたことについて、ぼくはこれを試してみた。『イギリスは遅れた国であり、活気が感じられず、二流国であることに甘んじ、独創的な考え方ができない』

(中略)ぼくは『ニュー・ブリテン』というコンセプト自体に疑いの目を向け始めた」

イギリスの話ではあるのだが、日本においてもあてはめうる議論もちりばめられている。たとえば19世紀に活躍した政治家、グラッドストーンについての記述。

「グラッドストーンはイギリス政治で重要であるべき原則を体現していたと思う。たとえばリーダーシップ(政治的な見返りは小さくても、価値ある原理原則を守ること)であり、健全な国家財政であり、外国との平和な関係である」

サウンドバイト(短くてキャッチーなフレーズ)を重視する政治戦についての揶揄も、どこの国にもあてはまりそう。

細かな情報がいちいちメモしたくなるほど興味深いが、それ以上にやはり、読後、「まっとうな感覚」の友人と会話を楽しんだような心地よさが得られるのがいい。

訳者が前の2冊から代わって、森田浩之さんになっている。前の谷岡健彦さんの訳もすばらしかったが、森田さんの訳もナチュラルにこなれていて、読みやすい。

3・11後の日本がコリンの目からどう見えるのか、聞いてみたい。

「芸術新潮」9月号がおもしろい。特集「ニッポンのかわいい」。

はにわから、仏像、国芳、春信を経て、中原淳一、内藤ルネ、水森亜土にいたり、ハローキティーで極まるまで。銀座松屋での「キティーアート」展に合わせた企画と見えるが、それだけに終わらない、渾身の特集。

ずっと「ニッポンのかわいい」絵を見ていると、だんだんこわくなってくる。このアピール、なんだろう。攻撃しませんよ、というオーラの集まりが逆にブキミになってくる、というか。

西洋的キュートだとすぐ忘れるけど、日本の「かわいい」には「私を覚えてて~」みたいなウェットなものが漂っていて、それがコワさになるのか?

女子美大教授、南嶌宏(みなみしま ひろし)さんの話に、その答えのヒントがあり。

「小さいから簡単にやっつけられるかというとそうではなくて、小さいゆえに絶対に乗り越えられない、そのような存在が放つ力、魅力、それを指し示す呪文が『かわいい』なのではないか」

「人類は、勝ち抜き、征服し、支配したいという意志を持って文化を形成してきました。しかし一方で、何か全く無抵抗なものに同化したい、弱々しいものに支配されたいという欲望も抱え込んでいる。20世紀のある時期以降の人間たちがどこか無意識に希求しているその思いが、『かわいい』によって救済されているのでしょう」

教授のとなりにフツーに座って、うなずきながら聞いているようなキティが、やっぱり「コワい」(笑)。

ブレンダ・ラルフ・ルイス『ダークヒストリー 図説イギリス王室史』(原書房)読了。久々に血が騒いだ歴史本。ノルマン征服のウィリアム王から、ナチのコスプレで世間を騒がせたヘンリー王子まで、イギリス王室の「恥部」(と前書きにある)の歴史が、ふんだんなビジュアル資料とともに、描かれる。

スキャンダルに陰謀に裏切りに残虐行為。ほんと、よくもまあこれだけ延々と「ありえない」ような話が出てくるのか、とあらためて感動する。でも、イギリス史好きなのは、ほかならぬロイヤルスキャンダルが面白すぎるからなのよね。人間味がありすぎて、ドラマチックすぎて、感情を深いところでゆさぶり、社会や人間を考えるためのインスピレーションに満ちている。ヘンリー8世と6人の妻の物語なんて何度語っても飽きないし(聞かされる人には申し訳ないが)、エリザベス1世とメアリーの確執、それに続く後継者の満ちた物語なんて、読むたびにしびれる。自分が処刑した女の息子が、ほかならぬ自分の後継者となる……だなんて皮肉すぎ。エドワード8世とウォリスの話も語り飽きないし、ダイアナ妃の話もあちこちで書いているが、そのたびに違う側面が見えてくる気がする。なまじのフィクションなど追いつかない面白さだと思う。

巻末で、監修者の樺山紘一氏が、「イギリス人は、なぜ王室スキャンダル嗜好にはしるのだろうか」というテーマで解説している。

「そこには残虐や不品行、暴虐から悪行にいたる、あらゆる人間的な営みへの、強烈な関心がかいまみられる。つまり、そのもととなる事実をこえて、推理や筋立てといった、いわば第二次的な言説のほうが、とめどもなく増幅してゆき、ほとんど全民族的な話題と噂となって、国土のうちをかけめぐる。これこそ、イギリスという国の独特の事件風土である」

そのあたり、よくわかる。私が好きなのもこっちだ。事件そのものというより、事件を巡る解釈というか、言説のほうが面白くなっていくのだ。だから事実そのものの厳密な正確さは、それほど重視していないようなところがある。

コナン・ドイルとかアガサ・クリスティが出てくる土壌もここにある、と樺山氏。

「イギリス人にとって、残虐と悪徳が主人公となる話立ては、最高の娯楽であり、また現実に対する独自の解釈である」

そうそうそう、残虐嗜好というよりもむしろ、「残虐に対する解釈」のほうを楽しむ、というイメージ。

「かれらにとって、王室をとりまく暗黒の霧すらも、それがほんとうの事実であるかどうかは、さして問題ではない。かぎりなく常識を離れた事件性にこそ、自分たちをとりまく社会を解説するための最良の鍵がかくされている」

樺山氏の解説をここまで読んでよくわかった。自分のイギリス史に対する関心と、モードに対する関心はほとんど同じ性質だということが。事実がどうであるかということよりも、それをめぐる解釈や言説が限りなく面白いのである。日常離れしているように見える現象のなかに、自分をとりまく社会を解説するためのカギを見つける。たぶん、それが好きで、続いている。そういう自分の方向性にも気づかされた本。

真夏日の仕事の合間には、眼福本でほっとひといき。 ’Icons of Men’s Style’  by Josh Sims. Laurence King Publishing から出たばっかり。josh Simsは英国各紙のファッション欄でよく名前を見かけるライターである。

ブルゾン、ワックスジャケット、フライトジャケット、トレンチ、ジーンズ、カーゴ、ローファー、デッキシューズ、ボクサーショーツ、ブレザー、ツイードジャケット、ボタンダウンシャツ、ランバージャケット、などなどのメンズの定番アイテムが、「やはりこのアイテムといえばこの男だろう」という直球どまんなかのアイコン(映画俳優だったりスポーツ選手だったり貴族であったり戦士であったり)がそれを着ている写真で紹介される。

ブレザーといえばジョージ5世。ツイードといえばジェームズ・スチュアート。ハワイアンシャツといえばトム・セレック。レイバンにトム・クルーズ。といったべたべたの王道も悪くないし、

パナマハットにミック・ジャガー。Yフロントのパンツにマイク・タイソン。ボンバー・ジャケットにフランク・シナトラ。という意外性もまたよし。

マニアックにはずしていくことがかっこいいと思われているフシもあるけれど、このように世界中のだれもが「ついていける」ような定番ワールドが確固としてあるということが、メンズファッションの強みにして面白さでもあることを、あらためて実感する。

定番アイテムの輝きを永遠にするのは、一時であれ時代の波長をリードしたようなアイコンたちで、彼らは没してのちも永く、そのアイテムとともに記憶のなかに生き続ける。古びることなく。つまり、定番服とファッションアイコンは相互に引き立てあって生き続けている。

.序文より。’Men’s styles are variations on a recognizable, well known theme, rather than a new score altogether.’

◇「RED」をDVDで。ブルース・ウィリス、ジョン・マルコビッチ、ヘレン・ミレン、モーガン・フリーマンがRetired Extremely Dangerous(引退した超危険な)スパイとして、自分たちを消そうとしている現役CIA相手にたたかう。俳優たちがそれぞれ自分のパロディを余裕で演じているような楽しさが見もののアクションコメディ。フラワーアレンジメントなんぞしているあの「クイーン」が突如バズーカを放つ。「観客がその人のキャリアをよく知っている」ことから生まれる笑い。

モーガン・フリーマンを撃ったのは誰だ?と最後までわからなかった。IMDBの掲示板を見てみたらやはりわからなかった人がいたみたいで話題に上っていた。回答の中に「たぶんサラ・ペイリンが関わっている」というのがあって、ゆるく笑う。

とはいえ、難しいお話はぜんぜんなく、そういう細部の疑問をはじめ、ブルース・ウィリスのお相手が若すぎる凡庸な女というのはどうなんだという疑問さえもどうでもよくなる類の、スカッと気が晴れるストレートな面白さ。

◇鷲田清一・石黒浩の対談集『生きるってなんやろか?』(毎日新聞社)。密な対談というよりも、おしゃべりに近いのだが、それだけに読みやすい。でもざっくり作った感が否めず、誤字・脱字が目に余る。校正がかなり雑。

……に目をつぶり、なるほどと思った指摘をメモ。

・鷲田「哲学というものは、実は普通の人の生き方や日常の振る舞いの中にあるものであって、人間の力や知恵というのは、発明ではなく、むしろ発見するもの」

・鷲田「哲学がすべきことは、その人たちの仕事を言葉に翻訳することやないかなと思ったの。服を着ることをの意味を服で考えている人、食べること、あるいは料理することの意味を料理で突き詰めようとしている人、そういう彼らの横で必死に見て考えて翻訳する―ひょっとしたらこれが哲学の仕事かもしれない」

・鷲田(80年代のファッションを論じて)「(60~70年代)当時は政治の季節と言われて、70年代安保とか右翼とか、とにかく政治が騒がれていた。そんな時代に3人(川久保玲、三宅一生、山本耀司)は、表現活動としての服作りを徹底的にやりだした。だからまわりからは、『おまえ、時代がこんな大きな問題に直面しているときに服作りかよ』ってバカにされた。ところが20年経った80年代、今度はファッションの季節だと言われるようになった。今振り返ってわかるのは、彼らの服作りの方が、大がかりな政治運動や思想運動よりも、はるかに時代を表現するメディアになっていったということ」

・鷲田(技術開発には、人を受け身にして、想像力を働かないようにしてしまうところがある、という議論の流れで)「そこで鍵になるのが、弱いもの、できの悪いものの存在。赤ちゃんや介護ロボットは、人を能動的にするんですよ。ハイハイする赤ん坊がころびそうになると、こっちが身を起こして助けにいくでしょう。『私がいないと、この子危なっかしくて』とか言ってね。この、『私がいないと』の<わたし>の存在理由というのは、弱いものを目の前にすると急に出てくるものなんです。だからなんて言うのかな、技術開発やデザインというのは、人のある種の能動性を引きずり出すことを大事に考えないといかんというのが、僕の考え方なんですけどね」

・鷲田(ズーラシアの象が、飼育係に喜んでもらうことがうれしくて絵を描いていた、という話をうけて)「喜びっていうのは、みんな自分が気持ち良くなることだと考えるけど、本当は、人を心地よくさせたり、人を楽しませるから、自分もうれしくなるんですね」

・鷲田(シュウカツのトレーニングに疑問を呈して)「自分が働いてみたいと思う企業になぜ直接、アプローチしないのかな、ということ。商店街や繁華街を歩いていて、ここで働いている人かっこええなあとか、働いてみたいなあ、っていうところを見つけたら、その場で『社長さんいはりますか?僕ここに就職したいんですけど』って直接アプローチするという就職の仕方をなぜまったく考えないのか、僕は不思議で仕方がないの」

・石黒(「スタートレック」のボーグが、全員コンピューターネットワークで密につながっていて、意識は集団で一つしかないというシステムであるという話に続けて)「ひるがえって現代の携帯電話とかコンピューターを考えてみると、これらも情報交換を異様なまでに密にしてしまうので、本来は土地とか空間とか時間で分けてたものを無理矢理つないでしまってますよね。そういうツールにあまりに毒されるというか、依存しすぎると、性行為みたいな原始的なつながり方にはあんまり興味を示さなくなったり、必要としなくなるのかもしれない」

クリスティーナ・ヘンドリックス(「マッドメン」の女優)が、「フェイスブックはセクシーではない」という名言を放っていたが、それに通じる考え方。SNSやTwitterは便利なことも多いが、あまりにもそれに毒されてしまうと、石黒先生が指摘しているような状況になるのかもしれない。これから次第に明らかになっていくとは思うが。

ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』(めるくまーる)。ネイティブ・アメリカンの思想とファッションについて書く必要が出てきたので、読んだ資料。宇宙的な時間の流れの中で「自然の一部」として淡々と堂々と生き、祝祭のように死んで次代へと命をつないでいくネイティブ・アメリカンの考え方が、「詩」のような形式でつづられる。

原発事故のような、人のおごりが招いたとしか思えない災害が身近にあるいま、いっそう彼らのことばが説得力をもってくる。

「白人がわたしたちにすることには、一定のパターンがある。まず初めに彼らは、わたしたちが必要としない贈り物を持ってやって来る。それから彼らは、売ろうにも、もともとわたしたちの土地ではない土地を買いたいと申し出る。

土地はそもそも誰のものでもない。それはただ、感謝して、優しく使ってもらうためにここに置かれているだけなのだ。土地はそれ自身に属しているわけで、その点、空の月や星と同じことだ」

「彼らはずいぶん前から、わたしたちのところへやって来ては、みんなが同じ顔になるように、わたしたちを丸めこんで白い顔にしようと懸命だった。わたしたちは、このわたしたちを変えようとする彼らの固定観念、わたしたちの土地を、『利用』と呼ばれる言葉で割り切ろうとする彼らの固定観念が、よく理解できなかった。そしてもうひとつ、わたしたちのものではない考え方に沿って、わたしたちにもものを考えさせようとする固定観念、これも同じくわたしたちの理解を超えていた」

「口を開けば白人は、わたしたちにはもっと物が必要だと言う。しかし物を持てば、わたしたちはその代償として、自分の魂を売らねばならない」

がーんとやられるような、でも静かで深い衝撃。大地や宇宙の流れの中で完全に自然と一体となった生き方をしているからこその、「今日は死ぬのにもってこいの日」。歴史は円環的にくりかえしているし、万物は一度死ぬことによって、生を取り戻している。その死生観に裏付けられている、大きくて穏やかな思想に、洗われる。

「冬はなぜ必要なの? するとわたしは答えるだろう。新しい葉を生み出すためさと。(中略) 夏が終わらなきゃいけないわけは? わたしは答える、葉っぱどもがみな死んでいけるようにさ」

こういうふうに考えることもできる、と知ることで、逆に心を穏やかに保っていくことができる。

あの「PRESIDENT」誌が「幸せになる練習」特集。それほどいま「不幸」感を抱えている人があふれているということの反映か。実際、自分も思わず反応して買ってしまったし(苦笑)。

「困難がつらくない」「ピンチでもうろたえない」「お金の苦労が消える」「最愛の人を失ったあと、どう心を立て直すか」「おひとりさまは最期まで幸せといえるか」などなど、目次だけおっていても、今こういう問題を抱えている人がいかに多いか、逆に浮き彫りになってくる。

災難や苦労が次々に押し寄せてくるときに、心を克服するにはどうしたよいのか? 臨済宗老師の井上さんの話をプレジデント誌記者は紹介する。「三昧」に入れ、と。

「例えば難しい仕事や、大震災のような恐ろしい対象と”一つになる”のは容易ではない。しかし、三昧に入るためには、苦しくとも逃げずに仕事や災厄とひたひたと同化し、自己を忘却することです。台風を恐れず、飛び込んでその目に至る、といえばわかりやすいでしょう。災難に遭うときは災難に遭うがよろしく候。己が対象に”なり潰れた”とき、そこに災難はないんです」

苦悩や災難との同一化。いろいろ考えても逃げてもダメだというとき、やはりそういうふうに実践するしか道はなさそうだ……。「真の幸福の泉もここにある」と井上氏は言うが、そこまでの境地というのは。

そんなこんなのメンタルの整え方も多様に紹介されていたが、もっとも印象に残ったのが、帝国ホテル山本一郎チーフデューティマネージャーのインタビュー記事。帝国ホテルは、あの震災の日、なんと帰宅難民2000人を無料収容し、水やパンや毛布を用意したばかりか、温かい野菜スープまでふるまったとのこと。近隣の外資系ホテルではドアも開けなかったのに。その裏話というか、ホテルマンの使命感がすばらしく、やはり危機のときこそ企業なり人なりの本質が浮き出るものだなあ、と。

田辺聖子『欲しがりません勝つまでは』(ポプラ文庫)。1977年に刊行されたものが、2009年にポプラ文庫になった版。第二世界大戦の前夜からその最中、終りまでを、「文学少女」だった田辺聖子の正直な視点から見つめた、半自伝のような物語だが、異常な時代の雰囲気がよく伝わってくる。前半は乙女チックでコミカルにのんびりと進んでいくので、途中で読むのやめようかと思ったほどだが、戦争が始まってからの後半が生々しく、現在の状況とも通じるところがあって、がぜん面白くなる。

戦争に勝つ予感がどこをどう押してもでてこなくなりながらも、負けるとは信じられなかった時の、国民の不思議な高揚。

「悲壮感にはしゃいでいるのかもしれない」。

「憂国の至情」にかられてハイテンションな言動をしてしまう同級生ら。震災直後の、なにか「ポジティブな言動をしなくては日本人ではない」みたいなプレッシャーに覆われた頃の空気を重ねて読んでしまった。

友成先生のおだやかな諌めが、鎮静剤のように効いてくる。

「こういう時節であるから、よけい、軽々しく動いてはいけない。いつかは戦争も終わる。みなさんの学問がまた役に立つ時代もくる。学問は戦争にも滅びない」。

それでも戦局がいよいよひどくなってくると、少女・田辺聖子は、大本営発表に「ほんまかいな」と内心思いつつも、日記にはスラスラと「どこからも叩かれない正論」を書くのである。「これからさき何十年か続くであろう幾多いばらの道を、断乎とふみしめ、最後の光明を仰いでひたすら、つとめはげんでいくのみである」と。

「自分で書きながら(ほんまかいな)と思っている。ついに私は、自分自身にさえ(ほんまかいいな)と思うようになった」。

自分自身が正直に思うことを、日記にすら書けない時代のプレッシャーというものが、やはりあるのだ。

戦後の、ころりと一転した価値観に、やすやすと乗ってしまうマスコミや同時代人の描写も、秀逸。

「人間の生命は地球より重い、という言葉も、どこからともなく吹いてくる風のように人々の心を染めてゆく。天皇陛下と国のためには、命は羽根より軽いと、特攻隊員は敵艦に体当たりして突っ込んだのは、ほんのこの間のことなのに、なぜこうもめまぐるしく世界は変わるのか」。

おそらく、<戦時中>は、強いて何かひとつの「正しい」考えに自分をもっていかねばならない、という圧力がおのずと働くものなのだろう。似たような状況にある今も、そんな同じ圧力に無意識にさらされていないか、ふと考えさせられる。

「戦時中の私は、『生けるしるしあり』とは思わないくせに、強いてそう思おう、としていた。自分のほんとうのきもちに蓋をし、オモシをのせていた。これからは、ほんとうの気持ちを、さぐりあてる力をもたなければ。天皇陛下に命を捧げることが幸福だ、とは本当に思っていなかったのだ。ただ、そう考えることが、美しく思われたからにすぎないのだ」。

おそらく、時代の空気に悲壮感が満ち満ちているときは、「そう考えることが、美しい」と思われることを、言ったり、書いたり、しがちなのかもしれない。それが本心から出た言葉でなくとも。

ともあれ、こうやって、悲惨な状況も愚かしい状況も、ありのままに書き記し、後世へ伝えていくこともまた、書くことを仕事とする人の愛情であり子孫への貢献である、ということを教わる。

◇浅田次郎『すべての人生について』(幻冬舎文庫)。小松左京、津本陽、北方謙三、渡辺惇一、岩井志麻子、宮部みゆき、山本一力ら14人の大物さんたちとの対談集。浅田次郎のエッセイによくでてくるネタがかぶっていたところもあったが、相当の準備をして対談に臨んだことがうかがわれる。一切の手抜きをしないプロフェッショナリズムに、あらためて感心。

それぞれ面白いのだけど、とりわけインパクトがあったのが、山本一力との対談。ふたりとも大借金王で、人生の浮沈をいやというほど経験しているだけあって、笑って紹介されるエピソードにもフィクション顔負けの凄みがあった。

なかでも、「仕事をする」ということに関して光っていたことば。吉川栄治文学賞の受賞パーティーでの話。同時受賞者が北海道で僻地医療に42年間専心してきた老齢のお医者様だったそうなのだが、その方はパーティー半ばで浅田氏に近づき、「これで失礼します。患者が待っていますから」と言って会場を出て行ったとのこと。

浅田「それだけのことなんだが、鮮烈でしたね。胸が震えました。仕事をしている人は誰でも公器、公の存在なのだとつくづく思ったのです。仕事をする限り、誰かと関わっているんだ。私が書いたものも一人でも二人でも楽しんでくれて、なかにはその人生や生き方に影響を及ぼすかもしれない。そのことをいつも頭に入れて、あの人が『患者が待っている』とさり気なく言われたように、私も『読者が待っている』とごく普通に言えるようにならなければならないと、褌を締め直す気持ちになりました」。

あとがきも、読ませる。

「世の中何だってそうだが、無駄な努力というものはない。骨惜しみだけが人生の空費となる」。

共感。高校生向けの講演などでも言っているが、真剣にとりくめば、無駄なことなどひとつもない、と思う。必ずあとで(何年先になるかわからないが)その果実がかえってくる。これやっても時間のムダ、と思って手抜きしたりこっそり内職したりすることこそが、最大の空費になる。

◇朝日新聞28日付オピニオン欄、高橋源一郎「身の丈超えぬ発言に希望」。昨日の斎藤氏の提言をさらに深めるような議論に加えて、城南信用金庫の理事長による「脱原発宣言」が紹介されていた。

「そこで目指されているのは、すっかり政治問題と化してしまった『原発』を、『ふつうの』人びとの手に取りもどすことだ。『安心できる地域社会』を作るために、『理想があり哲学がある企業』として、『できることから、地道にやっていく』という彼らのことばに、難しいところは一つもないし、目新しいことが語られているわけでもない。わたしは、『国策は歪められたものだった』という理事長の一言に、このメッセージの真骨頂があると感じた。『原発』のような『政治』的問題は、遠くで、誰かが決定するもの。わたしたちは、そう思いこみ、考えまいとしてきた。だが、そんな問題こそ、わたしたち自身が責任を持って関与するしかない、という発言を一企業が、その『身の丈』を超えずに、してみせること。そこに、わたしは『新しい公共性』への道を見たいと思った」。

力強いことばに導かれて、城南信用金庫理事長のメッセージを聞く。迷いなく、まっすぐな視線とともに発せられることばに、背骨がのびる思い。こんな素敵な経営者がいたのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=CeUoVA1Cn-A

国策は歪められたものだった。影響力のある?タレントやブンカジンはカネ持ち企業の操り人形だった。そんなこんなの背景があばかれた今、理想や哲学をもつ企業や個人が、国や「エラい人」に問題を丸投げせず、身の丈に応じて発言し、地道に行動していく態度を表明することが、地に足のついた「希望」を感じさせてくれる。

野地秩嘉『一流たちの修業時代』(光文社新書)。会社創業者、アーティスト、職人、営業マンなど、15人の一流の人たちが登場。今は輝かしい成功者として名高い彼らが、「修業時代」にいかに考えて行動したのか?を語る。 仕事の合間に一人か二人分ずつ読むつもりが、あまりにも面白くて全部読み終えてしまう。なんだかもったいないことをしてしまったような気分。

創業者のなかでは、CoCo壱番屋の宗次徳二さんに圧倒される。孤児で、養父母に引き取られるも貧乏のどん底で苦労がたえない。そこから会社を創業、一部上場まで育てあげるのだ。

ユニクロの柳井社長のことば。「しないうちからあきらめるな。だって、若い人って、まだ何もしていないんでしょう。あきらめることなんかない。まだ、何にも始まっていないんですよ、あなた方は」。

クレイジーケンバンドの横山剣は昔からのファンなので、デビューまでの物語は知っているつもりではあったが、やはりインタビュアーが違うと、知らなかった話や言葉がでてくる。「人間、どうせいつかは死にます。どんどん妄想して、勘違いして、やれるうちに何でもやったほうがいい」。

日本画家の千住博による、「世に出るとは」。

「世に出るとは、打たれても打たれても舞台に立ち続けること。厳しい批評にさらされても、描くことを放棄せず、じっと耐えて、また絵に向かい合う。人はあまりに打たれ続けると、打たれることがつらくなってしまい、褒めてくれる人を探すようになります。そうして自分で小さな舞台を作り、自分を理解してくれる少数の人の前だけで作品を発表するようになる。でも、それは、本当の芸術行為ではない」。

続いて、芸術の定義。「本当の芸術とは、わかってくれない人たちを美の力で引き寄せる、あるいは説得することです。つまり、わかりあえない人とわかりあうための手段が芸術なんです」。

そういう芸術家にとって、「修行が終わりということはない」と。

ここのところ、毎夜、地震で起こされる。3~4夜連続。下から突き上げるようなブキミな揺れ。地震雲や赤黒い空やミミズやカラスやモグラやイオン濃度の異常を「前兆」視する声もあちこちで聞こえる。いつ死ぬかわからない漠然とした恐怖がひたひたと現実味を帯びてきている感じ。でも、とりあえず生きている間はビクビクしてもしょうがない。ビクビクしている時間がもったいない、生きている短いうちに、妄想でも勘違いでも、やれることはやれるだけやっとこう、という気持ちにさせてくれた本だった。

◇「サライ」記事のため、銀座の「トラヤ帽子店」に取材にうかがう。店長の大滝雄二朗さんがボキャブラリー豊かで、帽子かぶれば渋チャーミング、という素敵な方であった。とても楽しい取材になった。感謝。詳しくは6月発売の本誌にて。

トラヤ帽子店の品揃えは、たぶん、世界一とのこと(店舗は入りにくいし、どちらかといえば狭めだが、それがかえってよい効果をもたらしているようだ)。カジュアルなハンチングから、トップハットに至るまで、世界のあらゆるブランドから。個人的にほしいな~と思ってしまったのが、ロンドンのおまわりさんがかぶっているようなヘルメット。

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時節柄、災害用というか工事用のヘルメットはいちおう、家族の人数分、身近において眠ってはいるが、こういうしゃれっ気のあるヘルメットが並んでいると、重苦しい気持ちも少しは明るくなるかも?と。

どさくさにまぎれての個人的希望。いざというときに5時間歩いても疲れないかわいいシューズ。パジャマとして着てよし、避難着としてもよし、ついでにそれ着て仕事してもヘンではない、という万能ウエア。最低限の避難用品ひととおりコンパクトに入るきれいめバッグ。デザイナーの皆さんにぜひ、作ってほしい。ビジュアルの要望などゼイタク、という世界ではあるけれど、「それどころではない」という気分のときこそ、明るいエネルギーを感じられるようなものがあると、心がほっとすることもある。

今は、華奢なヒールの靴やモノの入らないバッグなど到底買う気になれない。かといって災害用一点張りなのもなんだかなあ、である。危機がひそむ日常を、せめて何もない間は明るい気持ちで過ごせるようなモノを作っていただきたい、と強く希望。

◇往復に読み終えたのが、野地秩嘉『日本一の秘書』(新潮新書)。ぐいぐい引き込まれて、帰りなんぞ乗り過ごしたほど。ホテルニューグランドの名物ドアマン、カレーチェーンCoco壱番屋の秘書、似顔絵刑事、秋田のヒーローたる超神ネイガー、シミ抜きの天才、焼き鳥屋、富山の売薬。サービスの達人たちにみっちり取材し、その秘密を門外漢にもわかるように丁寧に分析した、これまたライターとしてのサービス精神あふれる一冊。

超神ネイガーの項、ヒーローの分析が光る。

「大人にとってのヒーローとは常に勝つ者、万能のスーパーマンを言う。しかし、小さな子どもにとってのヒーローとは万能でも常勝の人間でもない。子どもにとってのヒーローとは窮地に陥って、しかし、あきらめない人間だ。子供たちはヒーローになりたくて、ショーを見ているのではない。

ヒーローを応援したい。ヒーローを救ってあげたい。ヒーローを男にしてやりたい。そうして、ヒーローが窮地を脱するところを見たいのだ。つまり、子供にとってのヒーローとは窮地にはまり込むことが多い人間であり、苦しい目にあっているヒーローが大好きなのだ」

取材対象にみっちり沿って、意外な、でも普遍的でまっとうな法則を引き出す野地さんのやさしさとプロフェッショナリズム、いいなあ、と思う。

「ワンピース ストロング・ワーズ」上・下巻(集英社新書 ヴィジュアル版)。ワンピースの「名言集」。力強い言葉は、今だからこそ響くものもあり、読みながら思わず手に力が入るほど。

「普通じゃねェ”鷹の目”(あいつ)に勝つためには 普通でいるわけには いかねェんだ!!!」

「災難ってモンは たたみかけるのが世の常だ 言い訳したらどなたか 助けてくれんのか? 死んだらおれはただ そこまでの男……!!!」

各巻の後につく内田樹先生の解説がまたすばらしい。内田先生はいろんな本や論壇誌でたぶん同じことを繰り返して語っているのだけれど、ここにもその繰り返されてきた言葉があり、その言葉はなんど読んでも読み飽きることがない(今のところは)。

「いわば、ルフィは『「ONE PIECE」的世界の生物学的多様性の守護者』として働いています。仲間を絶対に死なせないというルフィの決意は、『友情に厚い』とか『人情がある』というレベルのものではありません。それは、『一人を失うことは、ほとんど世界を失うことに等しい』という原理的な確信にルフィが領されているからです」

「仲間になる者については、名前と肩書と官名あるいは懸賞金額を示して終わり、というわけにはゆかない。ルフィとの出会いに至った、それぞれの長い歴史を物語らなければならない。それはこれから先も、彼ら彼女らには一人ひとりまたそれぞれ固有の物語が続いてゆくということです。ルフィとの冒険の後も、彼らはそれぞれに別の物語を生き続ける。未来は『オープンエンド』なのです。  (中略)   かつては違うところにいた。今はここにいる。いずれまた違うところに去っていく。そのような流動性のうちにある。たぶんそれが『生きている共同体』だと作者は信じている」

武道家としてのルフィの強さを分析した下巻の解説はさらに面白く、定形的な増量法でごりごりやってるかぎり、強さには限界がある、という指摘に続くくだりは、静かに心に響いてくる。

「たいせつなもののために生きる人間は、自分の中に眠っているすべての資質を発現しようとします。『スタイル』とか『こだわり』とか『オレらしいやり方』というような小賢しいものはルフィにはありません。そんなものは選択肢を限定するだけだからです。この解放性こそが本作中でルフィを際だって爽快な登場人物たらしめている理由だと僕は思います。ゾロもサンジも能力は高いけれど、『勝つこと』にこだわりがある。それも『自分らしい勝ち方』にこだわりがある。冷たい言い方をすれば我執がある。ルフィのような、仲間を救うためには使えるものは何でも使う(使えるものなら『敵』でも使う)という思い切りのよさがありません。それが現実に、身体能力の開発というプログラムにおけるルフィの圧倒的なアドバンテージをもたらしている」

そこから「組織論」へとつなぐあたりは、内田先生の真骨頂。

「僕たちはふつう自分の強さや才能といったプラス要素を誇示すれば、人々の尊敬や愛情を獲得できると考えています。でも、ほんとうはそうではない。僕たちは『あなたなしでは生きてゆけない』という弱さと無能の宣言を通じてしか、ほんとうの意味での『仲間』とは出会うことはできない」

自立した強い人間の強さには、限界があるという話。その人が死の限界を超えてもなお踏みとどまることができる強さを発揮するには、「私はここで死ぬわけにはいかない」という異常な使命感が必要だ、と。

「自分をほんとうに強めたいと思うなら、限界を超えて強めたいと思うなら、『私は誰かの支援なしには生きられない』『私の支援なしには生きられない人がいる』という二重の拘束のうちに身を置く必要がある」

ほかにも、くりかえしくりかえし読みたい、バイブルのような(!)言葉が連なる。「人に頼る」のはメイワクをかけることであり恥ずかしいことと思って遠慮してきたフシがあったが、発想を改めたほうがよさそうだ、と促される。考えてみれば、「人に頼られる」のはとてもうれしいことで、それに応えようとするなかで、自分にあるとは思ってもいなかった力が発揮された経験は少なくない。ほかの人だって同じはず。

澁澤『快楽主義』のつづき。幸福は快楽とはまったく無関係である、と幸福の偶像破壊をしておいて、第二章では、快楽を阻むけちくさい思想をこっぱみじんにうちくだいていくのだが、なかでも痛快なのが、ソクラテスの「無知の知」を一蹴してしまった点。

「自分はばかだ、無知だなどと世間に向かって宣伝するのは、用心ぶかい、小ずるい態度といわねばなりません。また、自分を知ろうという努力にも、なにかけちくさいものを感じさせます。まるで自分の財布の中の銭勘定にばかり気をとられているようなあんばいです」

自分で自分の限界を知らないからこそ、冒険することができ、その結果、自分の限界を破り、自分の能力をどんどん広げていくことが可能なのだ、というのが澁澤快楽主義。

自分の限界をよく知って、そこから外へ出ていこうとせず、小さなことしかやらなくなることを「サナギ哲学」(=蝶になれないサナギ)と呼ぶあたり、的確。

「『おのれ自身を知れ。』という金言は、人間を委縮させ、中途半端な自己満足を与えるばかりで、未来への発展のモメント(契機)がない。未来の可能性や、新しい快楽の海に飛びこんでいこうという気持を、くじけさせてしまいます。のみならず、このサナギ哲学は、無知や謙遜をてらうという、妙ないやらしさにも通じます。これは傲慢の裏返された形です」

「無知の知」を自覚することや謙遜が美徳だと思い込まされていた身には、けっこう痛烈な偶像破壊である。

また、快楽主義と禁欲主義が、実は同じ着地点をめざしているという指摘にも、はっとさせられる。

「エピクロス哲学も、ストア哲学も、自然と一致して生きることをモットーとしていたのです。自然と調和していき、なにものにもわずらわされない平静な心の状態、すなわちアタラクシアに達することを求めていたのです」

ストア派(禁欲主義者)にとって、自然と一致するとは、外界に対して緊張をもって雄々しくめざめ、万事に耐えるということ。

エピクロス派(快楽主義者)にとって、自然と一致するとは、外界に対してリラックスして、動物的に、そのときそのときにもっとも楽な姿勢を選ぶということ。

いずれの主義者も、それを通して心の平静にいたろうとする点では同じであるのだ。と。

歴代のダンディたちは、禁欲すれすれの苦行(としか見えないもの)をとおして、究極の快楽主義を貫いてきたことにも思い至る。

快楽主義の巨人たちのエピソードも圧巻。「彼らはいずれも、高い知性と、洗練された美意識と、きっぱりした決断力と、エネルギッシュな行動力の持ち主でありました。この4つの条件がそろって、はじめて人間は翼を得たように、快楽主義的な宇宙の高みに舞い上がることができるのです」

真の快楽主義者でいくには、強い意志と不断の努力と強靭な心身の体力と無尽蔵のエネルギーが必要であるようだ。ちんまりとした「幸福」にとどまっていては見ることのできない宇宙の高みに導こうとしてくれる言葉の数々。

誰もがちんまりとサナギにおさまっている今だからこそ、エネルギーをチャージする力のある本だと思うが、逆に、「そんなタイヘンな思いしなくてもいい。ただ細々と生きてさえいられれば」という反応が多そうな気もする。それも納得できてしまうほど今の日本の現実が厳しくなっている。

三島由紀夫『夏子の冒険』(角川文庫)。三島作品で読んでいなかったのがまだあった!と発見して即購入@ヴィレッジバンガード。ここには「アレな人」(ヴィレッジバンガードのビニール包装に書いてあるママ)が多いというだけあって、ときどき変な拾いものがある。

ブルジョワのわがままお転婆お嬢様の夏子が、現実の男たちの退屈さに飽き飽きして北海道の修道院入りを決心し、その道中で「これは!」という青年に出会って冒険についていくものの、青年がほかの男たちと同じに凡庸になったところでやはり修道院入りを決意する、みたいな昭和初期ガーリッシュがほのぼのする小説。三島作品でなければ最後まで読んでなかったかもしれない(苦笑)習作っぽい作品。三島26歳の作品。とはいえ、ところどころに「らしい」表現が光っているのを発見しながら、リラックスして楽しめる。

本音をいえば、このテの「お転婆お嬢様」ヒロインのメンタリティも行動もよくわからないし、まったく共感が抱けない。男が勝手に妄想しているヒロイン像ではないかとも思ったりする。単に自分にその資質がないだけの話かもしれないが。

巻末の解説で、村上春樹の『羊をめぐる冒険』が、本書のパロディまたは書き換えであるという仮説が近年でてきていることを知る。

この本の近くに並べてあって、つい買ってしまったのが、『大猟奇』と澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』。前者は本気で気分が悪くなる描写ありすぎで、生理的にムリだった。こういうのと三島のガーリッシュ本が並んでいるあたり、「アレな人」マーケティングの成果か。

加藤和彦『エレガンスの流儀』(河出書房新社)。メンズファッション誌のスター、とりわけ日本人となると、かなり限られてくる。白洲次郎ブームがひとしきり続いたあと、近頃、あちこちで取り上げられているのが、加藤和彦氏。没してから、本が続々出版され、雑誌でも特集を組まれるようになっている。

この本も、生前の「GQ」の連載を、没後にまとめた本。これがかなり粋なエッセンス満載で、うなるところ多々。

エレガンスの模範とされていたウィンザー公をばっさり、のくだりには、驚きながらも感心。

「公を見ているとエレガントというものが逆説的に分かってくる。我慢がないのである。公は好きなように、王位を捨てたごとく思うがままに、多少屈折して服とつきあった。其れ故非常に目立った。しかし、目立ってはいけないのである」

ロンドンにおけるテーラーでの過ごし方をつづったくだりにも、「やられた!」感あり。テーラー=整形外科医説には、うなる。

Yohjiの服を語りつつ男の優しさを論じたあたりも、シブい。

「『優しく』は、するのではなく、なるのだと思う。自分自身に対して、強く、ハンブルになればなるほど、優しくなる。やせがまんでもなく、偽善でもなく、自棄でもなく、自身に謙虚であることが優しさを生む。ストイシズム的な苦楽超越ではなく、自然体の冷静な生きかたが好きである」

そういう感じが、Yohjiの服にはある、と。

JFKのスーツが、IVYの権化とされていたが、実はすべてサヴィル・ローのヘンリー・プール製であった、という指摘には、ええっ?!と。

「サヴィル・ローをしてナチュラル・ショルダーを作らせてしまい、着こなしとしてアメリカ・イースト・コーストの香りが漂っていたのは流石である。

こういう普通さ(本当は普通ではないが)が好きである。一見して出どころが分かるような着こなしは、お里が知れるというものである」

これほど「かっこよさの本質」や男の作法を知りつくした日本の男性がいたとは……。生前にお話を伺っておかなかったことを、心底惜しいと思わされた本。

島地勝彦さんの本三冊まとめ読み。『甘い生活』(講談社)、『乗り移り人生相談』(講談社)、『愛すべきあつかましさ』(小学館101新書)。購入とほぼ同時に、「メンズプレシャス」編集長からお話をいただいて、年明けに島地さんご本人にお会いすることになる。奇遇。

3冊にはそれぞれ、ほかのシマジ本で紹介されていた同じエピソードが出てくるが、それも「愛すべきあつかましさ」としてのご愛敬。熱いハートからあふれ出すようなヒューマン・エネルギー(毒気あり)に、気力のおすそ分けをいただく。遠慮していては、人生も仕事も切り開くことなどできない。相手の懐にあつかましく全力で飛び込んでいってこそ、運が開けてくる。ただしそのあつかまさは、繊細な想像力と真の思いやりに支えられていなくてはならない、ということが爆笑(ときに噴飯すれすれ)もののエピソードの数々から伝わってくる。

柴田練三郎、今東光、開高健がときどきあの世から降臨してくる『乗り移り人生相談』が抱腹モノのおもしろさだった。回答に関しては、「?!」あるいは「・・・・・・」と反応するしかないのも多々あったが、おそらくその反応はシマジ氏の計算済み。「ごもっとも。なんの異論もありません」と思わせられる模範回答ほど退屈なものはない。

「人間関係を築くうえでいちばんいけないのは遠慮だ。『好きだ』『尊敬している』『鐘愛している』という対象には絶対に遠慮しちゃいけない。恋愛と一緒だ」

「人生は冥土までの暇つぶし。だから極上の暇つぶしをしなくてはならない」

「女は男とつき合う以上、少しでもその男を磨いてやらねばならない。女がみんな、それを実行すれば、いい男がどんどん増えて、結局は女たちの利益につながる」

「『忙しい』を口癖にするやつに本当に優秀な人間はめったにいない」

「才能の花を咲かすには、その才能を発揮する戦場が必要であり、その戦場を用意してくれる人間が必要なんだ。実力さえあれば誰に媚びを売らずとも、必ず評価されると単純に考えるのは、俺にいわせれば傲慢だ」

「子どもをどこの幼稚園に入れるかで張り合っているような主婦からは文化は生まれない。また、官僚と政治家からも文化は生まれない。文化を生み出すのは男と女のスケベ光線だ。(中略)ただ男女の強烈なスケベ光線が交差するところに、小説も詩も音楽もオペラも映画も生まれるんだ」

「人生の勝利者というのは己のコンプレックスを武器に変えられた人間」

「恋情というのは男と女の戦争だ。匂わせ、謎をかけ、焦らし、相手の心を奪う偉大なゲームだよ。マネーゲームで十億円の金を得るより、俺はいい女との恋のゲームを取るね。こっちのほうが断然刺激的だ。金なんて身の丈だけあればいいんだよ」

「雑誌は新興宗教でなければいけない」

「編集会議の前に、信頼する編集部員を飲みに連れて行き、『この企画を会議に出せ』と言い含めておく。そいつが会議の場でアイディアを披露したら、大声で『おもしろい!お前は天才かもしれない』と叫ぶ。おもしろいも何も自分のアイディアだから、自分でも『よくいうよ』と思ったがね。そういう役割の人間を何人か決めておき、ほとんどの編集部員には『自分たちが作りたいものを作っている』と意識を持たせたんだ」

「集めた部下たちには愛情を注ぐ。功績はすべて部下に持っていかせ、責任は編集長が取る。いい加減な仕事の結果、失敗した場合は裁くが、一生懸命やった結果の失敗は徹底的にかばったね」

文学にどっぷり耽溺したことのある人ならではの、骨太な人生観がきらきら。文学が軽視されるようになって、日本人の精神の土壌がやせ細り、日本の社会もヒヨワになっていったような気がする。

湯山玲子『四十路越え!』(ワニブックス)。あまりの衝撃に、2日の間で3度読み返してしまった本。湯山さんのエネルギーにあやかるべく、味の素に「グリナ」を注文し、ヒグチに「スーパーグビル」を買いに行く。「ヘビの生血と生キモをバイカルという強いアルコールにとかしたもの」はさすがに日本ではムリみたいだが(笑)。

恋愛、セックス、健康、美容、ファッション、仕事、という女性誌に必ず登場する6大テーマそれぞれにつき、日本の女子にかけられている「呪い」(=チャレンジをさまたげるブレーキになっているワナ)をあばき、より充実した現実的果実を得るための戦術を説く。

これがもう、タブーなき戦術、というか従来の「常識」の枠外を行くもので、でもさもありなんというリアリティがあり、えー!?と笑いつつ、気持ちが自由になる。挑戦したい思いがあるのにカビくさい世間通念にしばられて身動きがとれなくなっていたり(アクセルとブレーキを両方ふんでる状態)、語られつくしたハウツーにふりまわされて可能性をつぶしていたりすることが、ずいぶんあったのだと痛く思い知らされる。

・「選ばれるためのほとんどの努力は無駄であり、選ばれなくっても結構!」

・「恋愛を因数分解せよ」(=デート、友情、同士愛、性欲、には無限の組み合わせのレイヤーがある。自分の欲望を冷静に見つめることから、男女間の良好な関係が生まれる)

・「彼女たち(=『私って恋愛体質なの』と公言する女性)はとにかく飲みに行っても話題は男と恋愛とセックス話。そして、男ゲットのための身体とファッション、美容に人生の莫大な時間をかけています。しかしながら、このタイプはあまり男性にモテない。本来ならば、ヤッてしまえば目的貫徹なので御の字のはずが、そこに彼女たちが考えるところの『恋愛手続き』を求めてくるので、男性は面倒くさくてしょうがない。恋愛体質作りに人生をささげているので、人間的な面白味も話題もあまりない。最近よく出くわすようになった、恋愛大歓迎の自称、肉食女に対する違和感もそれですね。いいオトナなのに性欲をセルフコントロールできず、それを恋愛の美名において全部、男性に過大要求する面の皮の厚さを私はどうしても感じてしまう」

・「鴨長明の呪い」=「彼は晩年、一丈四方の庵を建て、その突き詰めた空間から想像の翼を広げ豊かな精神生活を送ったのですが、その心は『現実のセックスなんて貧しくて結構、その代わりに思いっきりイメージの方は遊ばせてもらいまっせ!』というニッポン男子の性癖そのまんま」

「モテる女は『オモロイ女』」=「女性の魅力からセックスが切り離され、お手軽かつ小売りにされている今、なおかつ、男性にとって魅力的な女性とは、『一緒にいる時間が楽しい』か『尊敬』。ここに賭けるしかありません」

・「『褒められたい』動機は身の破滅」

・「感情で仕事をせよ」=「実際、感情が伴わないと仕事に迫力が出ないし、逆に感情が伴わない仕事は続けるのもつらいものです」

・「無理をせよ」=「面白いことには、たいてい無理をした時に出会える、と言っていい。無理をせず、安全圏で行動していると、もはや心はワクワクする機会を失い、非活動の坂を転げ落ちてしまう」

などなど、深く納得のことばが満載だったが、もっとも驚き、半信半疑ゆえに強烈に印象に残っているのが、誘う女の方法論。「その気にさせてから口説く」のではなく、「口説いてからその気にさせる」ほうが成功率が高いことを暗に説くのである。ノーだった場合、「ガラスのハートをゴルゴ13化せよ」とも(!) 

凡百の「女性の幸福」本を軽くふっとばすパンチの効いた一冊。

鹿島茂『「ワル姫さま」の系譜学 フランス王室を彩った女たち」(講談社)。445ページの大著。フランス史を動かしていたのは、宮廷に出入りする艶女と、その女たちをめぐる男たちの下世話な欲望だった!という週刊新潮風視点(?)で描かれる、ワル姫さまに焦点を当てたフランス史のエピソードの数々。

色恋をめぐる女たちのあの手この手の策略が、政治に直結して歴史を変えてしまう、という事実の驚愕の面白さに加え、鹿島先生のサービス精神たっぷりの、おやぢ目線入りの分析のおかしさが満載。

カトリーヌ・ド・メディシスの使った「くノ一軍団」ことエスカドロン・ヴォラン(遊撃騎兵隊)と呼ばれた美女軍団のエピソードが強く印象に残る。男を籠絡するためのありとあらゆる手練手管を仕込まれた最高の美女たちの軍団である。え?まさか大の男がひっかかるのか?といぶかったが、敵の大将がほんとにへなへなと落ちるのだ。

歴史を動かしてきたのは、政策なんぞよりもむしろ、宮廷内のベッドなのだなあと思わせられてしまうほどの、圧倒的な事実の迫力。

美女たちの名前がややこしくて覚えづらく、混同しがちなこともままあったが、名前を現代の任意の名前に置き換えると、あらゆる恋愛のパターンや変態の原型がたちあらわれることにも気づかされる。というか、現代「変態」に分類されることもある行動も、すでに数百年前から連綿と続いてきたフツーのことだということがわかる……。

痴情のもつれから読み解くイギリス史、っていうのもありだろう。読んでみたい。

◇「オーケストラ!」DVDで。BUNKAMURAで上映していたとき、のこのこと行ったら満席だった映画。DVDになってやっと観て、人気のほどを納得。やはりこれは劇場で見ておくべきだった。

ボリショイの元天才指揮者の、30年後の痛快なリベンジというか、そこで断ち切られてしまったさまざまな人生の総まとめ。やや野暮なロシアっぽいどたばたも適度なスパイスになって、ラストのチャイコフスキーのバイオリン協奏曲のステージが、涙なしには見られない。浄化されるような感動を用意してくれる映画に、久々に出会った。

◇みうらじゅん×高見沢俊彦×リリー・フランキー『ボクらの時代 ロングヘアーという生き方』(扶桑社)。フジテレビで放映されたトーク番組の、書籍化版。

なにか建設的なことを言ったり意義のある議論をしていたりということはまったくないのだが、3人のなかに流れる空気感、無意味な(でもオリジナルな)ことばのやりとりがばかばかしくておかしく、読んでいる間、口角が上がっている(笑)。字も大きいので30分ぐらいで読み終えられる。トークのリズムそのものを楽しんでいればいい本だけど、教えられたことも多々。

仏像って置き方が完璧にロックバンド、という話。「(みうら)完璧に須弥壇がステージで四天王が警備員で文科系が歌うっていう。菩薩がベースとギターでボーカルが大日如来でっていう。あのへんが、『そうかあ』みたいなねえ、妙に納得したことがありましたね。あのステージングを、みんな結局はまねしているわけですからね」

草食系男子というのが、想像上の生き物で、実際には「いもしない」、という話も。「(リリー)草食系なんて言ってるのは、女の人が『この人私に手ぇ出さなかったから草食系なんだわ』で済まそうとしてるだけで。たぶんその女の人に魅力がなかっただけの話なのに、フラれた理由を『草食なんだー』にしてるんですよ」

人は怖いものに名前をつけて恐怖をやわらげる、とか、変態は行儀がよくてやさしい、とか、天才は親がケアしてあげないといけない、とか、童貞はこじらすと不治の病になる、とか、ロングヘアーな方々ならではの真実(?)の指摘に、笑いつつ納得する。

車谷長吉『妖談』(文藝春秋)。あさましい「業」に憑かれた人々を描く、掌編小説が34篇ほど。

金銭欲、復讐欲、性欲、所有欲、ただの執着、なんだかわけがわからないけどからまりついてくる意味不明の欲、そんなこんなのべっとりとした業だか欲望だかに、突き動かされるままに動物的に動いている人々を、淡々とさらさらと描く掌編小説たち。作者本人のノンフィクションなんだか、フィクションなんだか、境界があいまいなあたりも、功を奏している。読みながら、ビミョウにうしろめたい。そんな思いを読者に抱かせるのも、車谷さんの芸のうち。

「作家になることは、人の顰蹙を買うことだ、とは気づいていなかったのである。気づいたときは、もう遅かった。人の顰蹙を買わないように、という配慮をして原稿を書くと、かならず没原稿になる。出版社の編集者は、自分は人の顰蹙を買いたくはないが、書き手には人の顰蹙を買うような原稿を書くように要求してくる。そうじゃないと、本は売れないのである。本が売れなければ、会社は潰れ、自分は給料をもらえなくなる。読者は人の顰蹙を買うような文章を、自宅でこっそり読みたいのである。つまり、人間世界に救いはないのである」。

中の一篇、「まさか」よりの引用。

「フロク」をつけなきゃ本も雑誌も売れないという時代。顰蹙を買えば、本は売れるが、同時にバッシングも激しく受ける。それでも書く覚悟があるか。売るために、多くのものを犠牲にして、というか、捨て去って、腹をくくって前進する書き手の心中はいかほどだろう。

中村うさぎ+マツコ・デラックス『うさぎとマツコの往復書簡』(毎日新聞社)。

「幸せを感じるかどうかは、自分の心次第」みたいな最近のゆる~い自己欺瞞ブームにきびしい冷や水を浴びせる。自分のエゴとぎりぎりに向き合って闘っている「異端者」ならではの赤裸々なことば。イタイ、として片づけるのはたぶん時流にあってるし、キライ、で無視するのもラクだけど、それだけでは終われないひっかかりが残る。

・うさぎ「買い物やらホストやらにハマっていた時期、私の毎日はほぼ地獄だったけど、その地獄の最中に天にも昇る恍惚感があった事も確かなの。天国って、地獄と対極の場所にあると思ってたけど、違ったわ。天国は、地獄の真ん中にあったのよ!」

「で、五十歳にしてようやく地獄から這い出たと思ったら、そこには天国なんかなくて、砂漠が広がってるだけだった。愕然としながら振り返ってみると、さっき命からがら抜け出してきた煮えたぎる地獄のマグマの真ん中に、キラキラと輝く天国があるのを見つけた」

地獄か、砂漠かの二者択一。チャーチルが「地獄を経験しているなら、そのまま突き進め」と言ったことを、ふと連想する。チャーチルも退屈が死ぬほどきらいだった人だ。

巻末の対談、「みんな違ってて、OK」「みんな平等」「それぞれが世界にひとつの花」みたいな現在の風潮に、疑問をつきつける。

・うさぎ「SMが象徴的だけど、どこか対等感を排除したところにエロティシズムというか秘密の花が咲くわけじゃない。エロってのは個人的、私的な部分だから、そこにまで対等とか平等とか他人が介入してくる社会はすごく気持ち悪い」

・うさぎ「『ゲイだ』『オカマだ』という差別はよくないけど、その差別と闘った原動力がゲイ文化を生んだと思う。今は普通に会社や学校でカミングアウトする人が増えて、周囲も受け入れて理想に近づいてはいるけど、カルチャーは衰退した。コンプレックスとか被害者意識ゆえに結束したパワーが毒々しい花を咲かせるっていうか、文化ってそういうものだと思う。『みんな違ってていい』というのは社会としては理想でも、文化としては沈んでいくんだろうなと思わざるを得ない」

苦いことばが、薬のようにじわっと回ってくる感じ。つるんとしたやさしいパステルカラーの幸福論に毒されている人にとっては、脳内バランスを正しく保つための良薬になりそう(ただし分量に注意)。

玉村豊男『食卓は学校である』(集英社新書)。食卓からはじまる比較文化論、現代社会批評、人生論。玉村先生が、朝礼にはじまり、1時間目から6時間目まで、やさしい口調で講義するようなトーンで書かれている。読みやすくて、学ぶところ多。以下、とくに心に残った表現を引用。

・「優しい甘さをたっぷり与えられてすくすくと育ち、甘酸っぱい青春を過ごした青年は、辛酸をなめて大人になり、人生というものを理解します。そして、ほろ苦い大人の恋と挫折を味わって、苦味走ったいい男、になるのです」

・(郷土食は、思い出や重苦しい過去やしがらみをひきずり、受け容れる者にとっては障害になる、という話につづき、)「世界中から移民が集まる『自由の国』アメリカは、ヨーロッパや、アジアの、古い歴史をもった国々が何百年も何千年もかけて育んできた文化や伝統を、なんでも分け隔てなく受け容れて吸収し、こんどはそれを、アメリカ式の、軽い、薄い、万人向けの味に調え直して世界に再輸出するのです。

アメリカという濾過器によって濾過された食べ物は、ローカル色を失ったかわりにグローバルな中立性を獲得し、誰もが気軽に受け取れるものに変身します。

ピザも、ハンバーガーも、ホットドッグも、アメリカ人のライフスタイルが憧れとされていた時代に、世界中に拡散しました」

・「なにもそこまで考えなくてもいいのに、と思うほど、いったんできあがったものをさらにとことんいじくって、より細密なものに、より洗練されたものに、より使い勝手のよいものにと、不必要なほどの改良を加えるのが日本人の特性で、現代のスシは、そうやっていわゆる『ガラパゴス化』してきた結果として、生まれたものなのです」

・「アメリカが一個の巨大な濾過器であるとすれば、日本は新しい小さな研磨機である、といえるかもしれません。世界中からなんでも受け容れて、それを一所懸命に磨き上げ、もとのかたちがわからなくなるほどツルツルにして、誰もがカワイイと思えるものに変えてしまう。スシに続いて、いま世界から注目されている日本の食は、弁当、洋食、ラーメン……どれも、日本がガラパゴス的な研磨作業で日本化したものばかりです」

・「『茶断ち』とか、『酒断ち』とか、願い事が成就するまでは好きなものを断つ、といってみずからに禁忌を課したことも昔はありました。好きなものが食べられないのは辛いことですが、願いがかなって晴れてそれを口にしたときには、ただの水さえ無上の甘露と感じられたことでしょう。もともとの動機がなんであるにせよ、食の禁忌というものはある意味で、平板に流れる日常を刺激して生活にメリハリをつけるひとつの仕掛けとして、これからも活用できるかもしれません」

・「日本の家族が変質したのは、電子レンジや電子ジャーが普及するようになってからのことです。そして、いわゆるホカホカ弁当とコンビニが出現して以来、日本の家族は崩壊の危機に瀕しています」

・「かつては、ひとりだけ温かいごはんを食べることはできなかった。お父さんのためにだけわざわざ大きな釜でごはんを炊くことはあったかもしれないが、家族のそれぞれが好きな時間に自分だけ温かいごはんを食べることは、『一人分の温かいごはんが買える』という社会的なインフラが整わなければ実現できなかったことなのです」

・「日本人は、粘り気の強い、たがいによくくっつく丸っこい短粒米を、炊いてすぐ、温かいうちに食べるのをよしとする規範を掲げることで、ともすればバラバラになりがちな家族の絆を、『ごはんですよ』の一言で結束させ、そのネバネバとした粘着力で、家族という集団から個人が離れていくのを繋ぎ止めようとしたのではないでしょうか」

・「私は、ヨーロッパでは、パン屋さんの独立によって、個人の自我が確立したのではないかと考えています。近代の個人主義は、自分だけの主食をいつでも好きなときに獲得できるようになった日から、はじまったのだと」

・(フランス語のCONVIVALITEについて解説につづき、)「つまり、ともに食べることは、ともに生きることである。ともに生きるということは、すなわち食卓をともにして、食べながら、飲みながら、語り合いながら、おたがいにいまこの同時代に生きているという幸福をたしかめることである……(中略)私は、一期一会、と意訳してもよいのではないかと思っています」

・「もう一度、いま食卓の上にある食べものや飲みものと、いまともに食卓を囲んでいる人の顔をよく眺めながら、歴史上のある一瞬、地球上のある一点で、これらのすべてが奇跡のように出会うという稀な出来事に自分は立ち会っているのだと思えば、日常のありふれた食卓の風景が、まったく違ったものに見えてくるのではないでしょうか」

一緒にごはんを食べる=ともに生きる=ともに幸福をたしかめあう、というコンヴィヴァリテの概念が、いたく染み入る感じ。一緒にご飯を食べたくてもなかなか時間が合わない、とか言っているうちに、関係は崩壊したり消滅したりしていくのだ……。

岡田温司「グランドツアー 18世紀イタリアへの旅」(岩波新書)。グランドツアーに関するイギリス側の事情は読んだことがあったが、この本ではおもにイタリアの話が紹介される。実際に貴族の子弟が訪れた、18世紀当時のイタリアの事情が、旅しているように具体的に描かれる。「人」「自然」「遺跡」「美術」という章立て。

「人」の章で発見あり。かのイギリスの「マカロニ」が、イタリアの「チチスベイ」や「カストラート」に象徴される、あやしいジェンダーに影響を受けている、と。なるほど。ファッション史上ではたんに「イタリアかぶれの軽薄な洒落者」と位置づけされていることが多い「マカロニ」だが。チチスベイやカストラートの文化にまで視野を広げると、見え方もちがってくる。

「男が男らしさを失ってしまうのは、イタリアが『チチスベイ』と『カストラート』の温床だからであり、反対に女が強くなるのは、同じ国が『アマゾネス』たちの活躍する国だからである。イギリス紳士の卵である若者にとって教育の最後の仕上げとなるグランドツアーが、あろうことか反対に、その彼らを堕落させてしまうとは。イタリアにかこつけたこのようなステレオタイプ化にはまた、同性愛にたいするイギリス上流社会の強迫観念が投影されているように思われる」

騎士道とチチスベイとカストラートとアマゾネスとジェンダーレスとジェントルマンと同性愛。マカロニの背景にこれだけの文化的事情を語ることができるとは。

「自然」の章で紹介される、18世紀のピクチャレスクと崇高と廃墟&絵画との関係も、具体的でわかりやすかった。ぎっしりと18世紀のヨーロッパ文化が学べる充実した本。

ただ、ときどき出てくる「周知のように」という表現に小さなひっかかりを覚える。「周知のように」いう前置きで語られる読者対象は、ある程度、学問的素養のある層なのだ。「周知のように」と言われて「知らねえよ!」と心の中で叫ばずにはいられない読者には、ハードルが高く感じられるのではないか。

◇「サライ」記事のためロングホーズの取材@新宿伊勢丹。プレスルームでバイヤーの方にお話を聞いたあと、メンズ館靴下売り場でロングホーズの存在感やメンズ靴下の現状などを確認。しばしミッションを忘れて、かわいくポップな靴下の数々にも見とれる。トルコ製の遊び心いっぱいの柄靴下など、思わず笑みがもれてくる。誰が買うんだろう?! さすがは伊勢丹メンズ、圧巻の品揃え。

同フロアの靴売り場も、愛好家が通う売り場だけあって、ぴーんと清澄なオーラが漂っている。販売員の表情や姿勢が違う。並みならぬ意気込みとプライドが感じられる。ちょっとこわいくらい。手頃な価格の靴も、超高級品も、カジュアルシューズも、一足一足、手をぬかず丁寧に陳列されている。靴に対する愛とプロ意識が感じられて、気持ちがいい。

◇ヘンリー・ペトロフスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか』(平凡社ライブラリー)。新装復刊させた平凡社に心から敬意を表したい。大昔に一度読んでいたが、モノについても書いたり調べたりするようになった今の方が、この本の面白さを味わえる気がする。

・17世紀、イギリスにフォークをもちこんだコリヤットは「フルキフェル」と呼ばれた。「文字通りに解せば、『フォークを持つ人』の意味だが、『極悪人』つまり絞首刑に値する人間をさす言葉である」

・「われわれがすでに手にしているモノ―それが何であれーに内在する問題を見きわめることから発明が始まる」

・ポストイット・ノートを発明した「3M」は、「ミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチャリング」という会社。1902年設立で、金剛砂を採掘する会社だった。砥石車→紙やすりの製造を細々としていた。

1925年、ツートンカラーの自動車が人気。自動車をツートンカラーに塗り分けるにあたり、はじめにぬった部分を紙かなにかでマスキングする必要があった。でも接着剤が強いと、紙と一緒にペンキもはがれてしまう。つまり、「粘着力がさほど強くない接着剤のついたテープ」が求められた。試行錯誤をくりかえしたのち、テープができた。

ところが最初は溶剤が少なかったために、紙の重さにまけてテープがはがれる。癇癪を起した塗装工が、「このテープを、お前の上司のスコッチ(スコットランド人&けちけち野郎)のところに持ち帰って、もっとたっぷり接着剤をつけるように言えや」と。これがタータンチェックの「スコッチ」というテープが生まれるようになったきっかけ。

「会社側が接着剤をけちったからではなく、むしろ、消費者がそのテープを使って数多くの家庭用品を経済的に修理できるからそう命名されたのだろう」

1974年、3Mの化学技術者、アート・フライは、日曜日には教会の聖歌隊の一員として讃美歌を歌っていたのだが、二度めの礼拝のときに、しばしば讃美歌集にはさんでおいた紙片がもとの位置から抜け落ちて困惑するはめになった。で、自社の弱い接着剤のついたしおりを試す。一年半の試行錯誤の末、ポストイットの原型を完成。

→紙やすりに使う金剛砂を掘っていた会社が、スコッチテープやポストイットを開発するにいたった過程。けなされたり、バッシングを受けたり、不便な思いをしたりしながら、それを受け止めて、ネーミングに使ったり新しいものを生む契機にしたりする作り手の姿勢がすばらしい。わくわくする。

ほかにもクリップ、ジッパー、マクドナルドの包装などなど、身近なもののデザインが秘める奥深い歴史。

小笠原敬承斎先生『誰も教えてくれない男の礼儀作法』(光文社新書)。小笠原流礼法の解説。第一章の「男のこころ」は、武士道における心のあり方を説いているが、ジェントルマン道にも通じる点があり、興味深く読み込む。男性向けとされているが、男と同じような社会性を求められる現代の女にも通じる話である。以下、暗記したいと思ったセンテンス。

・「前きらめきを慎む」-自分の能力や個性を人前で得意げに見せない。

・「無躾は目に立たぬかは躾とて目に立つならばそれも無躾」(作法の知識があるのだ、とひけらかすことは、作法を知らないことと同じく、非礼に通じる)

・(徳川家康 遺訓)「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時をおもいだすべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身にいたる。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり」

「義侠」とは、心と身を修める忍耐強さのこと。

礼法の目的とは、こころを練磨すること。「こころが平穏で落ち着き研ぎすまされている人と出会ったとき、自分の本質を見抜かれてしまうように思うことがある。自分の言動に後ろめたさがある人にとっては、相手のこころの落ち着きが脅威に感じられることもあるのではないかと思う」

名越先生の本の教えを連想する。武士たちが身につけ、実践してきた礼法というのは、ウツにならず、心を意志的に強くするための修行法のひとつでもあったのではないか? 礼法で心身を修めることができていれば、ウツになりにくいのではないか、と感じる。

これから社会に出ていく若い人には、甘やかすのではなく、学校でも(もちろん家庭でも)、きっちりと礼法の基本を教えるべきではないのか。それによって心のコントロールを学ぶことができれば、社会でのサバイバル力にもつながるはず。

◇リリー・フランキー二冊。まずは『エコラム』(マガジンハウス)。分厚い。久々にたっぷり、リリーワールドを堪能。下ネタばっかりといってもいいくらいなのだが、リリーさんが正直なので読後感が不思議にさわやか。笑いをこらえるのに必死な、しょうもなすぎるバカ話のなかに、鋭い真実があるのがいい。

この本の白眉は、「男と女の妄想力」(前篇・後篇)。思い違いをしていたり、メディアのつくった幻想にまみれすぎていたりする男女のみなさんには必読でしょう(賛否はかなーりありそうだが)。

下ネタも出しっぱなしではなく、きちんと(時々)収束させているところに、独特の知性が光っている。

「歴史上の哲学者などが、愛や平和や人間について考え、哲学する時は何か統一した答えを探し出そうと話し合ったものだが、ことエロに関しては、その時代から、完全に個人の見解なのである」

で、リリー氏が感じるエロとして、「月給よりも、時給の方がエロい」というセンテンスがあったりするのである。超個人的。

◇もう一冊は、『リリー・フランキーの人生相談』(集英社)。週プレの連載コラムの単行本化版。リリーさんが実際に相談者に会って、話を聞く。どうしようもないほどくだならい、脱力レベルの相談が多いのだが、それに対するリリーさんのリアクションの言葉がなんともおかしいので、虚しくならずに読める。

「実際に話していくうちに、その人物の最大の悩みは、アンケート用紙に書かれていることではないことに気付いていく」という指摘にはっとさせられる。「人は、人に相談する時、相談用の相談を用意して紙に書いてくる」。

堀江貴史氏と田代まさし氏の相談も収録されている。相手に遠慮なく(といってもリリーさんなりの繊細な気配りはあるのだが)、ずばずば言ってやっているのが気持ちいいし、なんともいえぬおかしさが生まれている。私も相談に乗ってほしいくらい。

◇名越康文先生二冊。まず『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』(角川SSC新書)。自殺寸前、ウツ(への助走期間)にある人々にとっては処方箋とも読める本。地獄は外界の現実の風景ではなく、頭というか心の中で自分がどんどん生み出しているネガティブ思考が渦巻いているにすぎない光景なのだから、頭の中の地獄を追い払うためには、「いま・ここ」だけに集中しろ、という教え。多くの宗教本、哲学書、自己啓発系の本が書いていることと通底する内容も多かったが、それらを心理学の表現で書くとこうなる、と。とくに覚えておきたいと思った箇所を以下に引用。

・「現実的に起こっている事態は同じでも、つないだジャックによってまったく違う風景に見えてくる。極端に言うと、ジャックのつなぎ方次第で、外界の物事は天国にも地獄にも見えてしまうわけです」

・「ストレスから逃れるための本当に効果的な方法は、おそらく集中力を高める訓練以外にはないような気がします」

・「うつの人はものすごくアクセルを踏み込んでいる。ところが、同時にブレーキも思いっきり踏んでいる。だから、動けないままエネルギーはどんどん消費される」「(アクセルとブレーキを同時に踏んでいるので)エンジンがヒートアップして、車自体を、つまり自分自身を傷つけているかもしれない」

・「自分がモヤモヤした気分に覆われていると思った時、『とりあえず目の前のことにちゃんと取り組もう』と思い直します。そうやって、自分がブレーキを踏んでいることに気づいただけでその瞬間に、かなりブレーキが緩まります」

・「人間は空想に殺される」「外的な事実ではなく、自分自身で内的に生産しているものに翻弄され続けていることが、実は人間の精神活動の根本にある」

・「具体的なひとつの事件が、ネガティブな思考の引き金になることはあっても、死に至る病全体の原因になることはありえない」(中略)「根本的で恐ろしいのは、心の中にとめどもなく作りだされる、もしかしたら妄想と呼んでいいくらいの、ネガティブな思考の連続のほうなのだと思うんです」

・「十分な観察力と集中力があったら、ネガティブな巨大勢力を自分で止めることは可能」(中略)「自分を苛む原因は外側に渦巻いているのだと決めつけないで、『すべては自分の心の中で起こっているのだ』と、とりあえずでもいいから理解すること。その認識を可能にするのが、この場合の観察力」

・「自分の執着を少し自分から引き離して、最良の状態に自分の心をセルフコントロールできる力を持つことが、本当の意志」

・「『これもまた過ぎ去る』は、言わば『諸行無常』を肯定的なニュアンスで捉えたような言葉です。つまり、『幸福なこともまた過ぎ去るもの」である。だけど一方、『苦しみもまた、同じように過ぎ去るもの』である」

・「ルーティンワークの仕事の中身を問わないで漫然とやっている人と、たとえルーティンワークでも中身を実感して一日一日を二度と起こらない一回性の経験というふうに、ものの本質を見据えてやっている人との間では、実力が天と地の差ぐらい違ってくる」

・「本当にクリエイティブな人というのは、『こだわり』という自分の価値観や美学を押し付ける人ではなくて、どんなミッションを与えられても独自の工夫でこなすことができる人」

・「地道さを心がけている人の方が、近い将来の『賭け』に勝つ確率が高くなる。その小さな勝利を、さらに地道につなげていくことで、ようやく僕たちは初めて自分の夢や理想に近づけるのではないでしょうか」

・「絶望と絶望的って違うんじゃないでしょうか。絶望という状態は『すべての望みが断たれた』ということですから、もう何も余計なことは考えないという、ある種、透明な境地に至っているわけですよね。でも、絶望的という状態は、いわば『生焼けの生き地獄』です」

・「絶望的というのは、まだどこかに希望を持っているんですよ。(中略)希望がある限り、ずっと苦しむわけです。これは不思議なことでもあるんです。希望が人の心を苛むわけですから。でもこの希望は、いわば勇気や開き直りを伴わない希望なわけですね。だから実は、この希望は偽の希望であり、むしろ精神のトラップなんです。別の言い方で言うと、まさにこれこそが『迷い』というやつなんですね」

脳内ジャックを切り替えるための観察力と意志力が少しでも発揮できるのは、いくばくか体力が残っている間だろう、とも思う。体力まで落ちこむと、すべてがどうでもよくなってしまう。ここ半月ほど、起こってほしくはなかったできごとが立て続けに襲ってきて、笑えない→字を書く気も起きない→声を出す気もしない→ものを食べる気がしない、という崖っぷちに来ていた。まずは食べないといかんな。

◇名越先生もう一冊。『女はギャップ』(扶桑社)。美貌でマナーも完璧な女がモテない理由と、壁を低くするための助言。まえがきから鋭い。

「人に迷惑をかけない。スマートにあっさり。そんなことを気にするのであれば、いっそ、つきあわなければよいのではないでしょうか。(中略)人と会って疲れたり、頭にきたり、絶望したりしながら、楽しさや希望や夢を見つけていくことが、つきあうということです」

「男は『臆病と気遣い』を、鎧に生きています。この鎧をうまくはがす女性たちがモテるだけの話です」

本文で助言されていることを実行するのは、はっきりいって、かなり難しいと感じる(易しく書いてはあるが)。名越先生が助言する具体的なことを難なくできる人は、やはり天性のモテ資質を備えた人か。

◇現存する唯一の「白洲次郎」秘蔵映像DVD、という付録にひかれて「新潮45」購入。DVDはなんだかもったいないくてこわくてまだ見る気になれない。本誌には、これに合わせて、知られざる「白洲次郎」特集。「憲法調査会」の発言の全貌あり、娘の牧山桂子さんによる「父の思い出」のエッセイあり。

桂子さんのエッセイでは、「マッカーサーを叱りつけた」という伝説に関し、そんなことはなくてやはりあれは「伝説」にすぎないらしいことがわかる。

旧朝香宮邸(=庭園美術館)に部屋があり、ほとんど家には帰っていなかった、ということも明かされる。

「父は日本人と外国人を区別することはありませんでした。上等と下等な人間の区別ができたということだと思います」

「白洲家は、父母を含め5人家族だったのですが、家族というものはこの世の仮の姿。実際は、ひとりひとりが独立した人格で、夫婦と言っても別個の存在だった。そこが、よその家庭とは違っていたところで、家族の集合写真を撮ったり、正月に家族が集まったりすることなどありませんでした。現に、白洲家には、家族写真など一枚もないのです」

◇同誌、巻頭の曽野綾子のエッセイ「ドグドグ・グダグダ」も思わぬ収穫。

do-gooder(空想的社会改良家)=独善的な慈善家心理、を批判した最後のあたり。

「最近のマスコミや組織で働く人々の日本語が、非常に防御的な姿勢になっていることを感じることがある。つまり悪人だととられないように、できれば人道的人間であることを示すことができるように、必死なのである」

悪い人だと思われないよう、ドウ・グッダー的な逃げの文章を書くことで、文章が生気を失い、グダグダになる、と。

共感。自戒をこめて。

◇朝日新聞、19日付「世襲の作法」、林家正蔵の「『芸は一代』継げませんから」。3回ぐらい繰り返して読んでしまう。「芸は一代」。息子は父が、父は祖父が、基準になってしまう。それゆえ苦しさがいっそう重い。苦しんだ末に自分の芸、形を、一代で編み出していくしかない、という話。

堀井憲一郎『江戸の気分』(講談社現代新書)読み終える。落語を通して、江戸のリアルな気分のなかにひたって、江戸の庶民になった感覚を想像してみよう、という趣旨の本。

肩肘はった分析を試みる評論家の態度じゃないのが、いい。ゆるい「江戸内部の人」感覚でおしゃべりをするような感じで書かれているが、ゆるさを正しく表現するのも、筆力が要ることである。以下、なかば衝撃とともに知ったこと(の一部)。

・医者は患者を治さない―「落語では『病い』を『引き受ける』という。(中略)病いは自分の内にあると考えているわけで、そのへんは、江戸の人の方が長けている。(中略)近代人は、病気をすべて『外のもの』として捉えるのがいけないやね。外のものがやってきて、自分のからだを侵食していくから、これをまた外に排除してくれ、医者だったら排除できるだろう、と考えているのは、近代人の異常性だとおもう。(中略)よくわからない身体の不都合は、『引き受け』ないとしかたがないのだ」

・武士とは武装軍人である―「武士はそう簡単に刀を抜けない。抜いたら最後、相手を倒さねばならず、いろいろと面倒である。(中略)となると、乱暴な町人側から見れば、武士にいくら悪口雑言を浴びせても、相手が抜かなかったらセーフ、ということになる」「武器をいつも携帯している軍人である武士がそこにいれば、身分の差がありありとわかる。武装軍人は、身体的に別存在である。関わりたくない。まったく別のエリアで生きているし、別のエリアで生きていたいとふつうにおもう。身分差とはそういうものである。頭でわかるものではない。身分の差はカラダでわかる。見た目でわかる」

・なぜ花見をやるのか―「冬が終わった確認のためである。(中略)飲んで眠ってしまっても凍死しない季節の到来、それが桜の開花なのである」

・蚊帳は結界―「蚊が多すぎて、少々殺したところで、事態が変わらない。(中略)殲滅するという無駄なことに労力をかけるよりは、自分たちの身の回りに蚊を近寄らせなければいい、という考えです。自らの非力を知って、自然の中で被害を小さくする方法を考えるってことですね」

・手厳しい長屋―「三月裏は、家の形が菱餅みたいにひしゃげている裏長屋。八月裏は年がら年中、裸で暮らしている裏長屋。長屋ぜんたいで釜が一つしかない釜長屋。長屋四十軒のうち三十八軒は冬の寒いおりに戸を叩き割って燃やしてしまっているのが戸なし長屋」「ついこのあいだまでは、わが邦には、本物の貧乏がそこかしこにあった。誰もが、いくつかの角を曲がると、死と貧しさを一緒に抱えてるエリアがあることを知っていた」「落語を聞いていると、おそろしく貧しい人たちも、バイタリティに溢れて生きていることがわかる」

・無尽―「十人で集まり、三万円ずつ出す。三十万円集まる。それを一人がもらう。その会合を十回続ける。(中略)あまり負担をかけずに、共同体内でまとまったお金を用意するためのシステムだった」

・金がなくても生きていける―「それを昭和の後半から末期にかけて、みんなで懸命に押し潰していった。(中略)社会全体が『金』でものごとを測ると決めたのだから、社会の端まで徹底的にそれで染めていったばかりである。ひとつ価値を社会の隅々まで広めないと気が済まないのは、うちの国の特徴であり、病気であり、また強みでもある」

・「顔」がお金の代わり―「同じところに住み続けているのが信用である。逃げない、ということだ。(中略)だから身の回りにあるもので生活する。豆腐は町内で買う。(中略)いま流行りの『お取り寄せ』というのは、つまり地域社会の破壊ですね。我欲で小さいコミュニティをどんどん潰していきます。お取り寄せの多くは、その土地に関する体験も経験もないまま、情報によって取り寄せて消費するという脳内先行社会によって支えられている」

・死なないまじないとしての食事―「朝は、あたたかいご飯と漬物。昼は、あたかいご飯と漬物におかず一品。番は、冷や飯に、漬物。これが日常食である。落語のなかで、夜によく茶漬けを食べてるシーンがあるのだが、それは夜のご飯が冷や飯だからだ」「食物を、カラダにいいという物語性の中で語ってくれなくていいです。死なないまじないの限度が知りたい」

東海道ラインが機能しなくなっても、東京から大阪まで歩くことを想像できる、という堀井さんの落語的感覚が描きだす江戸ワールドにひたっていると、ほどよい塩梅に力が抜けてくる。「最低限、死なない限度」を淡々と保つ心の持ち方のヒントを教わったような読後感。

湊かなえ『夜行観覧車』(双葉社)。高級住宅地でのエリート医師家庭内殺人事件とその近隣の家庭内暴力、おせっかいおばさんの干渉などがぐるぐるとからみあってあぶりだされる人間の心の暗部。凄惨な状況のはずなんだけど、フィクションとして読んでて爽快。『告白』級のアナーキーを期待したが、こっちはちょっと救いと希望がさして終わる。

なぜ観覧車なのか、と思っていたら、「一周まわって降りたときには、同じ景色が少し変わって見えるんじゃないかしら」という一文にいきあたる。なるほど。

ぐるぐるぐると観覧車が上っては降りるように、「明日は我が身」になるかもしれないことへの警告も感じる。「こうやって他人を貶めているうちにも、今度は自分が加害者やその身内になる可能性があることを、なぜ考えないのだろう」。妻が夫を殺した高橋家や母が娘を殺しかけた遠藤家の人々は、多くの日本人がそうであるように、「善良」だったり「小心」だったり幸せになりたかったりする、ごくふつうの人なのだ。

荒俣宏『図像探偵 眼で解く推理博覧会』(光文社 知恵の森文庫)読み終える。1992年初版なので昔ぜったいに読んでいるはずなのだが、すっかり忘れている。でも内容は今なお新鮮である。

いつもながら、いったいどこから集めてきたのか?という奇怪な図と、奇想天外な解釈で、アラマタワールドが全開。とりわけ興味深く感じたことをメモ。

☆イギリスのCGアーチスト、ウィリアム・レイザムの<形の征服>というコンセプト。「どんなに高度で複雑な図像も、実は四角とか三角とかいったごく単純な<原始形>をいじりまわした結果にすぎない」

「操作というのは、突き出させたり、たまわせたり、強調したり、つなげたり、ひねったり、叩き伸ばしたり、の六種類である。こうすると、形はどんどん変わっていく」

「立方体でも、球でも、これを無限に”彫刻”していくと、どんなに摩訶不思議な図像を作っていくように見えても、それはやがて私たちがよく知っているいくつかのイメージ・タイプにまとまってしまう。そのタイプとは、『建築物のように構造的な形』、『ケルト装飾のように幾何学的な形』、『有機体のようにうねうねとした形』、そして『中世ゴシック風のとげとげした形』」。

「私たちが哲学だ趣味だ思潮だといって極力神秘めかしてきた美術史上の様式区分は、すべて、形に対して加える”彫刻”すなわち操作のパターン集として解析できるのである」

→CGの時代になってもなお、形がすべて古典、バロック、ロマン、ゴシック、といった美術史用語に置き換えられる、という点に、なるほど、と。

☆18世紀半ばに描かれた蛇は、立ち歩きしている。這ってない。「蠕動」に近い動き方をする。なぜか?

17世紀のフランチェスコ・レーディという学者の説。「蛇が水中では鰭をもたぬ魚の一種であり、陸上では巨大な尺取り虫の一種とみなせる」。

「イギリスではシェイクスピアの昔からヘビを虫の仲間と考えたし、中国や日本でも、『虫』の字は元来ヘビのとぐろを巻く姿を形象したものだった。つまり、多くの土地ではヘビは『虫』だったのである」

→ゆえに、19世紀までの西洋のヘビ図は、立って這う姿に。

☆ブラジルの原住民がパンツをはいた理由。ブラジルの原住民はもともと裸で暮らしていたが、西洋人と並んで暮らすようになってから、パンツをはいた姿で描かれている。なぜか?

「キリスト教との西洋人は原住民にこう教えるだろう。裸でいることは罪なのだよ、知恵をもつとは、自分が裸でいることを恥じるところから始まるのだ、と。そして、原住民は裸でいることを恥じ、パンツをはいて白人と暮らすようになった・・・のか?

この答えは、半分当たって、半分外れている。たしかに彼らは自分の裸を恥ずかしく思った。しかしそれは西洋の知恵を獲得したからではなく、西洋人のペニスのものすごさに恐れをなした結果であった、と考えたいのだ。西洋人に向けた、彼らのおどおどした目は、この図からも如実に感じられる」

→この後に続く、とどめのアラマタ解釈がすばらしい。あまりにもおやぢっぽいおかしさで、ここではもったいなくて書けない。

「ゴシップガール」シーズン1のボックス2をすべて見終える。

狭い社交界のなかでの駆け引きと仲間意識と虚栄と恋と友情と陰謀と家族愛がぐるぐるにねじりあいあって、さらにヒートアップ。ブレアとジェニーのバトルの行方が二転三転するさまに目が離せない。目の上のたんこぶを蹴落とすための、おそろしいワナをしかけていくブレアの率直な邪悪さが、なぜか憎めない。ブレアに振り向かれない腹いせに、ブレアを陥れるメールを流布させながら、「誰からも相手にされなくなったお前には魅力がない」と足蹴にするチャックの正直さが、なぜか「そういうものだろうな」と腑に落ちる。偽善のかけらもない。洗練された社交界を舞台に、野蛮に近い人間心理の闘いが展開する。親同士が恋愛したり結婚したりという複雑な関係も加わり、このくだらないかもしれない世界の異様な面白さはなにごとだろう、と引き込まれる。すっかり製作者のワナにはまり、シーズン2のボックス1&2を予約注文。

感覚のバランスをとろうと思ったわけではないが、たまたま知人が薦めてくれていて積読中だった、つげ義春の「大場電気鍍金工業所/やもり」(筑摩書房)を、移動中に読む。いくら描かれる時代が違うとはいえ、「ゴシップガール」の世界と同じ人間の世界とは思えない、貧乏と悲惨と不潔と愛なき欲情の世界が、淡々とシンプルに描かれる。虚飾のかけらもない、地べたをはうような生活を「ど」リアリズムで描く世界は、読み終えると、不思議にすがすがしい。

その秘密をとく赤瀬川原平の解説も、なっとくの読みごたえ。

「焦らず、力むことなく、全部同じスピードで、安全運転のように描き進んでいる」

「職人の快感のようなものを感じるのだ。仮りに貧乏と悲惨の中であっても、いつものように刃物と鋸を使っていくと、いつものように木製品がひとつきっちりと仕上がっていく。その流れがまったく無意味に快い」

◇「サライ」9月号発売です。連載「紳士のものえらび」でローナーの革小物について書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇「FRaU」9月号、本とマンガ特集。紹介されていた膨大な本とマンガのなかから、気になった本などをまとめて注文。近頃は、マンガ特集を組む一般誌や女性誌がとみに増えた。

本誌の「僕らが好きな女子キャラクター」の特集で、お笑い芸人の綾部祐二さんによるメーテル讃のことばのなかから―「勝負下着っていうのはですね、ファッション性をいかに削るかが重要なんです。メーテルみたいに、真っ黒もしくは真っ白で、”下着らしい”ものを着けてみてください!」

ランジェリーカタログ誌が紹介する勝負下着とか、下着メーカーがデザインとPRに並みならぬ力を入れる勝負下着とは、まったく発想が逆の方向。

◇松本一起『男は、こんな女性と恋がしたい』(三笠書房)。若い女性向けのハウツーものだが、「第一印象」について書かれたところが、新鮮だった。多くの女性誌が説くような、「第一印象で強いインパクトを与える」方向とは真逆を説いている。

「会った人に、あなたの印象を決して強く残さないことで、かえって『あの人が気になってしかたがない』と感じさせることができるのです」

そうさせるために、具体的に説かれるメイクがこれ―「目元、眉などは、あまりくっきりと輪郭線を描かずに、淡く薄く目立たないようにしてください。そして、そのトーンに合わせて、全体を仕上げていくのです」

「シャボン玉のような淡さをもって男性と向き合え」、と。ここにもまた、多くのファッション誌が説く「モテるためには、眼力メイク」がスベってしまうような指摘。

◇久々の霞が関。いつのまにか、おしゃれなダイニングスポットが・・・。

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今日中にやらなきゃいけない仕事の締め切りが2つありながら、どこから書いてよいかわからないままジレンマに陥り、鬱々と時間だけが虚しく過ぎていく。

そういときには、つい手近にある積読中の本を手に取ってしまう。今日、たまたま読み始めてしまった本がまずかった。東野圭吾『夜明けの街で』(角川文庫)。読み始めたらおもしろくて止まらなくなって、つい、最後まで、読了。

不倫初心者の40男の心理小説×それにスパイスを添えるミステリー、といった感の、楽しい小説だった。サザンオールスターズの、ヨコハマを舞台にした不倫の歌(たしか、赤いランジェリーがカバーの写真に使われていた)からイメージされた小説のようで、重過ぎなくて、楽しく読み終える。

軽いスタンス(と思わせる筆致・・・・・・これが実はタイヘンではあるのだけれど)でいいのだ、と楽観できて、無事、自分の仕事の締め切りもなんとかクリア。

不倫初心者の男というのは、初恋中の中学生以上に、愚かしくて初々しくてかわいらしくて情けない、とこの小説を読んであらためて思ったことであった。当人は切実なんだけど、という描写がリアルで、紋切り型の行動が生むコミカルな味わいがよかった。熟練者の、ふてぶてしい落ち着きの奥にある心理、というのを東野さんにぜひ次、書いていただきたい(笑)。

       

増田弥生・金井壽宏『リーダーは自然体』(光文社新書)読み終える。お気楽なOLだった増田さんが、外資企業の人事部門のトップとして活躍するまでになれた秘訣。

性格、周囲に対する態度、人生に対する楽観など、くりかえし説かれてきた「成功の秘訣」が、ひとりの女性の具体例のなかに、あらためて読み取れる。「映画みたい」なキャリアの進展ぶりを楽しみつつ、自己啓発のヒントが見つかる、というような一冊。

心に引っかかったことばの、備忘録。

・「彼女は一味違う。だから採らなきゃ(She is different. That is why we need her)」。

・「彼に対し、私は自分のよい面も悪い面も包み隠さず話し、思った通りをそのまま言い、疑問に思ったことは聞き、わからない点は確認しましたから、そういう態度が『違い』となって表れたのかもしれません」

・「思えばその日、私は『自分はプロです』と宣言したのです。誰かに公言したのではありません。私は今のままで大丈夫、ありのままでOKなのだから、プロらしく仕事をしなくてはならないと、自分に対して宣言しました。そうすると、次の日から、世界がはっきり変わって見えるようになったのをおぼえています。周囲の人たちが私に一目置いてくれ、プロ扱いしてくれるように見えました。これは錯覚でもなんでもなくて、私が変わったからだと思うのです」

・「何か特別なものを手に入れるのではなくて、今のままの自分で大丈夫だと信じることが『自信』」

・「コミュニケーションとは、自分の思いが相手に正確に伝わり、それが相手の具体的な行動につながって、ようやく完結するもの」

・「上司が部下に対して『なんべん言ったらわかるんじゃ』と言ったら、これは上司の敗北宣言であって、『言う』と『伝える』の違いをその上司はわかっていない」

・「リーダーには、『doing(何をするか)』もさることながら、『being(どう在るか)』も大切」

・「ありのままでいるとは、今この瞬間の自分を大きくも小さくも見せようとせず、いつも等身大でいて、仮面もかぶらず、何よりも自分自身に嘘をつかず、誠実にそのまま在るように意識すること」

・「『今ここ』の瞬間のありのままの自分でいると、自分の魂レベルと感情レベルと思考レベルがいずれもずれないので、周囲から見ても軸のぶれないリーダーとなり、職場での判断軸も明らかになってきます。リーダーがありのままでいないと、周囲の人も居心地が悪く感じて、自分のありのままを出しにくくなり、本来もっている力を発揮しづらくなると思います」

・「リーダーは自分の足りない部分を受け入れ、周囲にも見せて、助けを求めたり、感謝しつつ協力を仰いだりすべきなのであって、結局のところ、自己受容ができるかどうかの度合いは、その人のリーダーとしての器の大きさを表わしている」

・「出張で飛行機に乗ったときには必ず隣に座った人をチェックしましたし、泊まったホテルの従業員で優秀だと思った人には名刺を渡し、将来、転職を考えたときには連絡をくれるよう頼んだりしました」

自己理解と自己受容ができているうえで(ここ、重要)、率直でありのままで、周囲にオープン。仕事でリーダーシップをとるための秘訣であると同時に、たぶん、モテる秘訣のひとつでもあるのだろう(オープンネスが行きすぎて暑苦しくならなければ、の話だが)。「ありのまま」が好もしくあるよう、日頃一瞬一瞬の心がけと修練がいっそう大事ということでもありそうだ……。

◇行方昭夫先生『サマセット・モームを読む』(岩波書店)読み終える。岩波市民セミナーでの講義をもとに書籍化された本。行方先生の声がありありと聞こえてくるような、読みやすくてためになる一冊だった。

モームが日本に紹介されたときの経緯や来日時のエピソードも明かされる。当時の「モーム来日」騒動というのは、今なら「レディーガガ来日」みたいな扱いだったのだなあとイメージを重ねてみる。客層はまったくちがうだろうけど、セレブ来日に振り回される人たちのミーハーっぷりが、なんだか、変わらないなあ、と。

「人間の絆」「月と六ペンス」「サミング・アップ」「かみそりの刃」「赤毛 大佐の奥方」それぞれの作品の読みどころの解説が、楽しい。作品を読んでない読者や、話を忘れてしまった読者に対しても、、あらすじがわかるよう、講義が進んでいく。モームの人間観や、その解説を通した行方先生の人間観がちらりちらりと語られるあたりに、興味をひきつけられる。聴衆にもマニアックなモームファン&行方ファンが多かったようで、質疑応答のレベルも高い。

数々のモームの人生観の指摘のなかでも、心に響いたものがいくつかあり、以下、メモ。

・人生はペルシャ絨毯。人生に意味はない。明るい色ばかりじゃ絨毯は味気ない。暗い色彩、悲しげな模様もあってこそ、深い味わいのある豊かな絨毯が織り上がる・・・という「ペルシャ絨毯の哲学」。

・人間は不可解で矛盾に満ちていて、首尾一貫などしていないこと。

・恋が報いられるということは、めったにない、ということ。だから逆に、そういう恋を得られたら、この世は奇跡となり、人生に深い意味が与えられるように感じてしまうものであること。

エッセイ集「サミング・アップ」を時折、読み返すのだが、いつも感じるのは、モームは「正確」だいうこと。人間の心の動きのいや~な部分も、偽善など取り払い、率直にありのままに見て、「正確」に表現するのだ。読者の反感を買わず、ありのままに、正確な人の心の動きを記述する。自分でエッセイを書こうとするとわかるが、これはなかなか、たいへんなことなのだ。いやなやつだと思われたくないために、偽善のオブラートをかけてしまいがちである。でも、作品が普遍性を帯びるためには、シビアに正確さを追求する(そしてなお愛される)技芸が不可欠なのだと実感する。

◇朝日新聞17日(土)付の、磯田道史の「この人、その言葉」。堺利彦の巻。

「心の真実を率直に大胆に表すことを勉めさえすれば文章は必ず速やかに上達する」

たまたまモームの文章から考えていたことに響き合ったので、膝をうつ。

<真実を語ること><腹案>のほかに、<気乗り>が重要、という点にも、共感。「『よく寝る。散歩する。旅行する。場合相応の本を読む。他の仕事を片付ける』などして<自分の頭の機嫌を取って>調子のよい時に筆をとる。具体的に読み手を想像しその人に語りかけるように書くといい」。

◇「サライ」8月号発売中です。連載「紳士のものえらび」で「クリスティ」のタオルについて書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇「ミレニアム ドラゴンタトゥーの女」DVDで。ラングドン教授ものにレクター博士のテイストもちょっと入れた感じの、北欧の孤島の冷やっぽい空気のもとでの謎とき。残虐で陰惨なシーンも多々あり。ヒロインのミステリアスな過去もじわりじわりとわかっていくが、最後まで明解にはならない。「恋はしない」媚びない天才ヒロインの、いきなり服を脱いで馬乗りになる行動から始まる関係が、今っぽい。終わった後、べたべたしたがる男に対し、「さっさとあっちへ行ってよ」と背中を向ける女なんて、これまで映画で描かれただろうか?

◇キャリー・ブラックマン著「メンズウエア100年史」購入。スーツ、ワークウエア&軍服、アーチスト、グッドガイ&バッドガイ、スポーツプレイヤー、反逆者、ピーコック、メディアスター、カルチュアクラバー、スタイリスト、デザイナー、それぞれの系統にわけてこの100年のメンズファッションを追った写真集。男のファッションは、かくも多様で変化に富んでいることがよくわかる、眼福の一冊。

林真理子『グラビアの夜』(集英社文庫)読み終える。「一流ではない」仕事現場で、それなりにあがいたり、日々をしのいだりしているスタッフたちのそれぞれの物語が、生々しいリアリティで描かれる。大きな山場があるわけでもなく、感情がドラマティックにゆさぶられるわけでもなく、けっして読後はすかっと快いわけではない。でも、まさにそのテンション低めの殺伐とした感覚こそ、作者が狙った効果であるようだ。

巻末の瀧井朝世さんの解説が、そのあたりのもやもや感をうまく表現していた。<上昇志向がなく、熱情もないけれど、現実に穏やかに満足しているという現代人の姿勢を浮かび上がらせている>と。以下、瀧井さんの解説から。

「トップを極めるというのは、かなり面倒くさいものだと分かってきたこと。(中略)栄華を極めた人間は、賞賛や憧れの対象というより、足元をすくうターゲットとなっている」

「トップがすぐ入れ替わる時代なのである。芸能界も経済界も政界も、いちばん上に行き着いたら、後はひとつでも失敗したら奈落の底まで落ちるだけ。しかも、どこに落とし穴があるか分らない」

「一流でなくても、いい暮らしはできる。(中略)ヘタに出る杭になって打たれてすべてを失うよりも、地味だけれども使い勝手のいい人間のままでいたほうが、同じ世界で息長くやっていけそうな気もする」

タイトルのことばも、瀧井解説より。こういう時代においては、「上を目指す」ことがばからしく、そこそこのところでささやかに満足を覚えながらやっていければそれもまたいいではないか、というひとつの考え方。

そんな考え方が救いとなる人が大勢いる。そのような日本の現実に、どこかわりきれない思いも残る。

次世代産業ナビゲーターズのメンバーのひとり、服部崇さんから『APECの素顔』(幻冬舎ルネッサンス)をお送りいただき、さっそく読む。服部さんは経済産業省の、いわゆる「官僚」さんなのだが、巷の官僚のイメージ(実像を知らないでいうのもなんだが)をこころよく裏切る、さわやか系好青年である(世間の年齢基準では中年かもしれないが)。大学の同じ学部の後輩でもある。

この本は、服部さんがシンガポールにあるAPEC(アジア太平洋経済協力)事務所に勤務していた、2005年から2008年までの3年間の個人的な記録である。

公的文書ではない。かといって、個人的な思いの垂れ流しでもない。APECの活動が、「公人」であり時に「一個人」でもある服部さんの視点から、具体的に描かれる。公的文書的な硬さはやや残るのものの、APECの活動記録の合間合間に、個人としての熱い思いや考えやつぶやきが、ちらりちらりとはさまれる。

個の出し方が控えめである分、「APECっていう組織は、具体的にどのような活動をしているのか?」ということを知りたい一般読者にとっては、いやみなく読み進めることができるAPEC入門書ともなろう。政治・経済に疎い私でも、APECの活動に親しみを感じることができ、「アジア太平洋地域」と一口にいっても圧倒的な多様性があることを思い知らされた。ただ、一物書きとしては、どうせ個人の記録として書くなら、もっと遠慮なく「官僚の胸の内」をセキララに書いてもらってもよかったのに、と(笑)。

知らなかったことがずいぶんあった。以下、とくに勉強になったことをメモ。

・APECでは、参加国・地域を、「エコノミー」と呼ぶ。「国」じゃなくて、「エコノミー」!

・APEC事務局員もチャリティをする。事務局員が、それぞれがもちよった品をガレージセールで販売してお金を集め、それをベトナムの孤児院に寄付したというエピソードにはちょっとじ~んときた。

・ペルーのカソリック教会のマリア像の形状についての話。マリア像はドレスのスカートを大きく左右に広げて、二等辺三角形の形になっていて、さらにマリアの頭上に後光が差しているかのようにつくられているそうだ。これは、「かつてアンデスの山々を崇拝し太陽を拝んだインディオたち被征服民に、カソリック教会のマリア像を礼拝させるために編み出されたもの」であるらしい。

・熱帯のシンガポールでもマラソン大会がある! 気温28度、湿度85度だ。走るか?同僚のアドバイス、として書かれていた三箇条が、ウケた。「1.最初からとばさないで、ゆっくり走ること 2.途中で走るのをやめないこと 3.美女の後を追うようにすること」。

「美女かどうかは後ろからはわからないではないか」という服部さんのぼやきがおかしい。

・オーストラリアのケアンズのナイトマーケットで見かけたステッカーに書いてあったことば、として引用されていたフレーズ。『人生は息をした数ではなく、息をのんだ瞬間の数で計られる(Life is not measured by the number of breath you take, but the moments that take your breath away)」。

この本は服部さんにとっては、APECという大きな組織における波乱万丈の仕事を続ける中での、「息をのんだ瞬間」の記録、という意味合いもあるのかもしれない。

「王様の仕立て屋」4巻~7巻。服×人生のエピソード、よくこれだけ考えられるなあ・・・と感心しつつ、楽しむ。とくに印象に残ったことばをメモ。

・4巻<ミラノの春>

「ナポリは赤の他人でも紹介された次の日にはチャオと呼び合う街だ 人の心の垣根を払う雑把な風土が産み出したのがナポリ仕立てなんだ」「ダヴィンチだのストラディバリウスだのド完璧な芸術ばかり眺めてる方々にゃ解り難いか知れないがね ナポリは皺も楽しむのさ」

・同<アジアの旅人>ナポリの名士とイギリスの名士の、いずれゆずらぬ服談義がおかしい。

(伊)「私も一度 話のタネにロンドンでイギリス服を作った事があったが 三日と着ていられなかった 重くて窮屈でまるでコルセットだ 水を飲み下すのも難儀だから ダイエットには向いてるかもな」

(英)「服が窮屈でどこがおかしい! イギリス人はきりりと身だしなみをして自らに紳士たる矜持を刻み込むのだ 油だらけの料理で腹がせり出すに適した服など間抜けの極みだ」

(伊)「口を慎め若造! 腹がせり出す程物が食えぬとはいっそ哀れな事だ 白身のフライとスコッチしか受けつけぬ体なら 大人しく自分の庭でウサギでも追っているがいい!」

結局、主人公が仕立てたチノパンが和解の鍵になるのだが。

「イギリスの紳士は人前で滅多にジャケットを脱がないから イギリスのズボンはジャケットとの調和を焦点に仕立てられる」「片やイタリア人はジャケットを脱いでも格好よくありたいと思っている つまりジャケットを脱いだ後にもエレガンテを表現できるように仕立てるのですな」

・5巻<醜いアヒルの子>

「ブレザーにジーンズを最初に合わせたのは かのポップアーティスト アンディ・ウォーホルだ」「エドワード7世がズボンに折り目を入れたように ウィンザー公がセーターをゴルフウエアにしたように 掟破りが新しいファッションのスタンダードになった例はいくらもある そもそもラグビーの起源こそサッカーの掟破りだったんだ」

「あのスタイル(ブレザーにジーンズ)には裏話がありましてね あのスタイルはウォーホルが友人のフレッド・ヒューズを真似た物だという ヒューズは上から下まで全てをイギリス製で統一するイギリス気質で ヒューズが着るとリーバイスさえサヴィル・ロウ仕立てに見えたそうだ しかし知名度はウォーホルの方が圧倒的だったから ウォーホルルックとして定着してしまった」「受け継がれる伝統の中から 突然 発生する 革新のスタイルが心を自由にする ファッションってのは本当に不思議ですね」

・6巻<かあさんの歌>

「わざわざ仕立て屋に来る客ってのは 単に服だけを求めちゃいません 大なり小なり服によって変わる幸福を求めていらっしゃる」

・同<邪道の粋>

「邪道 屈折 大道芸・・・・・・ そいつあ歌舞伎役者にとっちゃ最高の褒め言葉でござんすよ」「”歌舞伎者”とは”傾く者”・・・・・・ とどのつまりは世の中を奔放にわたる無頼の表現でござんしてね 日本は徳川の御世に何度か贅沢禁止のお布令が出て歌舞伎も弾圧された歴史がござんす」「しかし やたらにお上の目が行き届く狭い日本で馬鹿正直に突っ張ったって面白くねえ そこで生まれたのがお上の見えないところに金をかける粋でござんす それでも裾からちらりと覗くのが奥ゆかしいんで 流石におっ広げて見せびらかしちゃ お里が知れますがね」

・7巻<ダンディの条件>

「(フレッド・アステアは)『ダンスの神様』と呼ばれた名優だが 体格は小柄で貧相だった だが彼はその体型を包み隠さない着こなしでダンディズムを見事に実践した」「格好のいい着こなしはまず自分の体型を認める事にある 意外かも知れないがダンディで名を残している人の多くは小柄だ 小柄ならではの軽快感や敏捷性がそのまま魅力にできるからだ」

ダンディと呼ばれた人は、みな世間的に「欠点」とされるものをプラスの価値に転じた人たちだった・・・・・・という話はおもにイギリス男を中心に扱った拙著にも書いたのだが。アメリカ人でもイタリア人でもたぶん日本人でも同じなんですね。欠点を魅力や長所に変える強さの秘密をうかがい知りたくて、もともとカンペキな美男よりも、はるかに興味がつきない対象となるのである。

◇「フラウ」12月号発売です。連載「ドルチェを待ちながら」で、近頃浮上してきたサステナブルなキャビアについて書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇たいへん遅ればせながら、片瀬平太『王様の仕立て屋』(集英社)、全巻一気にオトナ買いして、読み始める。おもしろい。『美味しんぼ』のスーツ版? スーツのうんちくに、さまざまな人の人生模様がからんでくるので、服に関心がなくても興味深く読める。まずは1~3まで、読了。心に引っかかった言葉を、メモ。

○1巻 「確かにおめえのスーツは完璧だ 合理主義のアメリカ人ならおめえの方を好むだろう だがイタリア式は完璧の中にわざと隙を作る たとえば肩のこの皺だ こいつは『雨降り袖』と言って昔ながらのナポリ仕立ての『粋』なんだ と言って下手な職人がこれをやったらスーツ全体がだらしなくなっちまう」

○2巻 「そこの店は堂々たるイギリス・スタイルを継承してて 政治家やら実業家が勝負服を作りに来る 相対した人間を威圧するような服が 先生の個性をとっつき難くしてるんですよ」

「妙なことを言うな 服など人体の装飾に過ぎん 私がとっつき難いと言うなら これが天より授かった私の個性なのだ」

「腕のいい美容師は眉毛を数本抜くだけで 客のイメージをがらりと変えてみせるという 個性の改革なんてほんのちょっとした事なんですよ」

○3巻 「いい仕事をした事なんて 一日で忘れなさい! 過去の栄光なんて角砂糖一個の栄養もないのよ!」

「人間が一番最初に作った人工臓器 それが服さ」

もっと早く読んでおけばよかった…と思うものの、ま、今からでも遅くはない。先々の楽しみがひとつ増えた。

開高健『人とこの世界』(ちくま文庫)読み終える。ケンさまが選んだ「人物」12人を、その作品とインタビューを通して描いた、ことばによる肖像画、といった感のあるノンフィクション。一語一文、たっぷり味わいがいがあるので、一日一人分ずつ、惜しむように読んで12日間かかった。

さいきんの本業界では「さくっと読める」とか「さらっと読める」のがホメことばみたいになっているようだが、そういう類のなかには、なにもわざわざ本にしなくも、というようなスカスカの代物も多くてげんなりすることがある。私はどちらかといえば、一語一文、立ち止まって何度も味わい返しながら次に行かねばならない本、つまり「さくっと読むわけにはいかない」本のほうが好きである。この1冊も、ケンさまパーソナリティ全開のこってりぶりで、真剣に一語一文につきあっていったので、読後の充実感も深い。(それでも、解説の佐野眞一氏によれば、「開高ノンフィクションの中ではずば抜けて抑制がきいている」という部類に入るらしい)。以下、なかでもとりわけ沁み入った表現を、ランダムにメモ。

*広津和郎の「散文精神」を高く評価して、それを後押しするかのように、「常識」礼賛の弁。「たとえば小説家に向って、おまえの作品は常識的だよ、というのは現代日本においては最大の侮辱である。作家たちは必死になってこの言葉をかぶせられないように工夫する。自分の内部にそれを破壊する何の衝動もないのに、ただもう常識的といわれたくない一心で”鬼”になりたがるのである。そこで大量の非常識的常識作品とでもいうべきものが続出することとなり、三行読んだだけで、少し気の利いた読者なら本を捨てて魚釣りに出かけるのである。(中略) 日本人が”常識”という字を見るときに感ずるのは≪おとなしい≫ということだろうと思う。ところがイギリス人はさらにこの言葉についての感性の鍛錬を経ているので、けっして油断しない。彼らにとって≪常識≫は、或る場合、≪抵抗≫や≪主張≫や、ときには≪破壊≫すらも含みうる言葉である」

*「事物の核心はときには事物そのものよりも、そのまわりに漂う匂いのようなもののなかにある。眼のいろや声にそのような匂いを匂わせることのできる人がいる」。

*大岡昇平の回。「残忍ないいかたになるが、戦争のあとではきっと技術文明が”進歩”し、同時にすぐれた文学作品が生まれる。大量殺戮のあったあとに人はかけつけて、『戦争と平和』を生み、『武器よ、さらば』を生み、『野火』を生み、前時代の文学の領域をはるかに深め、開拓し、広げる」。

*武田泰淳の回。「・・・・・・にもかかわらず母は黙々と生みつづけるのである。飢え、かつ殖える。殺し、かつ殖える。殺され、かつ殖えるのだ。人がいなければ戦争もできまい。とすれば、革命も反革命も子宮から排出されるのである。歴史をゆさぶっているのは子宮である」。

*金子光晴を評したことば。「漉しに漉された語群は白い頁のなかで空気を固めたり、ひらいたり、のびのびとうごいた。作者がカンやまさぐりで語を投げださず、容易ならぬ博識の曲者らしいのに思わせぶりやハッタリでメタフォアを使わないのが爽快であった。屈折をかさねたあげくの簡潔は深かった。嘆息。悲傷。嘲罵。沈思。揶揄。白想。いずれも」。

*今西錦司を表して。「どれを読んでもじつに透明である。垢や臓物がないのである。爽やかに乾いている。ときどきむきだしの剛健なユーモアがとびだす。それから局外者の私には知りようのないことだが、博士の文章を読んでいると、ほとんど傍若無人にのびのびしていて、学会にどう思われるだろうか、こう思われるだろうかと右見たり左見たりしたあげく衒ってみたり、謙虚ぶってみせたりという気配が、どうも感じ取れないのである。何かしらそこから吹いてくる風は独立、自尊の気風である。思惑と指紋でベトベトに穢れた文壇の文章ばかりを読んだ眼にはそれがとても気持ちがいい。おそらくそれは博士が即物の人であることからくるのだろうと思う。よほどの生の蓄電が生む透明にちがいない。しばしば非情なまでに透明である」。

*島尾敏雄の回。「おぼえているのはギラギラ射す夏の午後の日光のなかで氏が立膝をしながらガラス皿で生ぬるいウィスキーをすすり、なぜか、ぼそり、『人まじわりしたら血が出る』とつぶやいた声である」。

*同、島尾作品を評して。「凄惨がドラマとしてではなくていくつもいくつもつづいていくことを発見すると、絶望する気力も尽きてくる。絶望するということは或る種の意力を行使することだが、島尾さんは読者から最後の幻覚まで奪ってしまうのである。あらゆる作家は十人が十人、どんな陋劣、陰惨、絶望も、それを文字に移すときには、或る楽しみをもっておこなうのだが、島尾さんも厭悪をどこかで楽しみつつ書いている。傷口に塩をすりこむあのヒリヒリした楽しみである。その気配がうかがえるのでさらにやりきれなくなる」。

*同、島尾敏雄の回。「文字を書くことは一つの選択行為であり、人工であり、詐術である。それが選択行為であるからにはすでに誇張、歪曲の文学的意図が含まれている」。

ほかに、きだみのる、深沢七郎、古沢岩美、井伏鱒二、石川淳、田村隆一、それぞれの人物観察とインタビューによる鋭い像から、各氏の人となりがありありと浮かび上がってきたのだった。個人的には、カイコウ評する今西錦司のレベルは、あこがれである。

堀井憲一郎さんの『落語論』(講談社現代新書)読み終える。ディープに落語について書かれた本ながら、日本文化の見方をめぐるヒントや、広くパフォーマンスや表現に関する考え方のヒントが得られて、学ぶところが多い面白い本だった。

落語は花火と同様、その場を共有するライブとしてのみ存在しうるもので、文字や映像などのメディアを通して伝えられたものは落語ではない、ということ。落語に「深い意味」「核となる真実」などない、という点では、近代の原理に無言で抵抗する芸であること。場を共有することで成立するという意味では、「オレオレ詐欺」に通じるペテンのようなものであること、などなど。さらに以下、心に引っかかった点のメモ。

・落語には本来、タイトルはない。「符牒」があっただけ。仕事でしかたなくつけられた呼び名でしかない。意味ありげな長いタイトルをつけて人とは違うんだと力がはいってる作者なんて、子供にめちゃくちゃな名前をつける親のようなもの。「タイトルは道具であり符牒である」。

・登場人物にも名前がない。ニックネーム、呼び名があるだけ。人の内面とはつながっていない。統一性もなく、共通項を見つけ出す必要もない。これは「キャラクターを持たなきゃいけない病」とも連動することだが、一方向に統一性をもつことを示し続けなくてはいけないなんて、幻想だし、そんなのはもはや人間ではない。「落語は”厄介な存在である人間”をそのまま反映したものである。矛盾しているし、言ってることとやってることが違っている。言うことは変わるし、場面によって行動も違ってくる。それが落語である。そこに『統一性のあるキャラ=特徴的な性格と行動』を持ち込むと、落語が持ってる場が崩れる。ただのわかりやすい単純喜劇になってしまう」

・「サゲは合図でしかない」。「ここで落語が終わった、はい、あなたたちは現実に帰りなさい、という合図として、摩訶不思議な世界を作って案内したものが示しているわけである。ふつうの落語にしても、サゲがあるほうが、終わった感じがしていい、ということだ。サゲにはそれ以上の意味はない」

・落語にはストーリーもあらすじもない。落語は体験である。

・落語はペテン。「架空のもので人を騙すためには、なるたけ狭い所に大勢の人を閉じ込めて、生の声で語りかけるのがいい。ヒットラーは、夕刻から屋外で演説を始め、徐々に暗がりになっていくなかでライトを自分に集中して当てさせ、意味はよくわからないけどなんだかすごい、とおもわせることに成功した」。こういう基本的なペテンは、映像を通すと効き目が弱まる。

・「本当は客全体に『好かれたい』のであるが、みんなに好かれようとすると、なぜか嫌われてしまう。雑多な意識の混合である客全体に『好かれる』のはとてもむずかしい。だから、『誰にも嫌われていない』というのが理想の状態なのである」

・「客との和を以って貴しとなす。落語家の心得第一条である。ただ、形而上的な理想的な“和”をめざさなくていい。善である必要はない。その場かぎり、身過ぎ世過ぎとしての”和”である」

・「客との和を以って貴しとなす、ということは、客に彼我の区別をなるたけ感じさせないほうがいい、ということである。つまり、演者と客であるという距離をなくす。自他の区別をなくす。自他を感じさせないというのが、落語の究極の目的である」

・落語は近代的発展とは無縁のもの。「停滞期」のもの。現在、落語がブームになっているが、それも「20世紀的経済活動の発展が頭打ちになったからだろう。19世紀半ばから150年をかけて、日本人が駈け上がってきた頂上がこれだったのか、そうか、おつかれさんでした、という空気が、落語への流れをつくっているのだとおもう」

・ただ、「停滞」そのものも西洋さんのもんで、東洋は、もう少し無理をしない。ぐるぐるまわるだけで、上に向かっていない。

・「細かに分解し、全体像を捉えられなくなっても、核と法則を見つけ出そうとするのが近代的思考である。(中略) うちは猿と一緒にやっていける。だから、物事を芯まで剥かなくても生きていける」

・「落語が見せるのは『人として生きる全体像の肯定』である」

・落語は近代が主張する普遍性を拒否する。広げるな。「人は、さのみ、広がらなくてもいいだろう、という主張である。インターネットで世界につながり、飛行機で世界中へ飛べ、いつでも携帯電話でどことも連絡をとれようとも、人間一人の大きさは変わらない」

・「この顔を人前に晒して、それでおあしをいただいてるんだ、というのが顔に出てればよろしい」・・・それが「顔ができてる」ということ。「顔は看板である。大事な商売道具だと自覚しておかないといけない。顔のできてない芸人は、芸もまずい」

・「落語は集団トリップ遊戯」

・「その和は、その場でさえ納得できればいい。人類の発展に何も寄与しなくていい。人類の発展を阻害してもいい。いま、そこにいる人たちだけの和を貴いものとする。そしてその考えかたは、おそらく日本の芯とつながっている」

講義や講演のときにも応用できる考え方である。「何を話すか」もさることながら、「どう話すか」のほうが圧倒的に重要という点、落語がお手本になることも多い。場数を多くふんでいくしかないのだけれど。

ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』(金森誠也・訳、講談社学芸文庫)読み終える。買ってきてから本棚を見たら、すでに以前に同じものを購入していることに気がついた。途中で挫折していたらしい。しおりを見たら第二章の「大都市」の途中にはさんである。洋もの翻訳学術書特有の堅さになじめなかったのだ(それでも、この本を「軽めで読みやすい」と言っている方が少なくないことをおことわりしておかなくてはならない)。

今回は資料として必要というせっぱつまった目的もあり、気合いを入れて読んだ。第三章「愛の世俗化」、第四章「贅沢の展開」を先に読み始めてから最初にもどると、文体にも慣れて、すんなり入っていけたようだ。非合法的な恋愛、そんな恋愛に対する欲望と憧れが、贅沢を広め、資本主義を発達させ、劇場やレストランのある大都市を発展させていく・・・・・・という骨子はなんとかつかめた。

現在、私たちが享受しているような都会生活のメリットや、シーズンごとに変わるモード、かわいい小物やおしゃれなインテリア。そんな「あたりまえ」にさえなった「奢侈」のそもそもの起源が、違法恋愛にある!というのがなんといってもおもしろかった。「恋愛における違法原則の勝利」という見出しがいい。贅沢の発達・都市の発展に寄与したのは、合法的な愛(結婚)ではなく、違法な恋愛である・・・というのは、現代における、愛人とのおでかけ情報誌の盛況などを見ていても実感することである。以下、とくに引っかかったことばの覚え書き。

「愛妾経済」

「優雅な娼婦が進出してくるにつれ、折り目正しい婦人たち、すなわち上流階級の婦人たちの趣味の形成も、娼婦的な方向に影響されていった」

「個人的奢侈はすべて、まず感覚的な喜びを楽しむことから起こった。(中略) 感覚の喜びと性愛とは、結局、まったく同じものである」

「富がつみかさねられたところ、しかも愛の生活が自然さながらに、自由に(あるいは奔放に)くりひろげられたところでは、贅沢もまかりとおることとなる。ところがなんらかの理由で性生活の展開がはばまれた場所の富は、消費されるのではなく、物質の所有、すなわち財貨の蓄積、しかもできるだけ抽象的な形をとって、まずは未精錬の貴金属、そしてやがては貨幣を蓄積するためにだけ使われることになる」

「奢侈が一度発生した場合には、奢侈をよりはでなものにしようという他の無数の動機がうずきだす。野心、はなやかさを求める気持、うぬぼれ、権力欲、一言でいえば他人にぬきんでようという衝動が、重要な動機として登場する」

「(メルシエの引用)次から次へと新奇なものをめまぐるしく味わったところで、ふきげんな気分だけをもたらし、愚かな出費がかさむばかり。これがモード、衣装、風俗、言語を問わず、すべてのことがただ意味もなくつねに移り変わっていく根拠となっている。裕福な人々は、やがて何も感じなくなる境地に達する。(中略)欠乏が貧者を苦しめるように、奢侈が彼らを苦しめているのだ」

「すべての奢侈を生む二つの衝動力―野心と感覚の喜び―は、他人にこれみよがしにみせつけようとする贅沢を発展させるさいに、手をたずさえてくる」

「奢侈の一般的発展の傾向 (a)屋内的になっていく傾向 (b)即物的になっていく傾向 (c)感性化、繊細化の傾向 (d)圧縮される傾向(時間的な意味で。テンポが加速される)」

「初期資本主義に女が優位に立つと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になる」

「bijoux(小間物)は、当時は狭い意味での装飾品でなく、いわば金ピカの遊び道具、貴金属と貴重な労働でつくられた小さな宝であった」・・・つまり、現金はうけとらないけど、貴金属の小間物ならうけとるという恋人のために、紳士が買ってあげる贈り物がビジューだったわけである。<自分にごほうび>というビジューがやや切ない気がするのは、こういう起源による!?

「年寄りの独身者に見られるような情熱的な美食癖は、性衝動の一種の抑圧ではあるまいか。それなら男性の美食癖というのは、独身の老婦人がネコをかわいがるようなものではなかろうか?」・・・男ひとりでレストランを食べ歩いている美食家に、ぼんやりと感じていた違和感の正体は、これだったのか!

ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建てたのは、愛妾ラ・ヴァリエールへの愛情ゆえだった。多くのきらびやかなビジューは、男から女への愛の贈り物としてつくられた。モテる女は文化の発展・都市の発達・資本主義の進展の原動力だったのですね。でも、21世紀には家もビジューも自分で買えちゃうたのもしい女性が増えている。こんな女性が経済の「主役」になるにつれて、女から男への「現金に代わる贈り物需要」が増えてきたりなど、新しい奢侈文化が生まれてきそうな気配(ホストクラブなどではすでに常識?)。

携帯サイト連載の最終章のための資料をまとめて読む。婚活とファッション、モテとファッション、エロスとファッションっていうのは、実際のところ、どういう関係があるのか、ないのか。婚活にもモテにもエロスにもまったく縁がない、地味~な書き手としては生活実感を欠いたところからスタートすることになるのだが、それゆえ逆に、「なまぐさく」なく、主観やルサンチマンに流されずに書ける、というメリットはあるかもしれない(なまぐさいのが好きな読者には物足りないかもしれないが・・・)。資料として読んだ本のなかで、直感的に気になったことを覚え書きまで。こうしてメモしておくと、頭のなかで勝手に「発酵」したり、ほかのデータと想定外の化学反応を起こしたりして、あとから思わぬところで生きてくることがあるんです。

○白川桃子・文、ただりえこ・漫画『結婚氷河期をのりきる本!』(メディアファクトリー)。モラトリアム王子と別れ、結婚に対する意識革命を起こし、結婚市場に乗り込み、さまざまな「婚活」をし、自分からプロポーズして「ゴール」にたどりつくヒロインの物語の進行にあわせ、具体的な方法のポイントが解説される。恋愛観・結婚観がひとむかし前とは確実に変わっているんだなあとわかる、楽しい本だった。

「最初のきっかけ作りは『女子から』が基本。狩りに行かなければ、恋人はできません」

「王子様は、ガラスの高い塔に閉じこもっています」

「男の沽券をはずした男子が買い!」

「(プロフィールカードには)男子が話を広げられそうなネタを書くこと。趣味=華道、茶道などは、今どきピーアールにはなりません。それよりも『サッカー観戦が好き』だとか、男子にもわかりやすいものを」

「(お見合いパーディーでは)スカートで行くこと。どんなファッションか迷う人は、こういう時こそ雑誌『Can Cam』がお勧めです。男受けファッションとは、ちょっとダサイぐらい、わかりやすいのがいいのです。もちろん足元はヒール!」

「玉の輿を射止めた女子がいました。『擦り切れたバッグを持っていた』ことが、セレブ男子の目に留まったとか(笑)。そう、お金持ちはケチなのです! (中略) あまりに高いブランド品を持つのも、得策ではないかもしれませんね」

「一緒に生活する男に必要ないのは、『学歴』『肩書き』。女子がキャリアなら『高収入』すら必要なし。『ワインに詳しい』とか『おしゃれなお店やブランドに詳しい』『プライドやコンプレックス』も、もちろん不必要」

「ワインがわかる人よりも、『火が起こせる人』『魚がさばける人』の方がアピールできます」

「結婚に至る出会いの基本は『囲いこみ』『時間の共有』『目的の共有』です」

「今は男女とも、『私に何をしてくれる?』と様子見をしています。それをやめて、先に『はい!』と笑顔で差し出す人が、結婚をつかむのでしょう」

○門倉貴史『セックス格差社会』(宝島SUGOI文庫)。所得格差が恋愛格差を生んでいること。高収入ほどセックスレスになりやすいこと。貧困と「できちゃった婚」、それによる貧困の再生産というスパイラル。中年童貞と負け犬が市場経済に及ぼしている効果。人口減少社会と国際結婚。などなど広範にわたり現在の状況の見取り図を示す。が、なんだかデータから結論にいたる因果関係分析の過程が、あまりにも一元的で短絡的過ぎて味気ない気がした。見取り図を示すには、このくらいの強引な単純化が必要だったんだろうか?

独身男性が結婚相手を探す際に重視するのが、女性の容貌→化粧品市場と美容整形市場が大きくなっている、という説明。

男性優位社会が崩壊し、性差の違いがメルトダウン→男性的アイデンティティからの逃避を背景にしたニューハーフの増加、という説明。

男性優位社会の崩壊→大人の女性が「女らしさ」を失っていく→「ジュニアアイドル人気」という因果関係の説明。

・・・そんな乱暴な。ちがうな~と反論する当事者もいそうな気がするのだが、それをいちいちとりあげるとこの分量の新書にはおさまらないんだろうなあ、ともぼんやりと思ったり。

○斎藤薫『されど”服”で人生は変わる』(講談社)。「彼との運命度はカジュアルの相性で決まる」とか「別れ話の服」とか「倦怠期に着るべき服」とか。こちらもやや短絡的な因果関係の説明はときどきあるものの、一理ある話ではあるよなあ、と興味深く読んだ。斎藤さんはとにかく有無を言わせずにぐいぐい読ませるのがすごい。

○山田昌弘&白河桃子『「婚活」時代』(ディスカヴァー携書)。ブームを生む契機になった本。いちばん最初に挙げた白河さんの本とかぶるところも多かったが、これはこれでキーワードの解説が多く、わかりやすかった。

「女性経験値が浅い人ほど、女性に対するビジュアルの要求水準が高い」

「高いビジュアルレベルを求める見た目重視社会は、カップリングの成立にマイナス」

「性欲よりもプライドが大事なガラスの王子様」

などなど、納得の決めフレーズも多。

それにしても、現実にべたっと密着した散文的な本ばかり読んでるとなんだかどっと疲れる。うそくさい本が読みたくなってくる・・・。

開高健さんの『一言半句の戦場』(集英社)読み終える。単行本未収録の開高コラムや対談などを編集した587ページのぶあつい本。半年以上前からずっと枕元に置いて、眠る前にちょっとずつ読んでいた。お宝写真もちりばめられている。船の上でも酒場の片隅でも畳に寝転んでいても、どんな格好をしていてもカイコウケンで、いちいち愛嬌があってシブくて絵になっている。もっと生きていてほしかったなあ。新潮文庫の『開高閉口』に帯のコピーを書かせていただいたほどの大ファンなのである。『一言半句』も、読み終えるのがさびしい、離れるのがつらい、楽しい開高ワールドだった。

とりわけ面白かったのが、淀川長治さんとの対談。「いい顔ね、あんた」とほめちぎりつつ迫る(?)淀川さんの前に、さすがのカイコウさまもたじたじとなっているところが、おかしくてたまらない。淀川さんのカイコウ評もさすが、スパッと鋭いのである。

「この人、いつ原稿書くのか思うぐらいタフな人で、私は日本の男性でこのぐらいタフで、このぐらいサッパリしていて、このぐらいキザじゃなくて、このぐらい好色的なくせに好色的でなくて、こんなん珍しいと思います」。

好色的なくせに好色的でない。そうそうそう。そういうところが好きなのである。たしか帯のコピーにも「雲古、御叱呼を書いて清潔・・・」というようなことを書いた記憶があるが、不潔なのは対象をそのように見るコチラの目であって、対象そのものではない、ということをカイコウさんは教えてくれる。

巻末、谷沢永一さんが、カイコウさんの強運っぷりについて綴っている。天性の無邪気と才能と強運に恵まれていた人だったのだなあ、と納得させられる反面、「書けない」ときの苦しみ&それを乗り越える努力も半端ではなかったのだと知る。「その、開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である」のラストのコピーが泣かせる。

「放射能を持った文章を書こう」

「父を疑え、母を疑え、師を疑え、人を疑え。しかし疑う己を疑うな」

「動機が問題になるのは結果がまずい時だけ」

「風俗は変わるけど本質は変わらない」

「読者と著作者はあわないほうがいい(ゲーテ)」

「小説家になるにはピアノ線のようでないといけない」

などなど名言も多。

◇東理夫さんの『グラスの縁から』(ゴマブックス)読み終える。いつも持ち歩いて少しずつ読み進め、一か月ぐらいかかってゴール。時間をかけたのは、「この本の世界から離れるのがいやだ」ということもあった。シブくて、ジャジーで、ピリッとしていて、ハードボイルドなんだけどサービス精神たっぷりのシャイな愛にあふれている。好きだなあ。

ちょうど私が日経新聞に連載していた時期も期間もほぼ同じころ、東さんもこのコラムを連載なさっていたようだ。7年半とのことなので、半年間分、東さんが長い。連載中は、「グラスの縁から」と「モードの方程式」を楽しみにしています、とおっしゃってくださる読者の方がとても多く、東さんにはたいへん失礼なことだが、ひとり勝手に戦友のようなイメージを抱いていたのであった。

酒&ミステリー&アメリカ文化&映画がカクテルになったようなコラムのあとに、毎回「サイドオーダー」として本や酒瓶の写真とともに220字ぐらいのひとことコメントが紹介されている。これがまた楽しい。これだけの字数で読者をクスッとさせたりうならせたりすることはかなり難しいことなのだが、それをさらっとやってのけてくれる。うれしすぎる。

なかでもいちばん笑った「サイドオーダー」は「文豪の作ったカクテル」の回についていた文章。

「煙草をやめた時、これからは人生の半分しか生きないんだぞ、と友人に言われた。それと同じように、酒を飲まないのも、人生の半分しか生きていない、とも思う。となると、酒の本も酒そのものもない人生とは、倍の四分の一になってしまうのだろうか。かといって四分の四の人生でも、そう面白くないけれど」。

・・・・・シブく決めましたね。

「老後の酒」の回のサイドオーダーにも名言発見。

「紳士は身分ではなく、心意気だろうと思っている。どんなに高貴な生まれでも紳士でないやつもいれば、どれほど貧しい出自でも、紳士だ、という人がいる。田舎者、というのが地域のことを言うのではなく、その人の生きようをさしているのと同じだ」。

「生きよう」という表現がまたいい。センスがない人はここで「イキザマ」と書いたりするんだけど、そんな野暮な書き手ではないのである。

「なぜ酒を飲むのだろうか」の回は、酒飲みならばみんな深くうなずくであろうトマス・ラヴ・ピーコックのことばが紹介されている。

「『酒を飲む理由に二つある』と彼は、1817年に発表した風刺小説『メリンコート』で書いた。『一つはのどの渇きをいやすため』・・・(中略)・・・、『もう一つはのどの渇きを予防するため』。膝を打ちたくなってくる。そしてこうつづく。『わたしはたぶん、渇きを予測して飲むのだろう。予防は治療よりいいからだ』。その後がいい。『「魂は」聖アウグスティヌスは言った。「渇きの中では生きていけない」と。死とは何か。塵であり灰である。乾き以外の何ものでもない』」。

覚えておけば、酒飲みの言い訳として、申し分ない。

ただ、「シャンペン」の表記だけが、どうにもこうにも引っかかった。これは東さんの問題ではなく、慣例的に用いられている日本語表記そのものの問題だと思うのだが。「シャンペン」って字面で見ても、耳から聞いても、まったくへなへなの薄い酒のイメージしか浮かんでこないじゃないか。このお酒をこよなく愛する私としては、ぜったいこんなふうに発音したくない。せめて「シャンパーニュ」ぐらいにしませんか。これじゃあ、気どりすぎに聞こえる?

◇親族で墓参。毎年、暑さで汗だくの中の墓参りなのだが、今年はカーディガンを羽織る必要があるほど肌寒かった。この気候は異常だ。稲の穂もまだ短くて青い。農作物、大丈夫だろうか。

外山滋比古さんの『思考の整理学』(ちくま文庫)読み終える。20代のときに読んでいたはずなのだが、きれいに忘れている。というか、たぶん20代のときにはピンときていなかったことが、今であればこそしみじみ納得できるのだろうなあ・・・・・・というところがたくさんあった。

忘れることが「古典化」に不可欠という考え方が強く印象に残った。「忘れたくない」ので(笑)メモしておく。

「"時の試練"とは、時間のもつ風化作用をくぐってくるということである。風化作用は言いかえると、忘却にほかならない。古典は読者の忘却の層をくぐり抜けたときに生まれる。作者自らが古典を創り出すことはできない。 (中略) きわめて少数のものだけが、試練に耐えて、古典として再生する。持続的な価値をもつには、この忘却のふるいはどうしても避けて通ることのできない関所である」。

人の思考を「古典化」するためは、こんな自然の忘却のふるいを待っているわけにはいかない。人為的に忘れろ、どんどん忘れて思考を古典化せよ、と外山さんは説くのである。

「忘却は古典化への一里塚」「生木のアイディアから水分を抜く」など、思わず座右の銘にしたくなる言葉が満載。ほかにも名言あり。

☆「ひとつだけでは多すぎる」―複数のテーマを同時に進めたほうが、煮詰まることもなく、頭も伸び伸びと働き、思わぬセレンディピティを得られるなどの利点があることは、経験からもよくわかる。

☆「没個性的なのがよい」―素材たちに化学反応を起こさせて独創的なアイディアを得るためには、考える本人の自我や個性などが強く出ないほうがいい。今後、心がけたい最大の課題。

☆「ほめられた人の思考は活発になる」―中傷は心を「殺す」ことに等しい、とは経験からの実感。「どんなものでもその気になって探せば、かならずいいところがある。それを称揚する」というすすめに共感。

☆「思考を生み出すにも、インブリーディングは好ましくない」―インブリーディングとは近親結婚のようなもの。異質な要素がかけあわされてこそ新しい風が入る。

☆「発明するためには、ほかのことを考えなければ、ならない」―なにかほかに拘束されることがあって、心が遊んでいるような状態のときに、よい発想が浮かぶ。

☆「人間には拡散と収斂というふたつの相反する能力が備わっている」―読んだものを自由に解釈して、尾ヒレまでつけていくのが拡散。筆者の意図を絶対として「正解」に向かおうとするのが収斂。「読みにおいて拡散作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはならない。古典は拡散的読みによって形成される」。

一方、「拡散のみあって収斂することを知らないようなことばがあれば、それは消滅する」。

背骨に太い支柱を添えてくれるような1冊。迷ったら、また読み返したい。

ビー・ウィルソンの『食品偽装の歴史』(高儀進・訳、白水社)読了。「フラウ」連載のネタにと思って読み始めたが、「ドルチェを待ちながら」こんな話題をふられたらぜったい食べる気なくすよな、っていう話のオンパレードで、コワ面白かった。とりわけアプトン・シンクレアの小説『ジャングル』(1906年)のソーセージ工場の描写ときたら・・・・・・。

1820年代、産業革命とともに問題になり始めた、食品偽装の歴史。偽装そのものはローマ時代からすでにあったのだが、大量生産時代に入り、「利益」が追求されるなかで、信じがたいような偽装がエスカレートしていったようだ。

偽装が必ずしも悪とかぎらない、と考えさせる視点も豊富で、「何が善で、何が悪なのか?」と頭がぐるぐる回り始めてくる。それがこの本の面白いところ。

有機栽培でつくられた原料をつかったものには必ず昆虫が一定の割合で混ざることは避けられず、昆虫の入らない製品を作ろうと思えばどうしても殺虫剤を使わねばならない。どっちがいいんだろうか・・・(涙)。

新しいことばもいろいろ学んだ。以下備忘録として、ランダムに記しておきます。

*「深鍋の中に死がある」――19世紀の食品安全運動のスローガン。ピクルスが銅で緑色になっている、胡椒には掃き寄せた床の屑が混ざっている、菱形飴がパイプ白色粘土から作られている、紅茶がリンボクの葉でごまかされている、というような、命にかかわる食品偽装を警告するスローガン。19世紀にはほかに、カスタードに風味を加えるために危険な西洋博打木の葉を使う、チーズの発色をよくするために染料を使う、パンを白くするために漂白剤を使う、というようなことがおこなわれていた。

流通経路が複雑に枝分かれすればするほど、どこに偽装の源があるのかわからくなってしまうのは、現代にも通じる話。

*「買い手危険負担」(caveat emptor)――もし消費者が偽装品を選んで買うなら、それは消費者の責任である、という議論。

たとえば、「現代の露天売り場で、売り手が<デザイナー>香水を信じがたいほど安い値段で売りつけてくれば、ちょっとでも考えると、それは盗品か偽物に違いないのがわかる。それでも買うなら、買い手は欺瞞の共謀者になる」

*「食品恐慌」疲れ――ある週は「油分の多い魚をもっと食べるべき」と推奨され、翌週は「油分の多い魚を食べ過ぎると水銀中毒になる」と脅される。そのうちに、人はそういう記事を読むと目がどんよりしてくる。これが食品恐慌疲れ。新聞は恐怖を商売にし、読者は、デマと真実を区別するのが難しくなる。

*「純正食品会社」――1881年、悪質な食品偽装に戦おうとして、ハッサルがおこなった食品改造計画。「純正」な食品だけを売り出したが、会社はつぶれた。モノは純正だったかもしれないが、まともな「食べ物」ではなかったのである。欺瞞を憎むあまり、おいしい食べ物の必要を忘れたという皮肉な結果が待っていた。(・・・正しさの追求は必ずしも幸せをもたらさないのだなあ・・・)

*「代用食品病」――戦争中、代用食品は、資源を保存する愛国的な手段として奨励された。灰はきれいな包みに入れられて「代用胡椒」。挽いたクルミの殻を入れたものを「コーヒー」と呼んで飲むのは、良き市民のしるし。飢えと不気味な代用食品を食べることが一緒になって生まれたのが、代用食品病。その代用食品の多くは「動物の消化不能の残骸」を含んでいた。(・・・こわすぎ・・・)

*モック食品――本物そっくりに見せる、見せかけ食品。戦争中に発達。モック・クリーム(ゼラチンを混ぜた無糖練乳)、モック・チョップ(すりつぶしたジャガイモ、大豆の粉、タマネギ)・・・・・・まともな味を出すよりも、本物に見えるような視覚効果が強調されるようになっていった。食卓での「幻想」が士気を維持するのによい方法。配給制度が何年も続いた結果、まやかしものの代用食品に人々が慣れてしまって、戦後、以前よりもそれを食べるようになってしまった。低価格で食品が自由に選択できるという幻想を、代用食品が与えてくれたから。1960年代には、果物屋で「すてきな熟成梨――缶詰と同じくらい美味!」という掲示が出るほど。(・・・缶詰みたいにおいしいフレッシュフルーツ、というものが売り物になる皮肉!・・・)

*オーソレクシア――ひたすら正しい食事をすることに取りつかれる病気。エコロジー的にもっとも健全な食べ物を食べたいと願うあまり、極端に限られた、社会的に孤立した食餌で生きていくことになる。自然食品は一切の分別を捨て、「有機」というブランドの純正を信じ込めと暗黙のうちに促す。しかし、分別を捨てるというのは、騙されたくなければ、最悪のこと。多くのすぐれた食品は自然食品である。が、すべての自然食品が優れているというわけではない。

欺瞞と戦い、食べ物の安全を守り、おいしさを楽しみ、分別を失わずにすむ正しい方法は? 著者はいちおう「正論」を提示してくれるが、その実行の難しさも同時に感じたのであった。

ダナ・トーマスの『堕落する高級ブランド』(講談社)読了。原書の”Deluxe:How Luxury Lost its Luster”は2007年に出た時にすぐ買っていたのだが、とかく分量が多いのと、書かれていることがシリアスで濃いので流すことができないために、読了できないままでいた。このたび実川元子さんが読みやすく翻訳してくださったことに、感謝。

こんなことまで書いてしまって、ダナ・トーマスはファッションジャーナリストとしてやっていけるのだろうか?と心配になるほど赤裸々なブランド戦略の舞台裏が書かれている。読者としては小気味よいのだけど。えげつないくらいの、セレブを使ったパブリシティ作戦、それにあさましく便乗するセレブが、実名入りで書かれている。これを読んでしまったら、「レッドカーペットの女優のファッションチェック」なんて記事、書く方も読む方もあほらしくてやってられなくなるだろう。裏を知れば、うっとりなんかしてる場合ではない。

コストを削減し、利益の幅を大きく出すために、中国でいかなる製造がおこなわれているのかも、暴かれる。「メイド・イン・イタリー」や「メイド・イン・フランス」も実はほとんどが中国製、というからくりも、容赦なく明らかにされる。これを読んでしまったら、広告のイメージに洗脳され、大枚はたいてありがたがってブランドバッグを買う行為が、いかに愚かしくてばかばかしいことか、目が覚めるだろう。利益はほとんど、一握りのトップだけに行く仕組み。

大量の売れ残りをさばくアウトレット誕生の経緯を知ってなおブランドが欲しくなるということも、ありえなくなるだろう(たぶん)。

現在、世界のどこへ行っても、どのブランドも同じように均質的に大衆化してしまった。マクドナルドみたいになった、というトム・フォードのことばが鋭く現実をとらえている。

大衆には手の届かない高級品をわずかな顧客のために誇りをもってつくっていたラグジュアリーブランドから、大衆的な均質商品を大量に提供するグローバル企業へ。そんなブランドの変遷の歴史がよくわかる、骨太な一冊だった。ブランド・コントロールをおそれないダナ・トーマスの志の高さに敬意を表する。ブランドのご機嫌うかがいしながらタイアップ記事ばっかり書いている(書かされている)日本のジャーナリストも少しは見習わねば。自戒をこめて。

思いもよらなかった視点を提示され、世界の見え方ががらりと変わる・・・という経験はやはり読書の最大の楽しみである。おそまきながら、福岡伸一さんの「動的平衡」を読んで、「おお」と世界が違って見える面白さを味わった。とくに印象に残ったことば、内容などを、個人的な備忘録としてメモしておきます。

・直観が導きやすい誤謬を見直すために、あるいは、直感が把握しづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ、勉強を続けるべき。それが私たちを自由にする。

・胃の中は「身体の外」! 食べ物が「体内に入った」ことになるのは、消化管内で消化され、栄養素が体内の血液内に入ったとき。だから、消化されていない食べ物は、胃の中にあっても、「体外」にあるのと同じ。つまり、胃は体外。子宮も同様。

・合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、生命は環境に適応するよう自分自身の状態を調節することができる。これはまさに「生きている」ことと同義語。

・サスティナブルとは、常に動的な状態のこと。一見、堅牢強固にみえる巨石文化はやがて廃墟と化すが、リナべーションを繰り返しうる柔軟な建築物は永続的な都市を造る。

・コラーゲンが食品から、皮膚から、そのまま吸収されることはありえない!私たちには「身体の調子が悪いのは何か重要な栄養素が不足しているせいだ」という、不足・欠乏に対する強迫観念があるが、こんな「イン」と「アウト」をつきあわせただけの線形思考からは、生命のリアリティはみえてこない

・世界のあらゆる場所に、容易には見えないプロセスがあり、そこでは一見、混沌に見えて、その実、複雑な動的平衡が成り立つリアリティが生じているはず。

・生命は、何らかの方法でその欠落をできるだけ埋めようとする。バックアップ機能を働かせ、あるいはバイパスを開く。そして、全体が組み上がってみると、なんら機能不全がない。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体のバランスを保つ機能――それを、動的な平衡状態と呼びたい。

・カニバリズム(人肉食)がほとんどの民族でタブーとされてきたのは、私たちを病原体から守る働きのある「種の壁」を無視する行為だから。ヒトを食べるということは、食べられるヒトの体内にいた病原体をそっくり自分の体内に移動させること。その病原体はヒトの細胞にとりつく合鍵をもっているのだ。だから、ヒトはヒトを食べてはならない。

・私たちの身体は分子的な実態としては、数か月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく

・流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということ

・可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」である。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。

・サスティナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。このように考えると、サスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。サスティナブルなものは、一見、普遍のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、ずっとあとになって「進化」と呼べることに、私たちは気づくのだ。

個体というのは本質的には利他的なあり方。生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生命が必ず死ぬというのは、利他的なシステム。これによって致命的な秩序の破壊が起こる前に、秩序は別の個体に移行し、リセットされる。

・アンチ・アンチ・エイジングこそが、エイジングと共存する最も賢いあり方。

・私たちは今、あまりにも機械論的な自然観・生命観のうちに取り込まれている。インプットを2倍に増やせばアウトプットも2倍になるという線形的な比例関係で世界を制御することが至上命題となる。その結果、私たちは常に右肩上がりの効率を求め、加速し、直線的に悩まされる。それがある種の閉塞状況を生み、様々な環境問題をもたらした。

・自然界は、渦巻きの意匠にあふれている。巻き貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目、そして銀河系。渦巻きは、生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのもの。

社会のあり方、個人のあり方、人生観まで考えなおさせ、アンチエイジングブームに警鐘をならし、「なぜ人を食べてはいけないのか?」という問いにまですっきりと答えをくれる。いろいろなヒントに満ちた、よい本でした。

☆「クロワッサン」(マガジンハウス)から著者インタビューを受ける。「愛されるモード」をとても気に入ってくださり、丁寧に読みこんでくださっていた。スケールの大きい福岡さんの本を読んだあとでは、「(自分の書くものなど)足元にも及ばないなあ・・・」と思っていただけに、次はもっとがんばろう、と少しだけ元気がわいてきた。まだまだ先は長いのだが。編集部に心から感謝します。